第9話
私と千佳は、小学校に入る前からの友人だった。
今からじゃ全く想像もつかないけれど、小学校に入る前の彼女は喘息持ちで身体が弱く、性格も内気な女の子だったと思う。
近所に住んでいた私達二人は、初めは母親同士の付き合いで一緒に遊ぶようになった。最初に遊んだのは公園だったかな。でも何度か遊んでいるうちに、私達は結構気が合うって事に気付いて、どんどん仲良くなっていったんだ。
千佳は私をすごく慕ってくれたし、私も可愛い妹が出来たみたいで嬉しかった。
小学校に入ってからも私達の付き合いは続いた。放課後一緒に帰ったり、どっちかの家で遊んだり。その中でも、私達は特に公園に行くのがお気に入りだった。初めて会った公園に行って、そこのベンチで並んでなんて事のない話をするのが、すごく好きだった。
「麻衣ちゃんはカッコいいよね。色んなこと出来て」
そうやってベンチで話している時、千佳はこんな事をよく言った。
「そう?」
私は幼稚園の頃から通っていた体操教室のおかげで、運動は出来る方だったし勉強も苦手じゃなかった。そんな私の事を、千佳はかっこいいって褒めてくれたんだ。
「そうだよ。私も、麻衣ちゃんみたいにカッコいい人になりたい」
彼女はベンチに座って私の方をじっと見て、そんな言葉を何度も漏らしていた。
私は、千佳に褒められた時なんて答えればいいのかわからなかった。変にくすぐったいような気持ちがして、その時だけは返事を躊躇った。
「私なんて全然かっこよくないよ」
結局いつも、そんな精彩を欠いた謙遜で聞き流すだけだった。
そしたら、決まって千佳はそれを否定したんだ。
「違うよー。麻衣ちゃんはカッコいいよ」
そう言って、彼女はにっこりと私に笑顔を向けた。いつもそうだった。
彼女の笑顔は純粋で、濁り気がなくて、完全に善意から生まれた笑顔だった。そして私の事を心から認めてくれる笑顔だった。私はその笑顔が大好きだった。そんな笑顔を自然に出来る、千佳のことが大好きだった。
私達はいい友人だった。お互いに認め合い尊敬しあう、本当に素晴らしい関係だったんだ。
でも数年後、そんな関係は簡単に崩れてしまった。いや、私が自分の手で、崩してしまったんだ。
小学校三年生に上がる時、クラス替えがあった。
それまで私と千佳は別のクラスだった。クラスが別々でも朝はいつも一緒に登校していたし、放課後に遊ぶ事だって出来た。これからだって、たとえ別のクラスでも仲良しでいる気だった。
ところが偶然にもその時、千佳と同じクラスになる事が出来たんだ。二人は同じ三年二組の生徒になった。私は嬉しかった。千佳も、多分喜んでくれていたと思う。
ただ、話はそれほど単純じゃなかった。三年生に上がる頃には、大体それぞれ所属する人間関係っていうのは決まっていた。早い話が、『グループが出来ていた』って感じだった。
学校にいる間は自分のグループ以外の人とはほとんど話さない状況だった。そんな理由があって、千佳とも教室の中ではあまり会話をしなかった。
それでも、私はあまり気にしていなかった。今までだってクラスが違ったから学校で話す事はなかったんだ。それがこれからも続くってだけ。学校の外に出ればグループなんて関係ない。
だから私は、今まで通り千佳と一緒に登校し、放課後は遊んだり出来るって思ってた。実際、クラスが変わった当初はその通りだった。
でも、ある日を境に、私と千佳の関係は引き裂かれていった。
その日は蒸し暑い夏の日だった。
朝、私は千佳と一緒に登校した。その日は少し家を出るのが遅れて、私達が教室に着いた頃には、大半のクラスメートがすでに着席していた。
「おはよう」
私は教室に入るなり、自分の席の近くにいる友達に挨拶した。その子はいつもつるんでいるグループのリーダー格だった。私の席は教室の右後ろで扉の近くにあったから、教室に入ってすぐ挨拶したんだった。
