第21話
「伊藤ちゃん、お疲れ様」
その頃、第三格闘部陣営。黒木はいかにも機嫌が悪そうな伊藤を隣に座らせ、指示を出そうとしていた。
「相手は前も言ったとおり初心者だよ。なんで苦戦してるかわかる?」
「……初心者のわりにちょこまか動くのと、パンチが速い……」
伊藤はぶすっとしたまま答える。もともと細い目をさらに細めているため、ちゃんと見えているのか見えていないのか傍からはわからないほどだった。
「そうね。ブローはフォームが綺麗だから速く感じるんだと思うけど。とにかく回避型の基本に忠実で、やりにくい相手ねぇ。どうしよっか、次のラウンド」
自分からは正答を言わず、あくまで対話の中で生徒に見つけさせようとする黒木。
伊藤が少し悩んでから
「……相手は教科書どおりだから、こっちは少しセオリーを崩して」
と呟くと、黒木は頷き補足する。
「うんうん。何も相手の土俵で勝負する必要ないわね。相手が気持ちよくプレー出来るのは、こっちがセオリー通り動いてくれるから。予想外の動きを見せれば、相手だって落ち着いてはいられないでしょ。伊藤ちゃんは駆け引きに疎いところがあるから、こういう考え方を常に持って欲しいの。オーケー?」
無言で頷く伊藤。
審判がフィールド上で合図をした。すぐに第2ラウンドが開始されるのだ。
黒木が伊藤の背中を軽く叩き送り出してやりながら、
「それじゃガードを固めて、相手の脚を狙っていきましょう。大丈夫、付け焼刃の実力なんて、すぐに剥がれるんだから」
と嘯き、狡猾な笑みを浮かべる。
第七格闘部陣営には、審判の合図を受けてフィールドへ戻ろうとする由紀の姿。
早川は彼女を送り出すように声をかけてやる。
「次のラウンドは向こうも出方を変えてくるだろうけど、慌てず練習通りの動きで対処していくぞ」
「わっかりました」
由紀は頷いて早川に背を向ける。
「いってこい!」
早川の飛ばした激に応じて由紀は颯爽とフィールドの中心に戻っていく。
そんな由紀を相手の伊藤は待ち構えていた。
2ラウンド目以降はお互いのグローブを付き合わせる動作は必要ない。
由紀と伊藤の距離が3メートル以下になった時点で、審判が両者の様子を確認し笛を吹く。第2ラウンドが開始されたのだ。
開始直後、由紀は怪訝そうな表情を浮かべる。
(あら、さっきとフォームが違います)
伊藤は腕をたたみボディをしっかりと守っていた。腕をたたんでいる以上素早い攻撃は出来ないはずだが、同時に由紀にとっての有効打撃部位も著しく狭まっている。
これほど固く守られると、由紀の技術ではボディを狙えない。
それだけならまだ由紀にも対処のしようがあったのだが、
「はっ」
両腕でボディの防御を固めたまま由紀に接近する伊藤。
彼女は上体を後ろにそらせながら、右足で由紀の脚に蹴りを入れようとする。
シューズの上縁から太腿の下半分までは1ポイントの有効打撃部位であり、伊藤はそこに狙いをつけてきたのだった。
由紀は咄嗟に後ろに下がって距離を取るが、勝手の違いに動揺を隠せない。
伊藤の動きは変則的で、ボディを打たれないように足先だけでチクチクと攻めてくる。
上体を後ろに引いているため、由紀のクイックブローは届きそうにない。由紀は歯噛みせずにはいられなかった。
(ボディがあんなに遠くにあるんじゃ、腕を出しても反撃に繫がらないし……)
伊藤は一気に近づいては脚払いするように由紀へと襲い掛かる。その度に由紀は後退し難を逃れるが、徐々にフィールドの淵に追い詰められていく。
フィールド脇の待機席にて、相手方の意図を理解した早川も歯がゆそうに呟く。
「なるほど、脚が弱点だと踏んできたか」
「時間が無かったから、キックの対処までは練習できてないもんね……」
隣には茜が座っている。麻衣はまだ戻ってきていないのだった。
「実践できるかは別として、ああいう戦法への対処法がない訳じゃないんだが」
苦々しく呟く。試合中の選手への助言は禁止されている。対処法を今伝える事は出来ないのだった。茜がわざと明るく振舞って
「でもでも、このラウンド逃げ切れば次の休憩中に教えられるよ」
と言うのだが、早川の顔色は優れない。
「まずいな……。脚に気とられてブローでの牽制を忘れてる」
早川の見つめる先。先ほどと同様にじりじりと蹴り技でにじり寄る伊藤と、必死に逃げる由紀の構図である。
由紀はかなり動揺してしまっていた。
(うわわっ。これ以上下がれないし、一体どうしたらっ?)
由紀が慌ててライン際から逃れようとした所で、伊藤の足先が由紀の脚に直撃する。
その瞬間、状況が一転した。
由紀が足への打撃を受けてバランスを崩した直後、伊藤が急激にペースを上げる。
前傾姿勢で由紀へと接近し、その懐に飛び込んだのだ。
由紀は足技を警戒していたため咄嗟に牽制のブローを出せず、簡単に接触を許してしまう。早川の指示した回避策により拒絶され続けてきた至近距離での攻防。伊藤はついにその土俵へ由紀を引きずり込む事に成功したのだ。
「手ぇ出して逃げろ、由紀!」
早川は思わず声を張り上げてしまったが、由紀を含め選手や審判には聞こえていない。
同じタイミングで第三格闘部陣営。そこには満足そうに頷く黒木の姿があった。
「やっと捕まえたか。さて、獲物は逃がすんじゃないわよ」
彼女の呟きが聞こえているかのように、伊藤は一気にリズムを加速させていく。
素早い左右の連打。由紀は必死でガードを固めて守ろうとするが、ガードの上からの打撃により徐々にポイントを奪われていく。さらに伊藤は打撃の位置をずらし、ガードをかいくぐってボディにもヒットさせていく。
(こ、来ないでっ!)
