第24話
そんな中とうとう、麻衣は自分の体力の限界が近づいている事を自覚してしまう。
「はぁっ……はぁっ……くっ」
襲い掛かる千佳をかわし、死に物狂いで逃げる。
(こ、んだけ、辛い、なら、残り時間も、もう少な……)
麻衣は逃げながら咄嗟に時間が表示されている得点掲示板の方を見る。
見てから、麻衣はそこに表示されている事実を知り、愕然とする。
(う、そ……まだ2分も経ってないの……?)
あと一分間以上も逃げ続けなければならないなど、考えただけで卒倒してしまいそうだった。それほどまでに、麻衣は極限の疲労状態に陥っていたのだ。
思えば、試合前から凄まじいプレッシャーに襲われていた。試合の緊張だけではない。千佳と戦う、という事実が、襲い掛かる彼女の表情が、事あるごとに麻衣の心臓を締め上げ、正常な運動を妨げた。全てが麻衣の体力を奪っていった。
心臓がばくばくとうるさいぐらい音をたてている。不意に、全身の感覚が薄れていく。体重が無くなる。全身が宙に浮かんでしまったような錯覚に囚われ、ともすればこのまま死んでしまうのではないか、という痛烈な恐怖が、全身を覆った。
すぐ目の前に、千佳が迫る。麻衣は辛うじて脚の感覚を呼び覚まし、ガードの上からブローを浴びながらも距離をとる。
千佳から逃げながら、麻衣は朦朧とする意識の渦に沈んでいく。
今ので何ポイント奪われただろうか。わからない。もうさして余裕はないだろう。あと一発貰ったら、それでお終いかもしれない。逃げ続けなければならない。いつまで? わからない。何もわからない。
ただ、辛い。苦しい。死んだ方がましなんじゃないかってくらい、苦しい。あと一分? 逃げ切れるわけがない。だったら、どうすればいい? 立ち向かったって負けるに決まってる。何より脚が前に動かない。立ち向かってもし失敗したら、終わりだ。こんな無様な結果では、千佳はきっと私の話なんて聞いてくれない。全て終わってしまう。怖い。本当に怖い。
(逃げなきゃ……)
逃げなきゃ。逃げ続けなきゃ。逃げ続けなければ。逃げ続けなければ。
(でも、苦しい……)
一体、いつまで。
いつまで逃げ続ければいいの。
どこまで逃げ続ければ、私は楽になれるの。
『本当に悪いのは……戦うのを諦めることだ』
消えかけた意識のどこかから、声が聞こえた気がした。
『俺が教えてやる。ただ逃げるのではなく、戦う為に逃げる方法を。そして、本当に引き下がれない瞬間に、歯を食いしばって戦う方法を』
戦う為に、逃げる? 引き下がれない瞬間に、歯を食いしばって戦う?
『俺が教えてやる。弱い自分のぶち壊し方を』
弱い自分を……
熱に浮かされたように必死で逃げ続ける麻衣。
そこに、千佳がいよいよ迫る。接近し、ブローをたたみかけようとする。
ともすれば、試合が終わってしまうような一瞬。誰もがそう思った。
早川はただ祈るように、拳を握り合わせ麻衣を見守る。
(頑張れ、麻衣……!)
今は何も伝える事が出来ない。だが、伝えるべきものは、すでに全て伝えたはずだ。
(弱い自分をぶち壊せ……!!)
麻衣の瞳に、小さな光が灯る。
そうだ。
逃げるのは、戦うため。
何度逃げても、どんなに無様に逃げようとも、譲れない一瞬だけは。
(千佳に、私の気持ちを伝えるんだ……!)
この一瞬だけは、前に進む。
『辛くて怖くて、どうしても脚が動かなくなった時は、練習を思い出せばいい』
先生が教えてくれた。だから、この脚は必ず動く。
(前に進む勇気は、この両脚が持ってる!!)
