第16話

大星由紀は自宅にて、袋に入った白い粉と睨めっこしていた。


「これが型採り粉ですか……」


 彼女がいるのは自室、それも学習机に向かって座っている。机の脇にはDVDディスクが置かれており、『初心者でも簡単 歯形採取キット』などと印字がされていた。

 なぜそんなものを彼女が持っているのかというと、本日部活帰りに茜と話したことがきっかけであった。彼女はその時のことを思い出す。




「茜ちゃん、いっつも練習の時なんか口につけてますけど、あれって何なんですか?」


 暗い夜道を歩く由紀と茜。由紀はコンビニで買った菓子パンを片手に持ちながら、同様に隣で蒸しパンを食べている茜へと尋ねたのだった。

 茜は口に含んでいる分を咀嚼して飲み込んでから質問に答える。


「ああ、あれ。マウスピースなんだよー」

「マウスピース! それって、あの歯が痛まないようにする……」

「そうそう、それ」


 由紀は興味深そうに質問を続けた。


「へぇ、やっぱりベルヒットやるには必要なんですか?」


 すると茜は小首を傾げながら


「んー、人によるかな。力入れて殴ったり蹴ったりすると、歯食いしばっちゃうからね。あとマウスピースつけてると歯が痛まないだけじゃなくて、普段より力が出やすくなるよ」


 と返事する。


「そうなんですかー。私も出来たらガシガシ殴るタイプの選手になりたいので欲しいですねー」


 両腕をブンブン振るって笑う由紀。すると茜はふと思いついたような顔をして


「実はうちに、マウスピースの型採るキットが余ってるんだよね。あれって通販のは注文してから型採って送るんだけど……お父さんが間違ってたくさん注文したから、使わないのにうちにいくつかあってさ。もし良かったら、あげようか?」


 と由紀に提案する。由紀は目を丸くして答える。


「貰えるなら貰いたいですが……、マウスピースっていくらくらいするんでしょう?」

「……七千円くらいかな? でも、お金なら注文の時に払ってるから気にしなくていいよー。どうせ余らせてても仕方ないし、タダであげるよ」

「え! いや、七千円もするのにタダで貰うなんて、さすがに図々しいですよ!」

「へ? どうして?」


 茜が由紀の言っている意味が分からないようで、疑問符を顔に浮かべていた。


「いえ、どうしても何も……」


 おかしいと分かっていても、相手が平気な顔をしていると由紀は強く言えなくなってきたのだった。対して茜はなおも全く表情を変えず続ける。


「うち、もうすぐそこなんだ。遠慮しないで持って行ってよ。今度麻衣ちゃんにもあげようと思うからさ」

「あら、おうちのそばまで来てたんですか」


 マウスピースの話以上に、茜の自宅の様子に興味がわいた由紀。きょろきょろと辺りを見回して茜の家を探す。

 するとその視界に、一際目立つ住居が映る。


(わ、すごくでっかい家……お城みたいです)


 無駄すぎるほど豪奢な佇まい。中世の貴族が住んでいるのではないかと錯覚する出で立ちの住宅であった。由紀はそれを見て、呟くように茜に尋ねる。


「あの家すごく大きいですね。一体どんな人が住んでるんでしょう?」

「あれ、私の家だよ」

「あー、なるほど……ってええっ!!」


 夜中に仰天して大声を上げてしまう由紀だったが、それほどまでに予想外の事実だった。


「それじゃ、取ってくるから待っててね」


 家の前には門があり、門の先には大きな庭。豪邸と外側を区切る塀の脇に佇み、由紀は豪邸へと帰っていく茜の後姿を見送った。頭の中で絶叫しながら。


(あ、茜ちゃん、めちゃくちゃお金持ちじゃないですかーっ!?)





 意識は彼女の自室に戻る。


(そんなわけで、結局マウスピースの型採りキットを貰ってきてしまったわけですが……)


 これで歯形を採って送ると茜の自宅に由紀用のマウスピースが届く計算になる。

 果たして七千円もするものを無料で貰ってもいいのだろうか、と一抹の不安が残る由紀だった。とはいえ貰ってきたものを今さらつき返すわけにも行かず


「ま、大丈夫ですよね。でも、やっぱり後で貰う時にお金払いましょう」


 と自分なりに納得してうんうんと頷く。

 彼女は自室のテレビで付属のDVDを観ることにした。型採りの方法が詳しく解説されているという。彼女は円盤をゲーム機に入れる。そのゲーム機にはDVDプレイヤーの機能があるので代わりに使っているのだった。

 それから数分間あれこれ呟きながら、由紀は映像を見終える。


「なるほどー、準備が必要ですね」


 そして机の上に必要な道具を一通り用意した。

 まず型採り粉を溶かす為のボールと水。さらにはかき混ぜる為のへらを。


「ふぅ、何か緊張します」


 由紀は意を決して型採り粉の袋を開けボールに粉を全部流し込んだ。それから、そこに水を加えて思いっきりかき混ぜる。


「素早く素早くー」


 しばらくかき混ぜると、白いどろどろしたクリームのようなものが出来上がる。


「これをフレームにのせて……」


 由紀は出来上がったクリーム状のどろどろを歯列の形をした透明なフレームの上に盛り付ける。へらを使ってスポンジケーキにクリームを塗りつけるような感覚で、偏らないように丁寧に盛り付けていく。

