第10話

私と千佳が学校で一切話さなくなってから、しばらくたったある日だった。

 朝、私が登校すると、クラスメートの何人かが口論していた。

 嫌な感じがした。誰が口論していたのかはまだわからなかったけれど、なんだか自分にも関係がある事のように思えた。


 私は近くまで寄って様子を見た。口論、というには少し一方的だった。一人の人間を数人で取り囲んで、問い詰めているような感じ。私は中心で問い詰められている人の顔を見たとき、息がつまるような衝撃を受けてしまった。


「は? 何言ってるか聞こえないって」


 強気な口調で問い詰めていたのは、私のグループのリーダー格、香織。


「わ、たし……、昨日は用事が……」


 そして、問い詰められていたのは、千佳だったんだ。

 千佳は数人から罵声を浴びせられ、言い返すことも出来ずに俯いてしまっていた。

 千佳はもともと気が強い子ではないから、あんな風に取り囲まれて詰られたら、何も言えなくなってしまうのは当然だった。


 何について話していたのかはわからなかった。でも千佳を追い詰めているのは紛れもなく私といつも一緒にいる連中で、彼女達は千佳に理不尽な嫌悪を抱いていた。私はその事を知っていたから、割って入って千佳を守ってあげなければ、と思った。


 でも足は動かなかったんだ。


 千佳と話すだけで私を無視したような連中だ。千佳の肩を持つようなことをしたら、私だってどんな事をされるかわからない。

 そうやって卑怯な危惧をしながら、自己保身に走った私は二度目の大きな過ちをした。


 結局、私は千佳を助けなかった。助けられる位置にいて、勇気さえ出せば助けられたはずだったのに、見て見ぬ振りをした。

 その日以来、千佳に対する香織たちの態度はさらに厳しくなった。事あるごとに彼女に突っかかっては、癖のついた髪の毛だとか、彼女の気にしている事をわざと罵りだした。


 他のクラスメート達は皆何も言わなかった。男子なんかは千佳に対するいじめに気付いていない人も多かったし、女子では気付いていても我関せず、という人がほとんどだった。


 誰だって下手に手を出して自分が標的にされたら困る。特別千佳と仲良くない人達にとっては、わざわざ彼女を助ける理由がなかった。

 その上、千佳は泣いたり、先生に言い付けたりしなかった。本当はとても辛かったはずなのに、ずっと一人で耐え続けていた。だからこの件が先生に知られたり、明るみに出る事はなかった。


 その間、私は何もしなかった。心の中では千佳のことを心配している自分を演じて、結局わが身可愛さに行動も起こさず、黙って彼女が苦しむ様子を眺めていた。


 心のどこかで、千佳が助けを求めてくれたら、なんてずるい言い訳をしていた。彼女が私に助けを求めないって事は、私の助けは必要じゃないんだって。助けを求められたら、その時に行動すればいいんだって。

