第18話
クイックブローの練習は予定通り三十分足らずで打ち切られた。
少しの休憩を挟んでから、彼女らは再びいままで通りの練習メニューへと戻る。
麻衣に異変が起きたのは、そのすぐ後だった。
それは普段と同じ、フットワークの練習中だった。左右に素早く動き壁やネットにタッチして逆側へと戻る練習の最中。
麻衣はもう一度あの体験をした。
「あ……」
走りながら、突然膝から力が抜ける感覚。
素早く横に動いていた為、麻衣は滑るように体育館の床を転がってしまう。
すぐに前後の茜と由紀が気付き、慌てて声をかけた。
「麻衣ちゃんっ?」
「あ、あはは、いっけない転んじゃった……」
麻衣は無理して無事を装い、心配そうに覗き込む由紀や茜を制して立ち上がろうとした。
が、脚は彼女の思い通りには動かなかった。
両膝は少し力を入れただけでカタカタと振るえ、とても体を支える力などない。
彼女は立ち上がることが出来なくなってしまったのだ。
(嘘っ? あ、脚に力が入らない……? なんで?)
彼女は腕をついたりして必死に体を起こそうとしたが、しゃがみ込んだ姿勢から立ち上がる事は決して出来なかった。
「一騎お兄ちゃん? 麻衣ちゃんが……」
明らかに様子がおかしい麻衣を見て由紀が早川に対処を求めた。
だが早川は全く慌てる素振りもなく、座り込む舞に対して尋ねたのだった。
「麻衣、正直に答えろ。膝や足首の痛みはあるか?」
「……ううん、ない。ないけど……」
言葉を濁す麻衣。が、
「そうか。どうしたお前ら、フットワークは終わってないぞ。続けろ」
早川はぴしゃり、とそう言い放ったのだ。
「続けろ、って……。こんな状況で続けられるわけないでしょっ!」
由紀は怒って早川に掴みかかろうとする。早川はそれを片手でいなし
「お前らが練習を中断する理由はない。麻衣が走れないなら二人だけでも続けろ」
あくまで表情を変えず、暴言とも取れるようなことを言い続ける早川。
由紀は当然怒りを露にし早川に迫る。茜はフットワークの練習こそ中断していたものの、由紀のように早川へ反論することはしなかった。
茜は、麻衣が陥っている状態について知っていたのだ。
(関節に痛みもなく、激しい筋肉痛が起こっているわけでもない。ただ、筋肉が硬直して自然な働きが出来なくなっている状態……。慢性的な疲労と瞬間的な疲労を繰り返すとあんな状態になるって効いた事があるけど、それでも並の練習量じゃああはならない。麻衣ちゃん、普段の練習以外にも何かやっていたみたいだね……)
茜は麻衣を観察しながら、冷静に早川の意図を分析する。
(先生が平気な顔をしてるって事は、この状態になるのは予測していたって事? だとしたら、先生は本気で麻衣ちゃんに練習を続けさせようとしてるの……?)
だが、呆然と座り込んでいる麻衣には、もう立ち上がる力など残っていないはずだ。
(確かに怪我の心配はないかもしれない。けど、いくら先生でもそれはやりすぎだよ。筋肉が硬直してるのに、まともに立てるはずがない……)
茜もそう結論を下し、由紀がいよいよ早川の襟首を掴み上げそうになった。
その時、だった。
「由紀、いいよ。私まだ走れるから」
床に座り込んでいたはずの麻衣が
震える脚を自らの腕で鞭打ちながら、よろよろとその場に立ち上がったのだ。
「先生、すみません。すぐに再開します」
麻衣はがくがくと震える脚で立ち上がるなり、早川へと向き直った。
傍で眺め、驚きに目を丸くする茜。
(まさか……あの状態から立つなんて、すごく辛いはずなのに……。こんな状況で、どうしてそこまで頑張れるの……?)
由紀が咄嗟に
「麻衣ちゃん? 無理しちゃ駄目ですよ!」
と声をあげ、麻衣の体を支えようとしたが、麻衣はそれを拒否するように言う。
「いいって、由紀。心配してくれてありがとう。……でも私、多分ここで立たなきゃ駄目なんだ。ここで立てなきゃ、試合で最後まで戦い抜く事なんて出来ないと思うから」
その瞳には驚くほどの強い光が灯っていた。
「よし、続けよう」
早川は小さく頷き、三人に練習を再開するよう促す。
「麻衣ちゃん……」
心配そうに嘆息する由紀を尻目に、麻衣はもたつく脚で、再び左右のフットワークを始めた。
何度も脚の力が抜け倒れこみそうになりながら、その度に力を振り絞り気力で体を支える麻衣。その必死な形相は、もはや由紀にも茜にも、彼女を止める事を躊躇わせるほど。
麻衣は、立っているのも辛い両足で、懸命に体を運び続ける。
早川はその様子を注意深く見つめていた。
(早川先生……一体、どういうつもりなんだろう?)
茜には早川の意図が全く理解できないままだった。
その後練習は中断されることなく続き、結局最後まで麻衣は練習をやりとげたのだった。
練習を終えた後、麻衣はほとんど歩く事も出来ない状況になっていた。
しかし早川の指示で茜がマッサージをし、十分程度時間を置いたところ、なんとか歩ける程度には回復したのである。
早川はこっそり
「麻衣、今日の特訓はお休みだ。その脚を休ませないといかん」
と耳打ちした。麻衣はさすがにほっとしたのか胸を撫で下ろす仕草をしたのだった。
「つーか家帰れるか? 無理そうだったら車で送ってくけど」
早川が尋ねると、由紀の横槍が入る。
「駄目です。一騎お兄ちゃんみたいな変態さんに可愛い麻衣ちゃんを預けたら、一体どんなことになるやらわかりません。私たちが送っていきます」
「あ、それ同感」
麻衣も意地の悪い顔をして賛同する。
「お前らな……、俺がいつ変態行為をしたってんだ」
「あはは……。ていうか、皆で早川先生に送って貰えばいいんじゃ……」
茜が苦笑いしながら提案する。と、勢いよくその案に賛成する由紀。
「それもそうですね! それじゃ、三人仲良く送って貰うということで!」
「ということで! じゃねえよ! 俺に許可求めろ!」
気がつくと練習中の少し剣呑な雰囲気もどこへやら、いつも通りの会話が戻ってきていた。しかし、由紀が少しだけ先ほどの件に苦言を呈する。
「まったく、さっきはびっくりしました。まさか一騎お兄ちゃんがスポ魂漫画もびっくりの鬼コーチだったなんて。私たち一応女子高生ですから、手加減してください」
「……わかったわかった。いいからさっさと着替えて来いよ、送ってやらんぞ」
「な、私は真剣に部活の方針を憂いて言ってるんですよ!」
更衣室である部室に向かいながら再び口論を始める由紀と早川。
その様子を傍で眺めながら、茜は未だに腑に落ちない感覚を覚えていた。
(早川先生は、意味のない練習をさせるような人じゃないと思う……。でも、だとしたらさっきのは一体どういう理由があったんだろう? 麻衣ちゃんに、あそこまでして無理をさせた意味があったのかな……?)
なおも口論を続ける由紀と早川。その傍らで何か思いつめたように黙っている麻衣。
そんな三人の様子を眺めながら、ぼんやりと思考する茜。
皆それぞれの思いを胸に抱きながら、練習試合五日前の夜は更けていく。
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