第17話
由紀と麻衣は顔を見合わせ、息を飲んだ。
「ガードとフットワークは既に練習している通り。キックは今回教えない。足を使う技は重心が不安定になるし、その間確実に足が止まるという弱点があるからだ。初心者にはまず使いこなせない。そして、パンチもたくさんの種類を教えてしまうと、実戦で使うべきものが分からなくなってしまう。だから、一種類だけを教える」
「でも……一種類だけじゃ単調になってしまわないんですか? 相手に読まれたり……」
「それは大丈夫だよ。パンチの種類が分かっただけじゃ避ける事なんて出来ないから」
今度は茜が由紀の問いに答えたのだ。早川は頷きながら説明を始める。
「その通り。まして今回教えるのは『クイック』と呼ばれる、最もかわすのが難しいパンチだ。今から実演してやるから、よく見とけよ」
と言って、右手右足を前に出したファイティングポーズをとった。
「このパンチは標準の右前姿勢から放つ。この体勢から拳の力を抜いて、ひじは下向きで脇を開かない。拳は胸の高さで固定、そして肩を入れて……」
「そ、そして……」
麻衣と由紀が固唾をのんで注目する。
「素早く打つ!」
早川の拳が、シュッ、と軽い音を立てて振り出され、すぐに引き戻された。
早川は流し目で、どうだ? と言わんばかりに視線を送る。
対して由紀と舞は
「へっ?」
「そ、それだけ?」
と拍子抜けしたように呟く。だが、早川には聞こえていなかった。
「この時注意するのは、相手に当たる瞬間だけ拳に力を入れること。そして、肩から真っ直ぐ最短距離で相手に当てるように腕を動かすことだ。そうすると相手からは初動の見えづらい、極めて防ぎにくいパンチになる」
真剣極まりない表情で何度も繰り返し実演する早川。
納得が行かない様子で由紀がまたしても彼に食ってかかる。
「そ、それ知ってますよ。ボクシングで言うジャブですよね! 嫌ですそんな地味なパンチ! 私も茜ちゃんみたいに強く打ちたいんです! 一騎お兄ちゃんだって強打の方が好きって言ってたじゃないですか!」
早川は度重なる由紀の抗議にしかめ面をした。
「うるせえなぁ。こういうのは地味な技が実際一番強いんだよ。ベルヒットじゃ弱いパンチでも当てりゃあ同じ得点だし。だいたい、お前みてえな軟弱者の強打なんて誰が怖がる? 初心者は力入れずに当てるだけのパンチで良いんだ」
「嫌です嫌です嫌です! そんな事ばっかり言って、いつになったらカッコいい戦い方が出来るんですかーっ?」
子供のように駄々をこねる由紀。早川はもちろん、麻衣や茜でさえも苦笑してその様子を見ていた。
「心配しなくても、練習試合が終わったらちゃんと教えてやるよ。今は時間がないから、騙されたと思って俺の言うとおりに練習してみてくれ。絶対後悔はさせないから」
早川は半ば諦めたような感じで由紀の頭の上に手を置き、説得しようとする。
「……約束ですよ」
由紀はそれでもまだ不満げな表情をしていたが、仕方なく了解したのだった。
「よし、それじゃあ早速練習するぞ。茜は今さら退屈かもしれんが、フォームチェックだと思ってやってみてくれ。俺の真似をして」
早川はもう一度見せ付けるようにしっかりとフォームを作り、部員達三人はそれを真似して身構える。
シュッシュッ、と二度三度繰り返しクイックブローを放つ早川。
見よう見まねで真似する由紀と麻衣に、早川は一箇所ずつ指摘をしていく。
「麻衣脇が開いてる。それじゃスピードも出ないし、脇腹は相手にとって格好の的だぞ」
「はい」
「由紀は肩に力入りすぎ。強打するにしても腕力に頼ってちゃ駄目だ」
「はーい」
「麻衣、脇締めんの意識しすぎて腕に余計な力入ってる。あくまでスピード重視だから、腕の力はほとんど抜いてしまうつもりで打て。拳の位置が下がってきてるぞ由紀。おっと、言い忘れたけど頭はぶれないようにしろよー」
「うわー、色々気にする事多くて大変です!」
「だね。意識しすぎると力入っちゃうし……」
由紀と麻衣は真剣に練習しながらそんな事を漏らしていた。
早川はそんな彼女達の動きを見ながら考える。
