第11話

「それ以来千佳とは話してない。千佳は私立の中学に行ったし、家も引っ越したから会う機会もなかった……」


 麻衣がそう言って黙り込むと、ずっと聞き続けていた早川が口を開いた。


「ひょっとしてお前はその……天見千佳に会うためにこの学校に来たのか?」


 すると小さく頷く麻衣。


「……うん。親には適当に理由つけて了解してもらった。うちはわりと奔放だから、そこはあんまり問題じゃなかったんだ。でも、この学校に来ても千佳と話す事は出来なかった……。何度か声をかけたけど、やっぱり……」


 今度は言葉を返さない早川に対し、麻衣は泣きそうな顔で続ける。


「千佳は今でも私の事恨んでるんだ……。当然だよね……、それだけの事をしてきたんだから……。でも、だからこそ何か償いがしたくて。許してもらえないのは分かってるけど、どうにかして面と向かって謝りたくて……」


 早川は先ほど麻衣が言っていた事を思い出す。


(天見千佳がいる第三格闘部と試合がしたい……か。すると、その理由は……)


 合点が言った様子で、早川は質問する。


「お前、殴られにいくつもりなのか」


 何も知らない人間が聞くと突拍子もない質問であったが、麻衣は再び頷いて肯定した。


「……ベルヒットの試合なら、千佳も手加減せずに殴れるでしょ? それで、ほんの少しでも千佳の気持ちが収まればと思って……」


 麻衣が第三格闘部との試合を希望した理由はこれだった。

 かつてあまりにもひどい裏切りをしてしまった友人への償いとして、ベルヒットの試合で自分の事を殴ってもらうこと。

 早川は黙り込み、しばしの間を置いてこう呟いた。


「なるほど……、浅はかだな」


 麻衣は眉をぴくりと動かす。


「……私は確かに浅はかな事をしてきた。でも、もう私にはこれぐらいしか方法が……」


 弁明する麻衣に、細く目を開いた早川が繰り返す。


「だから、その考え方が浅はかなんだよ」


 根本から否定するような言葉に、麻衣は苛立ってしまう。


「私が褒められる人間じゃないのはわかってる。でも、これは私なりに悩んで考えたことなの。そんな風に言われたら、私はどうしたらいいのよ?」


 つい声を荒げてしまう麻衣に、早川はため息でもつくような素振りで告げた。


「そうじゃない。……お前のしようとしている事は、完全に自己満足だって言いたいんだよ」


 厳しい早川の指摘に言葉を失う麻衣。


「自己、満足……?」


 麻衣がぽつりと聞き返すと、早川は淡々と語り始めた。


「考えてもみろよ。天見千佳は小学校に入った時からベルヒットをやっていたんだ。その年で二年もやっていれば相当の実力はつく。身体だって相当強くなっていたはずだ。その彼女が、どうして暴力を受けたときにやり返さなかった?」

「そ、それは……彼女の性格で……」


 麻衣は天見千佳が人との争いを好まない事を知っていて、それを理由として早川に答えた。しかし、早川は納得しない。


「それもあるだろうな。でも、理不尽に暴力を受けて彼女は泣くほど悔しかったはずだ。それでも手を出さなかったのは、ただ単に争いが嫌いだったからじゃないと、俺は思うぞ」

「それじゃあ……どうして……?」


 麻衣は不思議な気分になった。自分の方が千佳の事をよく知っているはずなのに、この先生は自分が思いつきもしなかった可能性を口にしている。


「天見は、ベルヒットが大好きだったんだ。ベルヒットがただの暴力と違う事もちゃんと知っていた。だから、どんなにボロボロにされてもその力でやり返さなかった。やり返したら、自分の大好きなベルヒットが、ただの暴力に変わってしまうから。……そうは考えられないか?」


 麻衣は黙りこんでしまう。彼女が考え得なかった事に、気付かされたからだった。


「そう考えたら、お前の行動は彼女の目にどう映るだろう?」


 千佳の視点で、麻衣は自らの行動を想像する。

 自分の事を裏切った人間が、五年ぶりに姿を現したかと思えば、ベルヒットの試合を申しこんでくる。『あの時はすみませんでした。抵抗しないから好きなだけ殴って』などと言いながら。そんな行動は、千佳にとってどう見えるだろうか。


