第5話
甘和が気付いた時には、彼女は背中から床に倒れ、天井を見上げていた。
(あたしは、倒されたのか……? くそ、わけがわからねえ……)
甘和は髪をがしがしと搔き、その場で起き上がろうとする。
だが、起き上がろうとした彼女の目の前に、にゅるり、と誰かの顔が迫った。
「ひっ!」
甘和は驚き、間の抜けた声を漏らしてしまう。
そんな彼女に、顔を近づけた人物の声がかかる。
「最初のあなたのパンチが3ポイント。その後私は両腕両脚体幹で7ポイント稼いで、最後のキックで両腕体幹の5ポイントに加え、転倒による5ポイントを取ったから、これで点差は14。ベルヒットの試合では制限時間が過ぎるか15点差がつくまで試合は続行だよ」
そう告げて微笑む茜。
「な、なにが言いたいのよ……」
甘和は先ほどまでの威勢もどこへやら、ひどく物怖じした調子で聞き返した。
そんな彼女に追い討ちをかけるように、無邪気な笑みで茜は続ける。
「だからー、スパーを続けようよ。今度はあなたにも打たせてあげるから。ね、先輩?」
甘和は本能的に実感する。このまま続けたら、どこまで恥をかかされるか分からない。甘和は背筋に走る恐怖に耐え切れず、必死に声を荒げる。
「つ、続けるわけねえだろ! なんだよ、なんなんだよあんたはぁ! 帰れ! 帰れよぉ!」
そう言って立ち上がり、茜の肩を押し返し退室させようとする。
「お前らもだよ! くそっ、人を馬鹿にしやがって! 入部なんて絶対させないからな! 二度とうちに近づくんじゃねえぞ!」
顔を真っ赤にして由紀や麻衣の事を睨みつける甘和。周りの部員たちも茜を恐れて口出しできず、ただただ錯乱している甘和の様子を眺めているだけだった。
「帰る前に、ほら」
涙目になりながら新入生三人を追い出そうとする甘和に向かって、茜が手を出した。
手のひらを上に向けて、何かを求めるように。
「じゅ、ジュース代か? 分かったよ、払うから、払うから出てってよ!」
甘和はもはやなりふり構わず、すぐに部屋の隅に転がっていた自分の鞄から財布を取り出して、千円札を茜の手に掴ませた。
しかし、茜は首を横に振る。
「何勘違いしてんの? クリーニング代だよ。これじゃ足りない」
「へっ? そ、そう言われても、もう五千円札しか……」
甘和は今にも泣き出しそうな口調で答える。茜は当然のごとく胸をはって
「ちょうどいいじゃん。ジュース代と殴った謝罪料もだよ。こっちの千円は返してあげるから、ほら早く」
そう切り返した。甘和は自分の財布の中身と茜の顔を交互に見比べた後、
「……は、はぃ……」
力なく答えて五千円札を茜に差し出した。茜は先に貰っていた千円札をつき返し、するりと五千円札を受け取った。そのまま彼女は振り返り、後ろで座り込んでいる由紀に対してその五千円札を渡した。
「あ、ありがとう……」
「いいえ。それじゃ、先輩がお怒りみたいだからさっさと退室しようか」
茜は爽やかに告げる、麻衣と由紀は顔を見合わせてから小さく頷き、そのままつかつかと歩いていく茜の後ろを追って部室の外へと向かった。
「二度とくんなバカーッ!」
後ろからは取り乱した甘和の罵詈雑言が聞こえ続けていた。
第六格闘部の部室から出て少しだけ廊下を歩いた先で、不意に麻衣が笑い始める。
「ぷっ、あははは、ははは。ねえ由紀見た? さっきの甘和とかいう人の態度の変わりっぷり! 顔真っ赤にして泣きそうになってたよ!」
先ほどの彼女の様子があまりにおかしかったので、ずっと笑いを堪えていたのだった。
「あはは、ほんと傑作でしたね! それもこれも、全部彼女のおかげですよ」
由紀は麻衣に同調しながら、同時にすぐそばを歩いているもう一人の少女へと声をかける。
「茜ちゃん、でしたよね? 本当に助かりました! どうお礼していいか……」
茜はあまり表情を変えずに由紀たちの事を一瞥し答えた。
「ああ、うん。別に気にしなくていいよ」
意外と素っ気無い彼女の返答だったが、由紀は気にせず会話を続ける。
「ベルヒット経験者なんですか?」
