第6話
「きりーつ。礼、さようならー」
日直の学生が挨拶をし、生徒達がそれに続く。
そこは朝日野女子高校一年三組の教室であった。たった今帰りのホームルームが終了し、いよいよ学生たちの本分、部活の時間が訪れようとしている。
「麻衣ちゃーん。今日掃除だったりしますかー?」
机を後ろに下げていく生徒達の中をかいくぐり、黒髪ポニーテールの少女がとある女生徒に声をかける。声をかけられた麻衣、という少し吊り目の生徒は振り向きながら
「ううん。由紀は?」
といって首を振り聞き返す。由紀と呼ばれた黒髪の少女はにこりと笑う。
「私もです。それじゃあ、行きましょうか」
「そだね。八組寄って茜も誘っていこう」
麻衣は笑い返し、こう告げたのだ。
「私達の、高校生活初めての部活に」
「はい!」
由紀は嬉しそうに言葉を返す。
二人は教室を出て、他の学生達とすれ違いながら廊下を進んでいく。
「八組はこっちだよね」
麻衣の問いかけに由紀は頷いた。
二人はすでに一年八組の教室前までやってきて、麻衣が開かれた教室の扉から中を覗き込む。しばらく教室の中を見回し彼女は不思議そうな顔をする。
「あれ、いないや」
「ほんとですか?」
由紀も同様に教室を覗き込んだが、どうやら本当に茜はいないらしい。
「先に行ったんでしょうかね?」
「そうみたいだね。んじゃ私らも行こっか」
麻衣と由紀は顔を見合わせ、今度は別の方向へと廊下を歩いて行く。
彼女達が入部した部活は『第七格闘部』。去年までは存在しなかった新設の部である。
その第七格闘部の部室として、使われていない体育準備室が提供されていた。彼女達は最初の部活場所として、今からその部室を目指して歩いていくのだった。
二人は廊下を並んで歩き、その途中で三人組の女生徒が向かい側から歩いてくる事に気付いた。
三人は全身に競技用のプロテクター、グローブ、さらにはシューズを装着していた。由紀や麻衣と同じく、ベルヒットを行なう格闘部の生徒だろう、と由紀は思った。
そして三人組が近づくにつれ、由紀はその先頭を歩いている人物に興味を惹かれた。
先頭を歩いているのは、短い黒髪をヘアピンで留めた少女だった。
由紀が注目したのはその顔つき。黒髪の下にのぞく顔は凍ったように無表情で、刃物のような鋭利さを持つ。にも関わらず、彼女の目はどこか気弱な子供のようにも見える。
由紀は彼女の事を見て、今までには感じたことのないような、そんな不思議な気持ちにとらわれたのだった。
(なんでしょう……。不思議な雰囲気の人……)
あまりじろじろ見すぎないように注意し、由紀がその女生徒の顔を眺めていると
不意に彼女の隣から届く掠れ声。
「千佳……。ひ、久しぶり……」
由紀は振り返る。掠れ声の主は、由紀の隣を共に歩いていた少女、麻衣だった。
由紀は彼女の視線の先に、自分が先ほどまで見ていた少女がいることにすぐ気付いた。
(麻衣ちゃん? ひょっとして、この人と知り合い……?)