由紀は耐え切れずガードを崩し、不安定な姿勢のままでクイックブローをしようとする。
しかし、破れかぶれの反撃に牽制の意味はなく、あっさりと伊藤に動きを読まれてしまう。由紀の突き出した拳を伊藤は自らの拳で軽く弾き、がら空きになったボディへ猛打を叩き込む。逃げる事も出来ない由紀に、畳み掛けるように五発六発と打ち続ける。
(わっ、わっ、わーーーっ!?)
頭が真っ白になり、連打を浴びながら頭の中で悲鳴を上げる由紀。
そんな中、ふと甲高い笛の音が鳴り響いたかと思うと、鬼の勢いで由紀に殴りかかっていた伊藤が突然振り返り由紀に背中を向けたのだった。
「へ?」
何が起こったのか理解できないまま立ちすくんでいる由紀。
伊藤が自陣に戻ったあたりで、審判が棒立ちしている由紀に声をかける。
「試合終了です」
由紀が目をぱちくりさせながら聞き返す。
「え」
「試合終了です」
審判の女生徒は無表情のまま第七格闘部陣営側を腕で示す。
由紀が上の空でそちらを見ると、苦笑いしながら由紀を手招きする早川と茜の姿があった。
「ふあぁぁ悔しいですぅぅぅぅ」
第七格闘部陣営。自分が負けた事に気付いた由紀は座って両脚をばたつかせていた。
ベルヒットの試合は十五点差がついた時点で終了となる。わずかなリードも伊藤の連打によって簡単にひっくり返され、由紀は2ラウンド負けを喫してしまったのだ。
悔しさのあまりじたばたと暴れている由紀をなだめながら、早川が反省点を指摘する。
「まあまあ、初心者であれだけやれたら及第点だよ。……連打を浴びたのは牽制が減ったせいだ。相手がどう来ようが反撃の素振りを見せておかなきゃ。弱気な姿勢は相手につけこまれるぞ」
「悔しい悔しい悔しいぃぃっ」
返事もせずに猛烈に悔しがっている由紀。早川は苦笑しつつ、隣ですでに出撃の準備を整えている茜に尋ねた。
「準備は大丈夫か?」
「うん。ばっちり体も温まってるよ」
茜は軽快にその場でステップし、好調をアピールする。
「ほら、うちのエースが敵討ちしてくれるってよ」
今も暴れている由紀の肩を叩いた早川。由紀はぴたりと動きを止め、嘆願するように茜へと一言告げる。
「茜ちゃん、私の分も勝ってください……」
すると茜はオレンジのマウスピースを口に入れ、にぃ、と大きく笑ってから
「任せといて」
そう力強く宣言し、フィールドの中央へと駆け出して行った。
すぐに審判のいる試合開始場所まで茜はたどり着いたが、いかんせん相手方の選手がまだ来ていないため試合は開始できなかった。
第三格闘部の待機場所には
「だから準備しとけって言ったでしょうが!」
「だってあんなに早く終わると思わなかったんですもん!」
などと顧問が選手と口論している様子が見える。
顧問に口答えしていた生徒が急いで準備を済ませ、怒声をあげる顧問に追い出されるような形で、転びそうになりながらフィールドの中央へと向かってくる。
茜はその選手が自分の相手なのだと理解し、左手を前に出した。
茜が左手を前に突き出したのを見るや、相手方の選手――可奈と呼ばれていた彼女は歩みを遅くし、しげしげと茜の様子を観察し始めた。
最初のラウンドは拳を突き合わせる動作によって開始される。経験者には、その動作を見ただけで相手の普段のフォームや試合スタイルがある程度分かるのだった。
可奈は怪訝そうな顔をしながら、なるべくゆっくり茜の元へと向かっていく。
彼女は歩きながら、目ざとく茜の情報を分析していく。
(左手足が前って事は、サウスポーかね。……初心者のくせにいやに堂々としてるな、こいつ)
嘗め回すように茜を睨みつけ、小馬鹿にしたような口調で挨拶する可奈。
「よろしくぅ」
茜は短く
「よろしく」
とだけ答え、左手を動かして相手にも同じ動作を要求する。
可奈はその意図を汲み、一度審判に目配せしてから右腕を持ち上げた。
(ま、あっさり終わらせて牧子ちゃんの質問の答えでも考えますか)
この時第三格闘部の待機場所にて、黒木牧子顧問は少し違和感を覚えながらも楽観していた。
(なんだか相手の子、やけに場慣れしてるわね。ひょっとして、ちょっとした経験者なのかな? でもまあ、うちの期待株の可奈に勝つなんてありえないだろうけど)
黒木はそう考えながら、隣に座っている伊藤へ話しかける。
「相手はサウスポーみたいね。伊藤ちゃん、自分だったらどうするか考えて観戦してね」
すると、伊藤は無表情のまま、口元だけを僅かに歪めてこう言ったのだ。
「先生、あの相手の子、多分サウスポーじゃない」
「え?」
不思議そうに聞き返す黒木。伊藤は決して表情を変えず、淡々とこう告げた。
「普通、サウスポーはあんな右手の構えじゃないと思う。あれは多分、オールドスタイルじゃないかな」
「伊藤ちゃん……」
黒木は驚いてフィールドの中央へ視線を向ける。言われてみれば確かに、 相手の選手は初心者ではあり得ないフォームを選択している。
黒木の脳裏に、疑念が過ぎる。
(だとしたら、一体何者? まさか、あの子が例の……)
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