第15話

麻衣は目を見開き、早川の言う意味が理解できないことを伝える。


「そ、そりゃ、そうだよ。戦うより逃げる方が楽だし、逃げるのは卑怯だもん……」

「本当にそうかな」


 早川は麻衣の顔を見据え、もう一度確認するように語り始めた。


「例えば最初に見た試合、天見の相手は勇敢に戦ったが、試合は数秒で終わってしまった。それに対して、二番目の相手は終始逃げ続け、とうとう1ラウンド逃げ切った」


 麻衣はまだ早川の意図がつかめなかった。


「……それが?」

「その後試合はさらに長引き、結局3ラウンド目の中盤で天見が相手を捕らえ、連打を浴びせて試合は終了した。でも、時間に換算すれば10分近く戦っていたことになる」

「え、10分も……?」


 麻衣が驚いた様子で漏らすと、早川は畳み掛けるように続けた。


「お前、今日の練習で3分間フットワークをした時、どんな気持ちでやってた?」


 麻衣は練習の時を思い出し、偽りなく答える。


「辛い、って思った」

「辛いと思ったよな。早く終わってくれと思ったよな」


 早川がそう確認すると、麻衣は何度も頷いて肯定した。


「言っとくが、試合の3分間はあんなもんじゃないぞ」


 彼の言葉に聞き入る麻衣。


「不規則に動く相手と、三分間ひたすら戦い続けるんだ。身体の疲労は規則的なフットワークの比じゃない。逃げ続けるならなおの事だ。常に追いかけられるプレッシャーと戦いながら、神経をすり減らして、それでも足は止められない。お前はこの戦い方を、楽な戦い方だと思うか?」


 麻衣は何も言い返せず、ただ首をふるふると左右に振った。


「逃げるのは楽でもないし、悪い事でもない。これは、理解できるな」


 早川は麻衣に確かめるように、もう一度優しく問いかける。


「……うん。分かったよ」

「……考えてみれば、これは人生についても同じだなぁ。お前は一度逃げてしまった。友達の事を見捨てて。それは確かに良くない事ではあったけれども、本当に良くなかったのは逃げた事じゃなく、逃げたままで戦おうとしなかった事だ。違うか?」


 早川の真剣な表情を見て、麻衣は大きく肩を震わせる。

 その通りだ、と麻衣は思う。

 彼女は一度逃げた。でもその後だって、友人である千佳を助ける機会は何度でもあった。ほんの少しでも勇気を出していれば。麻衣の目が無意識に潤んでいく。

 早川は強い信念のこもった眼差しで麻衣を見据え、告げた。


「いいか、麻衣。逃げるのは悪い事じゃない。本当に悪いのは……戦うのを諦めることだ。逃げてはいけない時に、勇気を出して戦わないことだ」

「早川先生……」


 麻衣は何も答えられず、ただ早川の名を口にするばかりだった。


「だから今度は間違えないように、俺が教えてやる。ただ逃げるのではなく、戦う為に逃げる方法を。そして、本当に引き下がれない瞬間に、歯を食いしばって戦う方法を」

「せんせい……」


 瞳に涙を浮かべながら、うわ言のように呟く麻衣。


「……俺が教えてやる。弱い自分のぶち壊し方を」


 早川は麻衣の頭の上に手を置き、そう言って力強い笑みを作る。






 少し時間を置いて麻衣の気分が落ち着いてから、早川による指導が始まった。


「まず、基本的なスタンスは回避型だ。フットワークを利用して相手の攻撃をかわしまくる。かわしながら手を伸ばして地道にポイントを稼ぐ。これが基本」

「はい!」


 椅子等を片付けてある程度広くなった部室の中央で、麻衣がファイティングポーズをとり、早川がその様子を見つめる。


「膝を少し伸ばして重心は高めにする。フットワークを軽くするためだ。右手を前に突き出すと典型的な遠距離型アウトレンジスタイルのフォームになるが、今回は腕の位置は変えずに行こう。そっちの方が他の動きにもつなげやすいからな」


 麻衣は頷いて自分のフォームをしっかりと確認した。


「さて、回避については普段の部活でしっかり教えていくつもりだ。今日やったフットワークも含め、二週間後にはそれなりの動きが出来るように練習していく。だが……」

「だが?」


 早川が言葉を濁すので、麻衣は不安げな表情で聞き返す。


「正直言って、それで善戦出来るとは思っちゃいない。さっきDVD見たよな。回避型で3ラウンドまで戦った選手は、他の大会でも成績を残している相当のやり手だ。それだけ強い選手が回避に専念して逃げ切れなかった。なのに、お前が二週間練習した程度で逃げ切れるわけはないな」