すでに三人組との距離は縮まり、由紀たちとすれ違おうかという時だった。
由紀はもう一度黒髪の少女を観察しようとする。
麻衣の知り合いだとすれば、返事をするはず。
だがそんな由紀の予想はあっさりと裏切られることとなる。
「……」
黒髪の少女は、声をかけた麻衣に目もくれず、そのまま通り過ぎてしまったのだ。
(えっ……)
由紀は困惑した。少女は麻衣の呼びかけに答えなかったばかりか、顔を見ることすらしなかった。聞こえなかったわけではないだろう。少女のすぐ後ろにいる二人は麻衣が声をかけてきた事に気付いていた。彼女達は麻衣の方をちらちらと見て、先頭を歩いている少女へと尋ねる。
「ねえ千佳、知り合いじゃないの?」
そんな質問に対し、千佳、と呼ばれた少女はたった一言
「……ううん。知らない人」
とだけ答え、そのまま歩いていってしまった。
一緒に歩いていた二人は不審そうに何度かこちらを見返したが、すぐに廊下の角を曲がり由紀たちの視界から消えてしまった。
由紀と麻衣は、その場で立ち止まっていた。
由紀はどこか気まずそうに麻衣の様子を一瞥した。
麻衣は俯きがちに視線を落とし、何か考え込んでいるようだった。
「麻衣ちゃん……? 今の人……」
由紀には、はっきりと尋ねる勇気はなかった。
麻衣は顔を上げるなり、笑ってこう答えた。
「ううん、人違いだったみたい」
由紀は、まだ麻衣と出会って一週間程度の仲でしかない。
それでもこの瞬間、麻衣が無理をして笑顔を作っているらしい事は、由紀にも明らかにわかったのだ。
(何があったんでしょうか……)
口に出して詮索する気にはなれなかった。ただしばらくの間、彼女の頭の中には今しがたの出来事がもやもやとわだかまっていた。
(意外と簡単に創部できるもんなんだなー……)
若年の数学教師、早川一騎は、ごみごみと散らかった部屋を片付けながら心中で呟いた。
「せんせー、こっちにグローブとプロテクターがたくさんあるよー。ちょっと古いけど」
部屋の片隅には、彼と同様に部屋を片付けている少女の姿がある。
艶々の短い髪を揺らす、少し小柄で引き締まった体つきの女生徒。彼女の名は、広橋茜。
「おう。とりあえず使えそうなの分けといてくれ」
「りょうかーい」
早川は数日前まで部活の顧問ではなかった。しかし、今は違う。新たに創設が許可された第七格闘部の顧問として、目下部活の準備に勤しんでいるのである。
「経験者だからって片付け手伝わせてごめんな。今日は由紀と麻衣に基本を教えるから、お前にとっては退屈だと思うけど我慢してくれよー」
茜はぽいぽいと手に取ったグローブやプロテクターを部屋の中心へと放りながら
「ううん。高校でベルヒット出来るのも先生のおかげだし、私に出来ることなら手伝うよ」
と言ってにっこり笑ってみせる。
(いい子だ……)
早川は割と本気で感動しながら、茜と一緒に部屋の片づけを進めていく。
「今日はどういう流れで二人に説明しようかな。茜は、何か案あったりするか」
「うーん、私の時は最初に防具をつけさせられたなぁ。防具つけて基本姿勢やって……」
「やっぱそうか。それじゃ悪いけど、お手本も手伝ってくれな」
「はーい。でもまあ、先生ならきっと上手く教えられるよ。なんたって、この私に因数分解を理解させた偉大な教育者だからね」
茜が真面目な顔をしてそんな事を言うので、早川は思わず噴出してしまう。
「それは最大限の褒め言葉と受け取っておこう」
そんな中、茜が視線を上げて部室の扉の方を見る。
「あ、先生。二人が来たよ」
そこにはきょとんとした顔で立ちんぼになっている由紀と麻衣の姿があった。
「せまっ」
「新米教師の力では所詮こんな部室が精一杯という事でしょうか」
開口一番文句をたれる二人。早川は聞こえない振りをして彼女達を中へと手招きする。
「今日はこの部室で練習するぞ。とりあえず、その辺に座ってくれや」
「はーい」
早川が部屋に並んでいるパイプ椅子を指差すと、二人は意外なほどあっさりと指示に従った。
「んじゃ、茜。片付けはひとまずこんくらいにして、授業といきますか」
「はいはーい」
散らかった雑品の山を漁っていた茜がくるりと振り返り、早川の方へ正対する。
「お前らはベルヒット部、うちでの通称は格闘部だな、まあ格闘部に入部した。というわけで最初にざっくりベルヒットとは何か説明すると、早い話、防具をつけて殴ったり蹴ったりしあうスポーツってわけだ」
「私が持っているこれが防具ね。これを着けて競技します」
由紀たちに見えるように、茜が床に落ちている古いプロテクターを持ち上げて見せた。
「茜ちゃんがそれ着けたところ見てみたいです」
「私もー」
由紀と麻衣が茜に向かって言う。
「え、あ、どうしよ先生」
茜はどぎまぎしながら早川へと視線を向ける。早川は小さく頷いて答えた。
「よし、んじゃあ付け方のお手本見せてやってくれ。お前らも後で着けてもらうから、よーく見とけよ」