その子はグループの中で特に親しかったわけではないけれど、誰とでも明るく話す子で挨拶するといつも元気に返してくれる、そんな子だった。
「…………」
でもその日、彼女から挨拶は返ってこなかった。
最初私は聞こえなかったのだと思った。だからもう一度、名前を呼んで挨拶した。
「香織、おはよう」
香織、というのは彼女の名前だった。さすがに近くで名前を呼んで挨拶すれば気がつくだろうと思った。しかし、同じ事だった。
明らかに聞こえているはずなのに、彼女はまた返事をしなかった。
返事をしなかっただけじゃない。彼女は私が視界に入らないかのように、まるで私を空気とでも思ってるように、全く私の行動に対して無反応を続けたんだ。
私は、怖くなった。今までこんな経験はなかったから。どうして私が彼女に無視されるのか全く理解できなかった。けれど彼女を問い詰める勇気もなく、私は不安になりながら席に着いた。
朝の学活が終わり、最初の授業が終わり、休み時間に入ったときも、普段は話しかけてくるはずのその子は話しかけてこなかった。でも、これだけだったらまだマシだったと思う。
休み時間に入ってすぐ、同じグループでいつもつるんでいる他の子がやってきた時、私は奈落の底にでも突き落とされた気分になった。
「かおりー、トイレ一緒にいこ?」
いつも私と香織に話しかけてくるはずのその子は、香織と同じくまるで私の事が見えないかのように振舞って、香織だけを誘ったんだ。
「いいよー。いこういこう」
香織は、私を無視した時とはまるで違うふうに、いつも通りの笑顔を浮かべてた。
その時、私はようやく気付いた。
(私、皆に無視されてる……?)
全く信じられなかった。そもそも理由は? 考えてもまるで思い当たる節はない。
昨日まで仲良く話していたはずの人が、今日になって突然自分に見向きもしなくなるなんて、ぞっとした。背筋がぞくぞくと風邪でも引いたみたいに冷え切って身体が震えた。私にとって友人から無視されるって事は、それほど恐ろしい出来事だった。
(なんで? 私何か悪い事した?)
私はパニックになっていた。一人きり自分の席で頭を抱えながら、すぐにでも泣きたい気分だった。その場はなんとか我慢していたけど、本当にどうすればいいのかわからない状況だった。
午前中の授業は上の空だった。生きた心地がしなかった。
どうすればいいかわからないままに時間だけが過ぎてお昼になった。給食は当然喉を通らない。お昼休みになっても私はただ、自分の席に座って呆然としていた。
いつも昼は一緒にいた数人の友人達が、香織を中心に結託したように、私の事を無視し続けた。私はこれからもう、ずっと一人ぼっちなんじゃないかとさえ思った。
けれど、香織たちはそのまま私を無視し続けなかった。
そろそろ昼休みが終わるかという頃、彼女達はけろりとした顔で私の前に現れ、そして何事もなかったかのように話しかけてきた。
「麻衣ってさぁ、なんで天見千佳と仲良いの?」
私はどぎまぎしながら質問の意図を聞き返した。
「な、なんでって……」
さんざん人を無視し続けた挙句、口を開いた最初の言葉がそんな意味の分からない質問だったから、私には本気で彼女達が何をしたいのか理解できなかった。
でも、彼女達の意図は確かにあって、私はそれをすぐに知った。
「あの子暗いし、自分勝手なとこあるし、正直うざいっしょ」
「あいつこないだうちの班の掃除サボったんだよ? 信じられなくない?」
彼女達の口から、まさか千佳の悪口が出てくるとは思っていなかった。
私はそれを否定したかった。千佳は暗くなんてないし、自分勝手でもない。ただ、自分の事を口で言うのが苦手なだけ。掃除をサボったのだって、うっかり自分の当番だったのを忘れてしまっていたからに違いなかった。
彼女は前から忘れっぽいところがあったけど、自分の仕事を他人に押し付けるような事は絶対にしない子だったから。
でも、私の口は動かなかった。彼女達が、どうして今朝から私を無視していたのか、その理由がなんとなく分かったからだった。