(麻衣はなかなかいい動きをするな……。身体のバランスが保たれていて、模範的なフォームに近い。中学では運動部に入っていたんだろう。……このブローと、練習中のあの技さえ完成させれば、なんとか天見にも通用する武器になるか)
麻衣の様子をしばらく観察した後は由紀へと視線を動かす。
「由紀! また力入ってるぞ! 脱力脱力!」
早川は注意を促しながら、
(由紀は、運動神経自体は悪くない。確か中学では吹奏楽をやっていたんだっけ。肺活量はありそうだが、運動経験の面ではやっぱり少ないんだよな。なんにせよ、基礎体力と身体の動かし方さえ身につければ、飛躍の可能性は充分にある)
と頭の中で冷静に寸評する。そして最後の一人、
「茜、打つとき少しだけ体が開く癖がある。それだと力が分散するし、腕の戻しも遅くなるぞ。体が開かないように意識してみろ」
「はい!」
茜に対しても、早川は変わらずフォームの指導をしたのだった。
(茜は、すでにかなりいいフォームを身に付けてるが、まだまだ改良の余地がある。磨けば輝くことが約束されている原石みたいなもんだ。指導者としちゃ、これほどやりがいのある選手も珍しいな。おまけに、性格も素直で大変よろしい)
脳内で茜をべた褒めする早川。知らず知らずの内に彼の視線は茜に向いており、茜は自分のフォームがおかしいのかと何度か首を傾げる。
その事に気付いた早川は慌てて視線を外し、ごほごほとわざとらしく咳払いをした。
彼は再び三人のフォームを確認し、しっかりと形になっているのを見届けた上で、声を張り上げた。
「さて、大分さまになってきたな! そしたら今度は、動いている標的に向かってやってみるぞ! 茜、これ使って由紀の方お願い出来るか?」
早川は練習場所のすぐ脇においてある大きめのリュックから、古ぼけたトレーナー用のミットを一セット取り出し、茜に向かって投げる。
「りょうかーい」
茜は嫌がる素振りもなく受け取って、すぐにそれを装着した。
早川もリュックを漁ってもう一セットのミットを手に取った。
「あれ、私達はグローブしなくていいの?」
そう尋ねたのは麻衣。練習ではずっとフットワークやフォームの確認を行なっていたため、まだグローブを装着していないのだった。さすがにミットを打つためにはグローブをしなければと思っての発言だったが、早川は首を横に振る。
「いや、グローブはしなくていい。素手でミットに打ち込んでもらう」
由紀が怪訝そうに
「素手? でも、素手だと手が痛くなったりしないんですか?」
と聞くと、早川は手に持ったグローブを装備しながら答える。
「今やってるのは当てるだけのパンチだから問題ないよ。むしろ、グローブをつけない方が拳の感覚が鮮明に分かっていい。拳で正確にミットの中心を打つ感覚を覚えるんだ」
早川の指示によりミット打ちの練習が始まる。
早川と麻衣、茜と由紀のペアに別れ、早川と茜が適当に動きミットを構えた所に、麻衣と由紀が狙って打ち込む、という練習だった。
そんな練習の最中、茜はふと考えていた。
(なるほど。グローブをつけなければ、グローブの大きさによる誤魔化しが効かなくなる。初心者が正確なパンチを身につけるにはもってこいの練習法だね。……それにしても、先生の練習もその方針も、独特だけど理に適ってる。見たことのないタイプのトレーナーだ……)
茜は思い出す。思えば入念過ぎるフォーム確認は、ガードの基本姿勢を体に染み込ませ、どんな時でも素早くガードを固められるようにするもの。練習の大半を占めるフットワークもそうだ。試合に必須のスタミナを鍛えながら、足を使って相手の連打から逃げるための練習である。格闘技でありながら攻撃の練習はほとんどせず、代わりに防御を固め続けてきたのだ。
そして今習っている一種類のパンチを習得すれば、回避型の基本戦法に必要な技術は全て習得された事になる。一週間地道にやってきたように見えて、実際には恐ろしいほどの近道を通ってきたことを知り、茜は身震いする。
(正直、二週間で選手が仕上がるなんてあり得ないと思ってた。でも先生にとっては、充分可能な事だったんだね。やっぱり先生はすごい。すごい、けど……)
彼女の脳裏に、ふと過ぎるある疑問。
(早川先生は、一体何者なんだろう……?)