「そんな皆にじーっと見られると恥ずかしいんだけど……」
苦笑いしながら茜はまず部屋に置いてある防具の中から比較的綺麗なものを二つ持ち上げた。濃紺のカラーで生地は伸縮性に富んだもの。分厚く柔らかいスポンジのような素材が破れた生地の隙間からのぞいている。両脚に装着する防具であった。
「これは、こんな風に足先から通して膝が中心に来るように着けます。このプロテクターがついている部分が、両脚の有効打撃部位になるんだよ」
慣れた手つきで両脚の防具を装着する茜。早川が横から説明を付け足す。
「その防具の部分を蹴られたら相手に1ポイント入っちゃうんだ。逆を言うと、相手の防具を攻撃できればこっちのポイントになる」
「なるほどー。得点になるのは防具があるところだけなんですね」
「ちなみに、防具のないところを蹴ったりするとどうなるの?」
疑問を投げかけてくる麻衣。茜は続いて一番大きな防具を手に取りながら返事する。
「基本的に防具もグローブもシューズも着けてない、って部分はほとんどないよ。あるとしたら顔か股下ぐらいかな? どっちも意図的に狙うのは反則だし、意図的じゃなくてもペナルティになることが多いよ。あ、これが胴につける防具ね」
茜が大きな板状の防具を巻きつけるように自分の身体に装着する、
装着し終わると、由紀が声を漏らす。
「うわぁ……防具つけると一回り大きく見えます」
「ホントだ……」
麻衣も同意し頷いている。
「あはは、本気で殴られても大丈夫なように作られたプロテクターだからね。ちょっと大きくてごついかもね」
茜はその反応が可笑しかったようで笑いながら返答していた。そこに早川が横槍を刺す。
「大きいだけじゃなくて重いんだぞ。初心者がこれつけて動き回ったら、次の日は全身筋肉痛になるぐらいな」
「えー、重いのは嫌です」
由紀の文句を尻目に茜は両腕から両肩までを守るプロテクターを装着する。
「重いって言ってもすぐ慣れるけどねー。はい、こんな感じで防具は終了」
「胴の防具に攻撃を当てれば3ポイント、腕と脚の防具に攻撃を当てれば1ポイントだ。まあこの辺は実際体動かしておいおい覚えていくとしよう」
続いて茜は部屋の隅においてあるオレンジのエナメルバッグから、グローブとシューズを取り出し、上履きを脱いでそれらを履きなおした。赤いグローブはやや固めの質感。シューズは黒を基調とし、ところどころに青白いワッペンが縫いこまれている。
とうとう全ての装備が完了した茜は、他の三人に見えるようファイティングポーズをとってみせる。
「か、かっこいい……」
「ほんと、似合ってて惚れ惚れするなあ」
由紀と麻衣が嘆息するように言うので、茜は少々気恥ずかしそうに
「そ、そうかな? これはマイグローブとシューズなんだよー」
と言って顔を赤らめる。
「ふふん、俺も準備が完了したぜ」
不敵な笑みを浮かべ、早川が振り返った。
彼の両脚には茜のものよりもさらに分厚いプロテクターが装着され、両腕には平たいグローブのようなものがはめられていた。
「わ、パンチングミットとトレーナー用プロテクターだね」
茜が感激した様子で声をあげる。麻衣がすかさず
「ミットはボクシングとかでもよく見るけど、トレーナー用プロテクターって?」
と聞き返すと、茜は小さく頷き答える。
「あれをつけて足への打撃を受け止めるんだよ。ベルヒットには蹴り技があるから、その練習用に分厚いプロテクターがあるんだ」
早川はミットをぱんぱんと打ち鳴らし、茜に対して身構えた。
「まずはデモンストレーションがてら、茜の実力を見せてもらおうか。言っとくが俺はインターハイ出場経験もある実力者だからな、遠慮せずに打ってこいや」
「え! 先生インハイ出たことあるの!?」
驚いた麻衣の声。早川は流し目で肯定を表した。しかし由紀が信用していない様子で一言。
「なんか嘘くさいですね」
「嘘じゃねーよ!」
そんなやり取りの最中、早川の正面に立っていた茜は、あることに気付いていた。
由紀と言い争いをしながらも、早川の手足の位置は先ほどからほとんど変わっていない。
(構えたミットの位置も、脚の位置も完璧だ。この先生、素人じゃない)
早川はトレーナーとして高い技術を持っている。それは経験者である茜にだけわかる事実だった。
「よろしくお願いします。先生」
茜は真剣な眼差しで早川と向かい合い、早川も呼応するように身構えた。
「おう、まずは左右のワンツーから」
早川の指示。直後、すぐに茜の体が動く。
早川は見逃さないようにしっかりと茜を見据えた。
茜は流れるような動きで身を捻り、まずは左ブローの姿勢に入る。
早川はその動きの力強さに驚き、眉を寄せた。
(身体ごと体重移動しながら打ち込むヘビーブローか。最近の選手には珍しいが……)
すぐに茜の左拳が早川のミットへと叩き込まれ、早川はぐっと全身に力を込めた。
ずしり、と重たい衝撃を感じたかと思うと
壁を打ち抜いたような快音と共に彼の左腕が後ろに弾き飛ばされた。
(っ……?)