「別に誰と付き合うかなんて麻衣の勝手だけどさ」
「私ら、あんなのと一緒にいるやつと、これ以上仲良くする気ないから」
その言葉で、彼女達の意図は完全に理解できた。
千佳は彼女達に嫌われていた。理不尽な理由だと思うけれど、とにかく彼女達は千佳を嫌っていた。だから千佳とよく一緒にいる私を、脅してきたのだ。
最初に、グループ全員からの無視、という恐怖を与える事で
今後も千佳と仲良くするなら、ずっと無視し続けるぞ、と。
言外に、千佳と縁を切れ、と命令をしてきたんだ。
今になってみれば、そんな事を言う友人なんて本物の友人じゃないんだと思う。
その時、私は彼女達とこそ縁を切るべきだったんだろう。
でもそれは出来なかった。
彼女達はただでさえ気が強くて、その上気に入らない相手に対してはどんなことでもするんだと、知ってしまったから。もし私が彼女達の命令を断ったら、どんな目に合うのか。想像したら、私はもう断ることなど出来なかった。
「……わ、わかったよ。千佳とはもう話さない事にするから……」
私は彼女達に屈服し、自分の大切なものを一つ捨てた。
その時は頭が真っ白で何も考えられなかった。
自分が言った言葉の意味も、よくは理解していなかったんだと思う。
でもその日の放課後、私は否応なくその意味を理解させられてしまった。
いつものように帰りの学活が終わり、皆が机と椅子を教室の後ろ側に下げて帰ろうとした時だった。
まだ半ば混乱状態だった私に、いつも通り話しかけてくる子がいた。
「麻衣ちゃん、一緒にかえろ?」
千佳だった。彼女は私の状況など知る由もなく、全く普段通りの無邪気な笑みで話しかけてきたんだ。そしてその時、私は事の重大さを認識した。
放課後とはいえ、まだほとんどのクラスメートが教室に残っている中で、当然私のグループの子たちも教室にいた。リーダー格の香織を筆頭に彼女達は私の方を見て、私が千佳に対してどういう対応をするか監視していたんだ。
私は本当に動転していた。それが言い訳にならないのはわかっているけど、とにかくその時の私は冷静な判断が出来なくなっていた。千佳の誘いを断らなければ、グループの皆から爪弾きにされる。怖い。だから断らなきゃ。でも、どうやって?
今日はムリ、だとか、用事がある、だとか色々断る文句はあっただろう。でももし、その言葉が香織達の逆鱗に触れてしまったら? 千佳の誘いに返事をすることすら、彼女達にとっては許せないことだったとしたら?
私は混乱しきった頭で、思えば最悪の選択をしてしまった。
「……」
私は何も答えず、千佳が見えていないかのようにその場から立ち去った。
無視、したんだ。
今朝自分がやられて本当に辛い思いをしたその行為を、私は自分の身を守るためだけに、大親友に対してやってしまった。
「麻衣、ちゃん……?」
背後で再び名前を呼ぶ声が聞こえた。でも振り返る事は出来なかった。
その日の夜、私は千佳の家に行き謝った。
謝っても許されないことには違いなかった。けれど、罪悪感にせきたてられて動かずにはいられなかったんだ。
千佳は私の事を笑って許した。事情は説明出来なかった。それでも顔色一つ変えず、ただ優しく笑ってくれた。それが私の罪悪感をより一層刺激した。
翌日以降、学校で千佳が私に話しかけてくることはなかった。登校も別々にするようになり、公園みたいに人目につきやすい場所では遊ぶ事もなくなった。
全て千佳が私の事を案じた結果だった。事情を説明したわけでもないのに、彼女は私がどういう状況にいるのか察していたんだ。その時は千佳の優しさが嬉しくて、自分が傷つきたくないばかりにそんな風に気を使わせている事が申し訳なくて仕方なかった。
でもそんな事は、それから私が行なう悪行の中では、まだまだ序の口だったんだ。
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