「うん。一応、小さい時からやってるんだ」
「すごくかっこよかったですよ!」
「え、そ、そうかな?」
やや恥ずかしそうに反応する茜に対し、由紀はずい、とさらに歩み寄り
「そうですよ! 私茜ちゃんの事見てたらやっぱりベルヒットやりたくなりました!」
麻衣にやっていたのと同じように腕に抱きついて、茜のことを褒めちぎった。
「どうやったらあんなに速く動けるんですかー?」
「れ、練習の成果なんだよー」
突然抱きつかれた事に困惑しながら茜は答える。
傍らで彼女らの様子を見ている麻衣が苦笑いしながら考えた。
(由紀ったら誰に対してもあれだもんなー。ほんと、図々しいというかなんというか……)
そんな風に三人が廊下を歩いていると
「いたいた、広橋ー」
不意に前方から呼びかける声が聞こえたのだ。
「うん?」
三人が目を丸くして声の聞こえた方へと視線を向けると、そこには二十代半ば頃の男性がいた。彼の手にしている物を見て茜が声をあげる。
「あ、早川先生! それ、私のノート!」
「さっきお前置いてっただろ。ほれ、返すよ。……ん? げ、」
数学教師早川一騎。彼は茜にノートを手渡しながら、彼女のすぐ隣にいる人物を見て嫌そうな表情を浮かべる。
「げ、とはなんですか。一騎お兄ちゃん」
そう言ったのは、茜の腕に抱きついていた黒髪の少女、由紀だった。
「すごくお久しぶりですね。小学生の頃以来でしょうか」
「……つか、お前なんでそんなびしょ濡れになってんの?」
「これは……まあちょっと事情がありまして。というか何か着替え持ってないですか。ジャージでもなんでもいいので」
かねてからの知人のごとく会話を始める由紀と早川。その様子を間近で見ていた茜は勿論、由紀の斜め後ろにいた麻衣も不思議そうな顔をして由紀に問う。
「え、先生……だよね? 由紀知り合いなの?」
すると由紀は首だけ振り向き、にやりと笑ってその質問に答える。
「ええ。一騎お兄ちゃんは私のお兄ちゃんなんですよ」
さらりとそんな事を言い放った由紀だったが、麻衣と茜はびっくりして聞き返した。
「えっ!?」
「お兄ちゃんって、ど、どういう事!?」
すると早川は迷惑そうに由紀の発言を訂正する。
「誤解を招く言い方すんな。実兄じゃなくて、いとこだよ、いとこ」
そう言って由紀の頭を上からぐりぐりと撫でつけた早川。
「なんだ。いとこだったの。いや、それでも充分珍しいけど……」
ほっとした様子で麻衣がそう呟いた。
「もー、騙せそうだったのに。相変わらず空気の読めない男です」
「騙してどうする。って髪も濡れてるし! なんかベトベトするけどそれでいいのか女子高生!」
「変な言い方しないでください!」
「ぐはっ? 何しやがる!」
由紀が肘を早川のみぞおちに突き込み、早川は大きくむせ返る。
「そんなことより一騎お兄ちゃん。茜ちゃんともうお知り合いなんですか?」
由紀が今もなお腕を掴んでいる少女の顔を一瞥し、早川に問いかけたのだ。
「そんなことよりって……。ああ、広橋はさっき勉強の質問しにきたんだよ。んで、ノート忘れてったから届けに来たわけ」
「その節はどうもありがと、せんせ」
茜はぺこりとお礼を告げる。早川はふと思い出したように続ける。
「あれ、広橋は第六格闘部に入部申し込みに行ったんじゃなかったっけ?」
その質問を傍らで聞いていた麻衣が表情を変える。
(え、そうだったの? そういえば、茜ちゃんがあの部室に来た理由とか聞いてなかったけど、それじゃあ茜ちゃんも私達と同じで……)
その時、麻衣の表情が変わった事に由紀も気付いていた。
(茜ちゃん……入部するつもりだったのに、私達の事かばってくれたんでしょうか。あんなに強いんだから、私たちの事無視すれば後で入部出来たかもしれないのに)
由紀は思い出す。第六格闘部は現在生徒が中心に運営しているのだと、先ほどの先輩達は言っていた。だとしたら、あれだけ先輩を叩きのめしてしまっては入部は絶望的だろう。