早川は目を丸くした。彼が何か考えるよりも早く、第二の拳がミットへと狙いを定める。
左ブローの姿勢から腰ごと身体を回転させ、全身の筋肉の力を一転に集中した渾身の右拳が、一センチもずれることなく正確にミットの中心へと打ち込まれる。
ミットとグローブが先程よりもさらに恐ろしい音を立てたが、今度はなんとか早川の腕も弾き飛ばされなかった。近くで見ている二人が感嘆の声を漏らす。
「すごい……」
「どうやったらあんなに速いパンチが打てるの……?」
早川はその声を聞きながら冷静に分析する。
(確かにスピードも速いが、恐ろしいのは威力の方だな……。最近のヒットアンドアウェイ型選手とは違う、昔かたぎのハードヒッターだ。そして……このフォームはおそらく……)
早川はミットの構えを正し、次の指示を茜に与える。
「茜、次はキックだ。左右のローキックから……利き脚でミドル!」
「っ……はい!」
茜はその指示に若干驚いた顔をしたが、すぐに力強く返事をしてキックの体勢に入る。
振り出された左右の脚が風斬り音を立てる。
厚いプロテクターで守られた早川の両脚へと、ばちばちと電流のような蹴りが連打される。ほんの一瞬の間に、茜は左右のローキックを放ち終えたのだ。
(ナイフみたいに鋭い蹴りだ……。やっぱり、この子は……)
そして最後の一撃、ボディへの利き脚によるミドルキック。茜はその準備姿勢に入った。
早川は今までよりも一段と重い打撃を警戒し、両脚に力を込めて踏ん張りを利かせる。
だが茜の次の動きに、早川は肝を抜かれる。
茜は利き脚の逆である左脚で地を蹴り跳躍したのだ。
彼女は空中で身体をぐいと中心にひきつけ、力をためる。
その動きで、早川は気付いた。
(全体重を乗せて相手のブロックごと打ち抜くキック……ブレイクか!)
茜は一瞬にして空中で身体を広げ、強烈なジャンピングミドルキックを炸裂させる。
固く固く守ったはずの早川の両腕に、鉄槌が振り下ろされたかのような衝撃が走る。
「ぐっ……!」
早川は全力でその場に踏みとどまろうとしたが、抵抗虚しく後ろへ数歩後ずさってしまう。なんとかバランスを立て直すも、早川は驚きで言葉を失っていた。
着地し再び早川へと正対する茜に対し、由紀と麻衣から黄色い声援。
「すごい! すごいです!」
「先生が倒れそうになってたよ!」
「い、いやー、今のはちょっと上手くいっただけなんだよー」
茜は照れて謙遜している。だが、早川だけはその言葉の嘘に気がつく。
(……上手くいっただけなもんか。それどころか今、手加減しただろ。本気で蹴ってないのに、高校上がりたての女子高生が大人の男をよろけさせるなんて……)
早川は思わず、茜へと歩き寄ってその腕を両腕で握った。
「茜、お前いつからベルヒットやってるんだ?」
彼の瞳は少年のように輝き、真っ直ぐに茜の瞳へと向けられていた。
「へ? さ、三歳の頃からだけど……」
突然腕を握られて茜は動揺し、顔を赤らめながら答える。
「やっぱりな。ただの経験者じゃない……。俺は気付いたぞ……」
「ちょ、ちょっと先生……?」
さらに顔を近づけてじっと見つめる早川の視線に、茜はいよいよ耳まで真っ赤に染めて視線を泳がせた。
その直後、真横から早川目掛けて、飛び蹴りが炸裂する。
「ごはぁっ!?」
早川は転倒し、床に手をついてすぐ起き上がろうとするが、目前に恐ろしい顔をした少女が立ちはだかっていた。
「一騎お兄ちゃーん? 純真な女子高生相手に突然何してますかー?」
早川のいとこである由紀だった。彼女は黒いオーラすら立ち上りそうな邪悪な顔で早川の事を見下している。早川が視線を由紀の奥へと向けると、そこには顔を赤くしたままの茜と、茜を守るように立ちあがった麻衣の姿があった。
「ま、待て! 落ち着けお前ら! 俺はただ、茜がすごいやつだってことを……」
「茜ちゃんがすごいなんて最初から知ってます! 変態教師許すまじ!」
早川の言い訳に全く聞く耳も持たない由紀。しかし早川はなおも諦めず説得を続けようと、大声で言い放った。
「そうじゃない! いいかお前ら、茜は下手すりゃ全国を狙える器なんだぞ!」
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