 透明なフレームの上に白いクリームが乗っかった状態が完成する。あとはこれに噛み付けば、歯形を採取する事が出来るのだ。


「うぅー失敗しそうで怖いです」


 由紀は勇気を振り絞って採取フレームに噛み付いた。上唇を上に引っ張り、フレーム全体に被さるようにする。

 意外と固くて、普段味わわない奇妙な感覚が彼女を襲う。


「……ん、む……」


 しばらく待ってから、彼女は顎を緩め採取フレームから口を離した。

 すると、平らだった白いクリームに、綺麗に歯形や歯ぐきの跡が残っている事に気付く。


「やった。上手く行きました」


 彼女はそれをあらかじめ用意しておいた容器の中に入れる。容器には水が入っており、採取した歯型が乾燥してしまわないようになっていた。

 彼女は軽くガッツポーズをしてから、やや大儀そうに息をつく。


「あとはこれを……三回、繰り返すんですか……」


 上顎の採取を二回、下顎の採取を二回行なわなければならない。


「めんどくさいー。……でも、これさえ乗り越えれば、憧れのマウスピースが手に入るんですね……。頑張りましょう」


 彼女は自分を叱咤し、次の作業へと進んでいく。


「さあ、私もマウスピース付けてバシバシ殴りまくりますよー」






「と、思っていたのに……」


 大星由紀は、完全にむくれていた。そこは体育館。いつも通り部活の練習が行なわれており、同じ空間に茜や麻衣、早川もいる。


「練習試合が決まってからの一週間というもの……、いつになったら本格的な練習をするのかと思っていたら……」


 彼女が怒っていたのは、部活の練習内容についてだった。

 早川に向かって噛み付くように、彼女は犬歯を露にして抗議する。


「一週間ずっと同じ練習じゃないですか! それもフットワークの練習ばっかり! 格闘部に入ったのに練習では走ってばっかりってどういう事ですか! 陸上部じゃあるまいし!」


 早川はうるさそうに由紀の抗議を受け流す。


「……ちゃんとフォームの確認もしてたじゃないか」

「だからぁ! 一週間走ってガードのフォーム確認するだけだったんですよ! せっかくマウスピースも注文したのに! どうしてパンチとかキックとかさせてくれないんですか! 私だってこの前の茜ちゃんみたいに一騎お兄ちゃんのことボコボコ殴ってストレス解消したいですー!」

「お前ベルヒットを履き違えてるだろ! つか俺を殴りたいだけじゃねえか!」


 ぎゃあぎゃあと罵りあう二人。麻衣と茜は苦笑いしながらその様子を眺めていた。


「大体、試合までもう全然時間ないんですよ!」


 由紀は一層声を張り上げて主張する。


「今日が金曜日。試合は来週の水曜日ですから、土日練習したって今日入れて五日しかないです! まだパンチもキックも教わってないのに、どうやって試合で勝つんですか!」


 早川はとりあえず興奮しきっている由紀をなだめた。


「まあ落ち着け。俺だって無策じゃねえよ」


 由紀は気持ちが収まらない様子で、がるる、と獣のようにうなる。


「じゃあ教えてください。どうやってあと五日で戦えるようにしてくれるのか」

「……そうだな、ちょうど今日を入れて練習できるのは五日間。今日までの一週間あまりでは、ひたすらに防御の練習をしてきた。そして今日、ちょうど攻撃を練習する目処がついたわけだ」

「……どういうことですか」


 不審そうに聞き返す由紀。だが早川はあくまで余裕そうな笑みを浮かべて説明する。


「今日は、何の練習をした?」

「前後左右のフットワークと、対人を想定したフットワーク。まだ一セットずつ」


 麻衣が横からすぐに答えたのだ。


「そうだな。で、お前らの体力的にはどうよ」

「どうって……、そりゃあまだきついですけど、まだ一セットしかやってないですよ」

「そうだよ。昨日までは休憩挟んでそれぞれ三セット以上やってたんだから」


 早川は由紀と麻衣からの期待通りの返答に嬉しそうな顔をして頷く。


「今日練習したのはそれぞれ三分間のフットワークを休憩挟んで三つ。毎日限界まで走りこんでたから、もうこれぐらいじゃあへこたれないな。んで、今度の試合は何分間くらいやるんだ?」


 今度は茜が即答する、


「1ラウンド三分間の3ラウンド勝負。三分間を休憩挟んで三回、だね」


 すると、麻衣と由紀の表情が変わる。


「あ、それって、今日のフットワークの時間と同じ……」


 驚いた表情で漏らす由紀。早川はにやりと得意げに笑う。


「そうだ。お前たちは過酷なトレーニングの成果、なんとか一週間で今度の練習試合を最後まで戦い抜く『最低限の』スタミナを手に入れたんだ。本当はもっともっと走らせたかったがな。とりあえずスタミナに関しては及第点ってことだ」

「そうだったんだ……。それじゃあ、ようやく今日から……」


 麻衣が呟くと、由紀は瞳を輝かせる。


「やったー! 今日からバシバシパンチしたりキックしたりさせてもらえるんですね!」


 だが、そんな彼女の喜びに水をさすように、早川は首を横に振る。


「いいや、今日からも練習の時間はほとんどフットワークだ。特に対人形式のフットワークを重点的にやっていく。攻撃の練習をする時間は……せいぜい三十分ってとこか」


 すると由紀が例の如く不満を呈する。


「三十分っ? 三十分じゃ、五日間練習しても二時間半にしかなりませんよ! 二時間半じゃ、まともな攻撃なんて出来るわけが……」

「そりゃ、まともな攻撃なんて出来るわけない。そもそも二週間で素人を戦える状態にするためには、全ての技術を平均して伸ばしていたのでは間に合わないんだ。だから俺は今回、お前らに必須な技術だけを教えるつもりだ」

「必須な、技術……」


 自信に溢れた早川の表情に、麻衣は思わず嘆息した。

 そして早川は、今回の指導における最大の秘策を告げる。


「俺がお前らに教えるのはガードとフットワーク。そして、一種類のパンチだけだ」

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