ありがたい以上に申し訳ない気持ちがこみ上げ、由紀は思わず抱きこんでいた茜の腕を離してしまった。
だが、茜は別段なんてことのない口調でこう答えたのだ。
「それが、入部させてもらえなかったんだ。仕方ないから、次はサッカー部にでも申し込んでみます。私サッカー得意だし、サッカーやりながら週一ぐらいでベルヒットやるのも悪くないかなー、なんて」
明るく笑いながら、しかしその表情の奥底には僅かに残念そうな気持ちが見て取れる。
「そっか……、他の格闘部も全部駄目だったんだっけな」
早川が気の毒そうにそう言った途端、由紀が大声をあげる。
「一騎お兄ちゃんは、ベルヒットのコーチやってるんですよね? その、このままじゃ茜ちゃんがかわいそうだから……。お兄ちゃんの、権力的なあれで、私の友達である茜ちゃんをどっかの格闘部に入部させたりは……できませんか……?」
まとまりのない要求に早川は顔をしかめる。
「そう言われてもなぁ……。俺が学内で関わり持ってるのは、第一と第三格闘部の顧問ぐらいだし。俺みたいな新米教師に、歴史ある部活の規則覆すような力はねえよ。……多分他の人に頼んでも無理だと思う」
由紀は直後思いっきり顔を歪ませる。
「ちっ、使えない男です」
「おいっ!」
早川は突然の表情の変化に突っ込みを入れ、さらに言葉を続ける。
「そもそもお前らは……、えっと、由紀と……」
早川はそこまで言って傍らで立っている麻衣へと顔を向ける。
麻衣は早川の意思を汲み取って返事をした。
「私? 樋口麻衣」
麻衣の返事を受けて、早川はこんな質問をしたのだった。
「由紀と、麻衣ちゃんは、一体どうして広橋と一緒にいるんだ?」
瞬間、茜、由紀、麻衣の三人は思わず黙り込んでしまった。
麻衣が口を開こうとしながら考えを巡らせる。
(どうしよ……。正直に全部言うと先輩とトラブった事ばれちゃうし……。いくら由紀の身内とはいえ、あんまり先生には伝えたくないなぁ……)
そんな風に考えしばらくどう説明すべきか口ごもっていると、由紀が一足早く言葉を発する。
「……私達も、どこかの格闘部に入部しようと申し込んで回ってたんですよ。でも、どこもだめで……。今日第六格闘部に行ったら、茜ちゃんがいて、一緒に断られて帰ってきたんです」
演技でもなく、ひどく悲しそうな顔でそう説明した由紀。
不足はしているが間違っているわけではない説明に、茜も麻衣もうんうんと頷く。
すると早川が聞き返し確認した。
「んじゃあ、お前らは皆格闘部に入りたくて入れなかった、と?」
「その通りです」
由紀が即答。
早川はうぅんと頭を悩ませる。
目の前には、格闘部に入部したいものの入部できず悲しむ少女達。
彼の脳裏には、先だって老年の教師と交わした会話の内容が浮かんでいた。
早川は半信半疑の面持ちで、ごほんと一度咳払いをし、三人にこんな提案をした。
「あのさ。俺が、第七格闘部を作るって言ったら、皆入るか?」
一瞬の沈黙。
その後、由紀だけがぽつりと聞き返す。
「それって、本気の話ですか?」
早川が頭を搔きながら
「お前らを他の部に入れてやることは出来ないけど、それだったらまだ可能性があるかもしれな……」
と言いかけた時、弾けるように茜と麻衣が返事をした。
「入りたい!」
「私も。格闘部に入れるなら、この際どんな部だっていいです」
予想以上の反応の良さに、早川はうろたえてしまった。
「そ、そっか。……由紀は?」
「もちろん、私も入りたいですよ」
二つ返事の回答。
三人の少女はじっと早川の顔を見つめ、これ以上ない期待の眼差しを向けている。
祈るような顔つきに、早川は一度言葉を失ってしまう。
(……マジかよ。いいのか? いや、この子達は本当に第七格闘部を求めてる……)
彼はごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めた。
「わかった……、掛け合ってみる……!」
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