「それは、そうだけど……」


 じゃあどうするのか、とでも言いたげに麻衣は早川の目を見返した。

 すると早川は麻衣の正面に向き直る。


「だからもう一つだけ、ある技術を練習する」


 そう言うや否や、早川はずい、と麻衣の前に歩み寄って、身体を極限まで近づける。


「わっ?」


 麻衣はびっくりして後ろに下がろうとした。

 が、早川が途中で足を滑らせ


「うぉっ」


 麻衣の胸に手をついてしまう、

「あ」

 早川の手が柔らかい膨らみに触れ、きまずい沈黙が訪れる。


「…………」


直後、

「どこ触ってんのよ!」

「痛え! お約束かっ!」

 麻衣は顔を赤くして早川のすねにローキックをかましたのだった。


「何なのっ? 指導してあげるって言うから来たのに! 途中まで信じてたのに! この変態教師っ!」


 そのまま部屋から出て行ってしまいそうになる麻衣を、早川は慌てて呼び止める。


「ま、待てっ! 別に悪気があったわけじゃないって! マジで指導してたんだって!」

「……」


 蛇のような目つきで早川を睨む麻衣だったが、ひとまず帰るのはやめたようであった。

 早川は冷や汗を拭きながら


「今俺がやったように、俺に向かって軽く踏み込んでみてくれるか?」


 と指示する。麻衣は半信半疑の面持ちだったが、早川の言うとおりにした。

 一歩、大きく早川の正面に踏み込んで、ぐぐっと身体を近づける。

近づけてから、麻衣は早川の胸に手を触れた。

 早川が麻衣の胸に触ったのと全く同じように。


「……そこまで真似せんでいい」


 早川が呆れた感じで言うと、麻衣は徐々に顔を赤く染め直し


「何やらせんのよ!」

「痛えっ! お前が勝手にやったんだろうがっ!」

 恥ずかしさを隠すように強烈なローキックを二度、早川の足へと叩き込んだ。


「……で、何よ? 今のが何なの?」


 すっかり先生に対する敬意を喪失した麻衣が、蔑むような目つきで早川に尋ねる。


「最初に俺が近づいた時と、お前から俺に近づいてきた時、どっちが圧迫感あった?」


 早川は蹴られて痛む足をさすりながら、なぞなぞでも出すように聞き返したのだ。


「そりゃあ……近づかれたときの方が怖かったけど」

「だろ? これはベルヒットの試合でも同じなんだ」


 早川は麻衣の返答が期待通りだったらしく、嬉しそうに話を続けた。


「相手から近づかれるってのは怖いんだよ。それならむしろ、自分から近づいて行った方が怖くない。前進型の選手ってのは、実は意外と小心者だったり臆病な人が多いんだ。それは、追いかけるよりも追いかけられるほうが怖いと知っているから」


 麻衣は回りくどい早川の説明に痺れを切らして要点を聞く。


「だから、それが何なの?」

「この心理を利用してやればいい。途中まで逃げ続けていた人間が、急に態度を変えて迫って来たら、相手は恐ろしく感じるに決まってる。具体的には、回避一辺倒のスタイルの中に、突然急な前進による攻撃を織り込む」


 何も言い返さない麻衣に対し、早川は気にせず説明を続行する。


「かといって攻撃に転じすぎると反撃をもらって一発でアウトだ。とにかく基本は逃げに徹して、どうしても逃げ切れなくなったら攻撃に転じる」

「私に……そんな器用な真似が出来るかな……」


 不安そうに呟く麻衣を早川は叱咤する。


「やらなきゃ勝負にならないぞ」

「う、それは……」

「大丈夫。俺がしっかり攻め方を教えてやるから」


 そう言って、早川はDVDプレイヤーから先ほどのディスクを取り出し、今度は別のディスクを挿入して再生した。


「また千佳の試合?」

「いいや、今度はプロの試合さ」

「プロの試合って……、そんなもの見て何になるのよ。私初心者だってば」


 麻衣は怪訝そうにそう尋ねる。


「いいから見てなって。ほら、このシーンだ」


 早川が促したので麻衣は疑いの目のままテレビの画面を見た。

 そして


「……っ?」


 画面に流れる映像を見て、麻衣は息を飲んだのだ。


「驚いたか? これが出来れば、天見だって確実に怯む」

「でも、こんな事私には……」


 自身なさげに言葉を濁す麻衣に、早川はむしろ簡単そうに答える。


「いいや、この技のいい所は、特殊な身体能力が必要ないことなんだ。必要なのはただ一つ、傷つくのを恐れない勇気だ。お前にだって出来るはず」


 早川はDVDの再生を止め、机に手をついて宣言した。


「試合までの二週間で、この技を完成させる。いいな?」


 早川の大胆な宣言。麻衣は驚きのあまり、ごくりと唾を飲み込んだ。

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