今まで気にした事もなかった、師の過去。
だが、そんな思考をかき消すように、甲高い声が彼女の耳に届く。
「茜ちゃん、危ないっ!」
「え、うわわわっ?」
茜は気付けば、他部活との仕切りとなっている設置式のネットのすぐそばまで来ていたのだ。彼女はネットのフレームを踏んで転びそうになり、すんでのところで由紀によって救出される。由紀が茜の腕を掴み、転ばないように体を支えたのだった。
「……あ、ありがと。由紀ちゃん」
「いえいえー、練習を手伝って貰って感謝するのはこっちの方ですよー」
由紀はひょうきんな笑みで答え茜と少しだけ距離を取る。
「でもおかげさまで、かなりいい調子です。これは試合にも期待が持てますね」
「……あはは、そうだね。ここまで来たら、勝ちたいね」
茜はつられて頬を弛めながら同調した。
「もちろん! 華々しく勝とうじゃありませんか!」
「うん!」
彼女達は元気な声でそう約束する。
(いい感じだな、由紀のやる気も上向いてきて)
早川がそんな彼女達の様子を見て微笑む。
「麻衣。動く相手に対しては、腕じゃなく肩の向きで合わせろ」
茜と由紀を視界に入れながら、麻衣に対する指導も気を抜かない。
「っ……。はい、先生!」
麻衣は気を抜く素振りなど一切ない。教わったとおり、何度も早川のミットへと拳を打ちつける。それを受け止めながら、麻衣の表情と脚の動きに目を向ける早川。
ミットを狙う目は真剣そのものに違いないが、脚は軽くもつれ、顔には苦痛の色がありありと浮かび上がっていた。今までの練習では見られなかった麻衣の表情だった。
(今日で練習開始から十日間……。こっちも、そろそろだな……)
早川は一度小さく息を吸い、後ろに大きく後ずさった。
逃げるように動いた早川を追うため、麻衣は素早く前に踏み込もうとする。
その時だった。
かくっ、と。
折れるように麻衣の膝から力が抜ける。
まるでつっかえ棒を払ったかのように、麻衣の体が支えを失い、その場に崩れ落ちた。
「あ、れ……?」
彼女はそのまましりもちをつき、自分でも信じられない様子でぺたんとその場に座り込んでしまったのだ。
「麻衣、大丈夫か」
早川は麻衣が驚くほど冷静に尋ねたのだった。
「う、うん」
早川が手を伸ばし、彼女の腕を掴んで引き起こしてやる。麻衣は早川の助けを借りて立ち上がり、不思議そうな顔をして足踏みを繰り返したりした。
「なんだろ、今……勝手に脚の力が抜けたような……」
「ふとももを中心にストレッチしてみろ。膝とか足首の痛みはないか」
麻衣は指示に従ってその場で出来るストレッチを行なう。
伸脚や屈伸など一通り行なったが、特に異常がある様子ではない。
「関節は別に痛くない、かな」
「そうか。まあ少し休憩してよう。この後もフットワークの練習やるからな」
早川は無表情でそう答え、視線を茜たちの方へと向ける。
茜と由紀は麻衣が倒れそうになった事には気付いておらず、そのまま練習を続けていた。
麻衣はいくらか困惑していた。脚の力が急に抜けてしまったことに、だけではない。その明らかな異常事態に対し、早川が特に関心を示していないことにである。
麻衣はもう一度脚の調子を確認し、やはり痛みがないことを知る。
(さっきはびっくりしたけど、大丈夫だよね……)
自分に言い聞かせるようにそう脳内で呟いた麻衣。
この時彼女は脚のことについて、あまり深刻に考えていなかった。
十数分後、自分の体に大きな異変が起こる事とも知らずに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます