第8話
「ふわー。結局今日は基本的なフォームを教わっただけでしたねー」
由紀は何だか物足りない様子でそう呟く。
その日の練習が終わった後、再び少女三人は部室で着替えていたのだった。当然、早川の姿はそこにはない。由紀の愚痴に茜が返事をした。
「しょうがないよー。ミット打ちとか力が入るとどうしても自然なフォームが崩れちゃうからね」
そんな二人のやり取りを遮るように麻衣が発言する。
「先生、まだ職員室にいるかな……」
「?」
茜も由紀も不思議そうな顔をしてその質問を聞いていた。
「まだいるんじゃないでしょうか?」
「どうしたの?」
茜が理由を問うと、麻衣はぎこちなく笑顔を作って
「いや、ちょっと野暮用で。とりあえず着替え終わったら先生のとこ行くわ。今日はその後さらに用事があるから、二人は私の事待たないで帰っていいよ」
と言ったのだった。
「……そうですか」
由紀は麻衣の様子が少し気になったが、それを悟られないように返事をした。
由紀は防具を一つ一つ外しながら
(麻衣ちゃん、なんだか元気なさげです。でも、あんまり詮索するのは良くないですよね)
と心配し、最後に脚のプロテクターを外そうと屈みこんだ時に、目前の異質な『ある物』に気付いた。
それは、誰かの腹だった。
由紀は咄嗟にその人の顔を確認する。由紀の目の前にいたのは茜だった。
茜は上半身だけ下着姿で、今までシャツの下に隠れていた腹が露になっていたのだった。その事に気付き、再び由紀は視線を彼女の腹部に戻す。
そして、絶叫した。
「ぎゃああああっ! お、おな、お腹がっ!!」
突然の叫び声に茜はもちろん麻衣さえも驚いて振り向く。
「わっ? びっくりしたっ」
「な、なに? いきなりどうしたのよ?」
「あ、あかねちゃん、のおなか、が……!」
「はぁ?」
ぶるぶる震えながら茜の腹部を指差している由紀。麻衣は意味が分からずその指がさす方向へと目を向ける。
直後、麻衣の叫び声が部屋中にこだました。
「うわわわわっ! ふ、腹筋が! すごいことにっ!?」
そこまで言われてようやく、由紀が何に驚いていたのか茜は理解する。
茜は苦笑いしながら自分の腹に手を当てた。
そこにあったのは、男性アスリートよろしく脂肪がそぎ落とされ、うっすらと筋肉の溝が分かるほどに引き締まった腹筋だった。
「ああ、これ? ごめんね、見苦しいもの見せちゃって」
「みみ、見苦しいとかではないです! 隠さないで!」
「どうやったらそんな腹筋になるの!?」
由紀と麻衣は茜の前に群がり、その鍛え抜かれた肉体を凝視する。
「これぐらいちょっと鍛えたらすぐついちゃうんだよー。私はちょっと痩せてるから腹筋が見えやすいってのもあるし」
茜は恥ずかしそうに説明するが、由紀と麻衣は未だに彼女の腹筋をまじまじと見つめている。
「はぁー、惚れ惚れするくらいカッコいい身体です」
「ほんとほんと。よく見ると腕とかもすごいよ。ムキムキじゃないけど、引き締まってて彫刻みたい……」
同じ性別ながら自分達とは全く違った体つきの茜に、憧憬の眼差しすら向ける二人。
「ベルヒットやってたら二人もすぐこうなるよー?」
あんまり二人が大騒ぎするので、茜は釘を刺すように言う。
「そ、そうなんだ。ゴクリ……」
麻衣は自分の身体が茜のようになった状態を想像して思わず唾を飲み込んだ。
「……それは、どうなんでしょうね。男性的には」
ぽつり、と由紀が呟くと、三人は途端に沈黙してしまう。
「…………」
三人で顔を見合わせたり自分のお腹を触ったりしながら、誰も発言しない奇妙な時間が過ぎていく。
この沈黙はまずい、と思った由紀が、隣にいる麻衣のお腹をつんつんと突いて繰り返す。
「男性的にはどうなんでしょうね、麻衣ちゃん」
聞かれた麻衣は迷惑そうな顔をして
「……どうして私に聞くのよ」
と聞き返し、由紀は何の他意もない表情で答える。
「だって、麻衣ちゃんが一番男慣れしてそうなんですもの」
「どういう意味?」
真顔で再び聞き返す麻衣だったが、由紀が答えるより先に茜が口を開く。
「私は男子に見られたことないけど、見られたら割と引かれるんじゃないかな……」
「…………」
そんな救いのない言葉に再び二人は沈黙してしまう。今度は麻衣が早いうちに口を開いた。
「……ま、女子校なんて来てる時点で、男にモテるのは諦めたようなもんだけどね」
それに由紀が同調する。
「それもそうですね。でも、私達なんてわざわざ女子校来て格闘部なんて入って、まるっきり男性にモテる要素ナシじゃないですか」
「あはは、言えてるね」
茜が軽く笑って賛成する。
「ふふふ」
「あはははは……」
三人はそうして一しきり笑った後
(私ら、結構まずい選択をしてきたのでは……)
同時に同じようなことを考え、小さくため息をついたのだった。
三人の着替えが終わり、部室から廊下を歩いた先で麻衣が手を上げた。
「んじゃ、私職員室行って来るから、また明日ね」
由紀と茜は同様に手を振り返し別れの挨拶をする。
「はーい。また明日ですねー」
「麻衣ちゃんじゃーねー」
挨拶を済ませると麻衣はそのまま小走りで廊下を進んでいき、その先にある職員室へと扉を開いて足を踏み入れた。
「すみません。早川先生いらっしゃいますか?」
踏み入れるとすぐに麻衣は大きな声で早川の名を呼ぶ。
すでに部活の終了時間であり、残っている教師は多くない。麻衣はその中にすぐ目当ての人物を発見する。彼は目を丸くしながら麻衣の呼びかけに答え、彼女を手招きした。
「こっちだこっち。どうしたー? なんかあったか?」
麻衣は手招きに従って近寄りながら、
「ううん。ちょっと相談したいことが……」
と返事をする。早川は意外そうに眉根を寄せた。
「相談? それは、部活に関すること、だよな……?」
麻衣は小さくこくり、と頷いた。
「して、その相談というのは?」
早川が本題を問う。すると、やや話しづらそうに小声で喋り始めた麻衣。
「あの、まだ最初の練習終わったばかりだって言うのに気が早いとか、色々思うかもしれないけど……私、近いうちにどうしても第三格闘部と練習試合がしたいんだ」
麻衣の口から告げられた、突拍子もない希望。
「練習試合って、しかも第三格闘部? なんでいきなりそんな事を……」
突然の申し出に、早川は驚きを隠せない。だが麻衣はその反応も予想していたようで気にせず話を続ける。
「先生は、天見千佳あまみ ちかって生徒を知ってる?」
麻衣が口にした生徒の名を、早川はよく知っていた。
「ああ、第三格闘部の新入生だろ。第三格闘部の顧問とは仲がいいからな、よく話は聞いてるよ。確か中学時代は全道常連で、最後の大会では全道ベスト8、惜しくも全国行きを逃したっていう期待の一年生エースだったな。そいつが、どうかしたのか?」
早川はまだ合点が行かない様子だった。
「……今から、理由を話すね。冷静に話せなくなっちゃうかも知れないけど……その、聞いて貰えますか?」
どもりながらそういい終えた麻衣の顔つきは、彼女が先ほど部活で見せていた物とは全く異なっていた。彼女の切ない表情は、とてもつい数ヶ月前まで中学生だった少女のものとは、早川には思えなかった。その様子に並々ならぬ気配を感じ、彼は唾を飲み込む。
「……わかった。話してみろ」
早川は麻衣の瞳を見つめ、小さく頷いた。
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