 そんな風に身の回りの全部に言い訳をして目を背けて、私は一ヶ月近くも親友の事を裏切り続けたんだ。


 私と千佳は、学校以外でもほとんど顔を合わせなくなっていった。

千佳から何かを言われたわけではなかった。私が千佳を助けない事について、彼女は何も言わなかったし、態度にも表さなかった。


 顔を合わせなくなったのは、むしろ私の心の問題だった。辛い時に助けようともしない人間が、どうして友達だなんて言えるだろう。

 行動は起こさないくせして、そういう罪悪感だけは持ち合わせていた私は、いつからか本能的に千佳との会話を避けるようになっていた。

 本当は彼女を助けて、胸を張って彼女の友達と言えるように行動するべきだったのに。私は最低な偽善者だった。


 そんな中、決定的な事件が起こった。

 ある日の放課後、私は家に帰ってから学校に忘れ物をしたことに気付いた。

 忘れたのは確か絵の具セットで、学校の時間で終わらなかった課題を家でもやる必要があったから、慌てて取りに戻ったんだった。

 家を出ると、すぐ近くに千佳の家がある。私はあまりそちらを見ないようにした。少しでも見ていると、私の悪い行いが一つ一つ思い出されるからだった。


「あら、麻衣ちゃん。こんにちは」


 小走りで学校へと向かおうとしていた私を、呼び止める声がかかった。

 その声は千佳の家の玄関から聞こえていた。私は、すぐに声の主が誰なのか分かった。

 千佳のお母さんだった。千佳とはお互いの家で遊ぶことが多かったから、私は千佳のお母さんとも顔なじみだったんだ。


「あ……こんにちは」


 私は、正直気まずくて仕方がなかった。

 私は千佳の事を裏切ったというのに、千佳のお母さんはそんな事を露も知らず、未だに私が千佳の親友だと思っていたから。その善意の眼差しは、私には痛かった。


 千佳のお母さんは、学校で起きている事も、私と千佳が徐々に疎遠になっている事も知らずに、かつてと同じような調子でこう私に言うのだった。


「千佳がまだ帰ってきてないんだけど、一緒じゃなかったのねぇ。あの子今日習い事なのに、どこほっつき歩いてるんだか」

「……習い事って、ベルヒットですか?」


 千佳が小学生に入った頃から、ベルヒットのクラブに入っていたのは知っていた。


「そうそう。もうすぐ始まる時間なのに、まだ帰ってこないのよ」


 千佳は習い事をすっぽかすような子じゃなかったから、私は少し不思議に思った。

 ただ何より、千佳の母親と顔を合わせ続けるのが私にとっては辛かった。


「今から学校に戻るんで、千佳と会ったら伝えておきます」


 だから私はそんな風になんでもない感じを装って、その場を後にした。

 本当は、千佳と会っても声をかける勇気なんてないくせに。


 学校に戻った私は、教室に広がっていた光景を目の当たりにして、言葉を失った。

 同時に、どうして千佳がまだ家に帰ってなかったのかも理解した。


 教室の後ろの方で、机と椅子が乱雑に押し倒され、その傍らでうずくまっている女の子がいた。その人の周りには数人の女子がいて、うずくまっている女の子を蹴ったり、罵ったり、とにかくひどい有様だった。


「いい加減にしろよ!」

「皆あんたのせいで迷惑してるんだって!」


 そう言って、うずくまっている女の子に追い討ちをかけるのは、私のよく知っている子達。いつも私と学校でつるんでいた、香織を中心とした女の子達のグループだった。


 私は直感的に悟った。真ん中でうずくまっている少女が、間違いなく千佳である事を。


「なにしてんの……?」


 私はぽつり、と尋ねた。変に掠れたような声しか出なかった。

 その声に気付いた連中は、振り返って私の声を見るなり、口々に喚きたてた。

 何を言っていたのか詳しくは覚えていない。ただ、自分勝手な理屈で千佳の事を悪く決め付けるような言葉が次から次へと飛び出してきたのを覚えている。


 私は彼女達の言葉よりも、千佳が暴力をうけていた事に驚いてしまった。

 彼女達が千佳に暴力を振るっていたのは、私の知る限りでは初めてだったから。


「や、やめなよ……。暴力とか、良くないよ……」


 私は、口ではそんな事を言いながら、彼女達の間に割って入って止めようともしなかった。袋叩きにされている千佳の姿を見たら、恐ろしくて足が動かなかった。


「なに? 麻衣もしかして……こいつの肩持つわけ?」


 言い放ったのは香織だった。彼女は、私がその言葉には逆らわない事を、よく知っていた。私は卑怯で、臆病者で、自分の安全の為なら、誰だって裏切るってことを。


 その時の事を思い出すと、私は今でも悔しくて、自分が情けなくて堪らない。

 そんな風に思うことすらおこがましいくらい、私は最低で、最悪の人間だった。


 香織は明らかに私が逆らわないと決め付けていた。そして、私は彼女の予想通りの行動をした。大親友との絆も、自分のプライドもかなぐり捨てて、私は逃げたんだ。


「私、用事あるから……帰るわ……」


 震える声でそう答えて、私は教室から逃げ出した。

 教室から逃げて、私はすぐ近くのトイレに飛び込んだ。個室に入って座り込んで、かたかたと震えていた。もう訳がわからなかった。自分がどんなに悪い行いをしたかも、混乱した頭では正確に認識できなかった。それは、決して言い訳にならないけれど。


 個室に座り込んで、どれだけ時間がたったかわからない。

 三十分近くも経った気もするし、まだ五分も経っていないかもしれなかった。

 ただ徐々に落ち着いてきた頭で、私は自分の不善をはっきりと理解した。


 そしたら今度は、千佳を助けなければという気持ちが湧き上がってきて、居ても立ってもいられなくなった。本当はもっと早く、この気持ちに従うべきだったのに。私は急いで教室に戻った。千佳を守らなければならないと思って。

 でも手遅れだった。


 その時感じた恐ろしい気持ちを、私は今でも覚えている。取り返しがつかないとか、背筋が凍る、とかそういう感覚を超えた、ある種の落下感だった。


 教室の隅の方で、うずくまって泣いている女の子が一人。

 身体にはいくつも青あざが出来ていて、見るにも痛々しい様子だった。

 すでに彼女をいじめていた連中はいなかった。


 私は、無我夢中で彼女に近づいていた。彼女を助けなかった私には近づく権利がないとか、得意の偽善的な考え方は消し飛んだ。ただ熱に浮かされたように、彼女のそばに寄り添った。


「千佳……千佳……」


 私はその時多分泣いていた。馬鹿だったと思う。本当に泣きたいのは千佳の方だったのに。その涙の分彼女の事を守ってやるべきだったのに。


「千佳……ごめんね……本当にごめん……」


 私は何度も繰り返して謝った。さんざん千佳の事を見捨て続けてきたくせに。自分の浅ましさに、今でも思い出すたび吐き気がする。


 私は無意識に手を伸ばしていた。うずくまり泣いている千佳の手へ。どうしてそんな事をしようとしたのかもわからない。ただ夢中でその手に触れようとした。


 私が千佳の手に触れた瞬間、その手は跳ね飛ばされた。

 千佳が私の手を打ち払って立ち上がったんだ。


 彼女は何も言わなかった。私からは彼女の表情が見えなかった。

 確かに分かったのは、私は千佳に拒絶されたってことだった。

 千佳はそのまま振り返らず、私を置き去りにして教室から出て行った。


 翌日から、香織たちのいじめはめっきりなくなった。暴力までして飽きてしまったのだと思う。でも、私と千佳の関係がもとに戻る事はなかった。

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