自分に言い聞かせ、麻衣は両脚を後ろに引いた。
軽く足を揃え、意を決して、迫りくる千佳を見据えて
渾身の力で床を蹴る。
限界に達した脚の筋肉が悲鳴を上げる。だが、止まるわけにはいかない。
彼女は全脚力を注ぎ込み、後ろ向きに進んでいた体を強引に前進させる。
突然の急ターンに、天見千佳は思わず立ち止まった。
直後麻衣は両腕を揃えて、拳から体当たりするように千佳へとぶつかったのだ。
「っ!?」
この試合において初めて、天見千佳の表情が、当惑のそれに変わった。
ベルヒットでは肩などを使ったタックルは禁止されている。だが、両拳を利用した体当たりならなんの問題もない。
ルールに則りつつも、基本を逸脱したその行動は、戦況を大きく変えた。
傍から見ていた者たちは、皆一斉に息を飲んだ。
麻衣の全力を注ぎ込んだ突撃により、先ほどまでひたすら攻勢に回っていた千佳が
第三格闘部のエースであり、道内屈指の実力者であるところの彼女が
バランスを崩し、その場に倒れてしまったのである。
「ぅ、ぁ……?」
千佳はしりもちをついて小さく漏らし、信じられない様子で対戦相手を見上げる。
「ふー……! ふー……!」
そこには、肩を大きく上下させながら、必死の形相で構えを続ける麻衣の姿が。
審判が慌てて笛を吹き試合を中断させる。これはまごう事なく、攻撃による転倒ダウンであった。
にわかに第三格闘部陣営がざわつく。特に黒木の驚きようは一通りではなかった。
「馬鹿な……! 千佳が……ダウンした……?」
相手が特待生徒レベルなら納得は行く。だが、今の相手は間違いなく初心者なのだ。
初心者に、あの天見千佳が引けをとるなどあり得ないことだった。
「何が起きてる……!」
「よぉぉしっ!!」
大きくガッツポーズをして喜ぶ早川。茜が驚いて早川に
「すごい……! 今のは……『グラスホッパー』?」
と尋ねると、早川は得意げに頷く。
「そうだ! この土壇場でよく成功させた!」
これこそ、早川がこの二週間で麻衣に教えていた奥の手だった。
両足を揃えて跳ぶことにより、素早く急な方向転換を可能にする技術。
この技は両足を使用するため、筋力の少ない素人でも比較的やりやすい。 だから早川は回避一辺倒のスタイルに組み込む唯一の攻撃手段として、この技を選んだのだった。
早川が天見対策の秘策として麻衣に覚えさせたこの技。
(本来は斜め前に飛んで、相手の横を掠めるようにブローして逃げる為の技なんだが、まさか両腕で突っ込むとはな……)
軽いブローでは天見に弾かれていたに違いない。結果的にではあるが、麻衣はこの状況で最善な選択をしたといえる。
ともあれ、両手による3ポイント×2と転倒の5ポイントで、合計11ポイントの大打撃を与え、相手との点差は1点。試合はほぼ振り出しに戻ったのだ。
脇から由紀が怪訝そうな顔で
「なんでそんな技を麻衣ちゃんが?」
「そ、それは……まあ色々と事情があって」
「事情ってなんですかー怪しい」
秘密の特訓を行なっていたとは言いづらく、誤魔化すつもりが逆に怪しまれてしまう早川。ところが由紀は意外にあっさり詮索するのを止めて、
「ところで、グラスホッパーってなんですか?」
技の名前の由来が気になったらしくそんな事を聞いてくる。
早川はホッと小さく胸を撫で下ろし、その質問に一言。
「バッタだよ」
「え?」
「バッタを英語でグラスホッパーっていうの。両足揃えて跳ぶところから付けられたのさ」
「……」
早川の答えに由紀はだんだんと真顔になってゆき
「……バッタって! 女子高生の行動にそんな名前つけないでください! もっといい呼び方ないんですか!?」
「ら、ラビットターンなんて言ったりもするんだよー。跳び方がウサギちゃんみたいだから……」
訂正を求める由紀を茜がなだめる。すると由紀は真顔のまま目を丸くした。
「いや、バッタとかウサギとかじゃなくてですね……。まあ、ウサギの方が百倍マシですけども……」
不満げに漏らす由紀を尻目に、早川は試合へ注意を戻す。
フィールド上では、麻衣と天見千佳が再び向かい合って立っている。
5メートルの距離を置いた後、いよいよ試合が再開されようとしていた。
(点数取り返しちゃった……。残り時間ももう三十秒ちょっと……)
千佳に一矢報いたことで、若干浮き足立つ麻衣。
(いや、時間は考えない。とにかく一瞬一瞬だ。この一瞬を戦う事だけを考える……!)
ともすれば切れそうな集中の糸を繋ぎとめ、麻衣は両脚に力を込める。
筋肉に嫌な疲労が残っている。でも、これは練習で何度も経験した疲労だ。
こんな時の動き方は、体が覚えている。
(大丈夫、この脚は動く!)
自分に言い聞かせ、試合再開の笛が鳴る。
途端に突っ込んでくる千佳。だが麻衣はここに来て、極めて冷静に判断が出来るようになっていた。
(千佳だって人間だ……。全力のダッシュを三十秒も続けたら辛い)
根本的な体力の差はあるにしても、やはり人間は人間だ。自分が辛い時は相手も辛い。そう考えることが出来るほど、麻衣の悪い緊張は解けていたのだった。
猛烈に前進してくる千佳に対し、麻衣は斜め後ろへ、さらにフィールド上に円を描くように足を滑らせ、逃げる余地をなるべく残して逃げ続ける。
しかしやはり千佳は速い。あっという間に距離を詰められ、連打のチャンスを作られる。
手を伸ばせば届く、という距離。だが麻衣は冷静だった。
(打たれたっていい。甘い攻撃ならボディに反撃するだけ。全て練習通り!)
ボディのガードを固め、強気に相手の攻撃を待ち構える。簡単には点を取らせない。
すると、彼女の目からほとばしる強い意志が、千佳にも伝わったのか
「っ……?」
若干身をすくめたかと思うと、千佳は一瞬追うのをためらったのだ。
麻衣はその隙に、再び距離を取り追撃に備える。
千佳は再び麻衣を追いかけるが、すんでのところで麻衣の見せる強気な姿勢に、とうとうチャンスを作れぬまま時間だけが経過していく。
そして、その時がやってきた。
審判が長く笛を鳴らし、戦っている二人の間へと踊りでる。
「第一ラウンド終了です!」
その掛け声でようやく二人は立ち止まり、お互いに息を切らしながらぼんやりと見つめあった。二人とも、傍からはわからない複雑な表情を浮かべ
「……」
千佳が無言のまま踵を返し、自らの待機場所へと戻っていく。
麻衣もそれに応じるように、一旦目を細めてから、振り返って早川たちの待つ第七格闘部陣営へと引き返したのだった。
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