「ふざけてる、って思わないか? ただでさえ、顔を見ただけではらわたが煮えくり返るような相手が、自分の大好きなベルヒットをケンカと勘違いしてるんだぞ? お前だったら、馬鹿にされていると思わないか。泣くほど辛くても必死に守り続けた誇りを、汚されたと思わないか?」


 麻衣の目にじわりと浮かぶ涙。その涙の粒は徐々に大きさを増し、ついには頬を伝って流れ出した。彼女は嗚咽を漏らすように、自分の思慮の浅さを嘆いた。


「……私、バカだ……。どうして気付かなかったんだろ……。でもそれじゃもう、どうしたらいいかわかんないよ……」


 麻衣が泣き出してしまったため、早川は慌ててしまう。彼らが居たのは職員室だった。若い男性教師の前で女生徒が泣いているとなると、変な疑いをかけられかねない。見回すと、幸運なことに近くには教師がいなかった。早川は麻衣をなだめる。


「まあ落ち着け。どっちみちお前は、このままじゃいられないんだろ。自己満足でもなんでも、彼女に自分の気持ちを伝えるまで引き下がれないんだよな」


 麻衣は泣きながらこくりと頷き、何か言おうとしたが言葉が出てこない。


「無理して喋らんでいい。本当なら天見ときちんと話すのが良いんだろうけど、それは無理みたいだからな。俺はお前の案自体を否定はしないよ。ベルヒットはケンカではないにせよ、真剣に戦った人間同士には、通じ合うものが少なからずあるんだ。お前が彼女に気持ちを伝える方法があるとしたら、もうそれぐらいしかないのかもしれないから」

「……それって、どういうこと?」


 麻衣は声を震わせ、普段からは想像も出来ないような弱弱しい口調で聞き返す。

 対して早川は力強く述べた。


「本気で練習して、本気で試合するんだ。絶対に勝つくらいのつもりで戦うんだ。天見ともう一度話したいって気持ちを、行動で示すんだよ」


 麻衣は涙で赤くはらした目をいっぱいに開く。


「ベルヒットの練習や試合は辛い。生半可な気持ちじゃ最後まで頑張れないって、天見ならよく知っているだろう。お前が本気で戦って、天見も驚くくらい頑張ったら、もしかするとお前の誠意だって伝わるかもしれないぞ」


 麻衣は涙をこぼしながら、藁にもすがるような様子で聞き返した。


「……伝わるかな……?」


 早川は頷いたりせず、しっかりと条件を告げる。


「お前が頑張れたら、の話だ。仮にお前の努力が彼女に伝わらなかったら、それこそ誤解されて最悪の形になる。だから、俺は簡単にこの方法を薦めない。お前が頑張れないのなら、絶対にやめた方がいい方法だからな」


 その上で、早川は麻衣に尋ねた。


「どうする? 仮に試合を組めたとして、日程は向こうの都合に合わせる事になるだろう。練習時間は一月もないかもしれない。その短い時間でまともに戦えるようになるには、恐ろしいぐらいハードな練習をこなさなきゃならないぞ」


 脅すように告げる早川だったが、麻衣は決して怖じずに答える。


「……やります」


「練習のきつさは、想像を絶するぞ。俺は途中で泣いて逃げ出す子を何度も見てきた」

「やります。どんな練習だって耐えるから、私に戦わせてください!」


 何度脅されても、麻衣の気持ちは動かなかった。


「わかった。明日にでも顧問と掛け合ってみよう。お前が本気なら、俺だって全力でサポートしてやる。必ず試合までにしっかり戦えるようにしてやるから」


 早川は麻衣の肩を叩き、彼女を元気付けてやる。


「先生……」


 麻衣は感激した様子で、早川の目を見る。

 早川は片手で彼女の肩を叩きながら、もう片方の手で壁の方を指差して伝える。


「だから今日はもう帰ろう、な? ……話しこみすぎて、こんな時間になっちまった」

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