第23話

そんな中、審判の待機する得点掲示板側の後ろを通って走ってくる二人の生徒の姿があった。麻衣と由紀である。


「先生、ごめんなさい!」


 麻衣はひどく慌てた様子で待機場所まで駆けて来る。


「俺より、相手の選手がお待ちだぞ。心の準備は出来たのか?」


 早川が視線でフィールドの方を指し示す。そこには直立不動で待ち続ける、天見千佳がいたのだ。


「うぅっ……。だ、大丈夫。大丈夫……」


 麻衣は半ば泣きそうな顔をしながら、急いでグローブやその他の装備を着けていく。


「……ったく、ここまで来たら引き下がれないぞ。覚悟決めろ」

「わかってるけど……」


 見るも痛々しいほど狼狽している彼女。それほど彼女にとって重要な試合なのだ。早川はなるべく言葉を選びながら、試合前の最終確認を行なう。


「どうしたってな、やってきた結果を出すしかないんだ。お前に教えたのはフットワークと、クイックブローと、『あの技』だけだ。その使い所を間違えずにやっていくしかない」

「うん……そうだよね」

「基本は動き回って距離を取り、近づいてきたらブローで牽制。だが、相手も相当のやり手だ。それだけじゃ逃げ切れなくなった時にだけ、奥の手を使う。いいな?」


 早川が尋ねると、麻衣はこくりと一度だけ頷いた。

 彼女はすでに装備を整え、フィールドに向かう準備が出来ている。そのまま慌てて出撃しようとする麻衣だったが、その前に早川が改まって告げる。


「多分1ラウンド目の最後までには、ピンチを迎えるだろう。疲労もプレッシャーも練習の非じゃない。でも、慌てるな。辛くて怖くて、どうしても脚が動かなくなった時は、練習を思い出せばいい」


 彼は麻衣の目を見て、最後に一言。


「前に進む勇気は、その両脚が持っているはずだ」

「先生……」


 麻衣は小さく漏らしてから、何かを吹っ切ったように強く頷き


「行って来ます……!」


 いよいよ因縁の相手が待つフィールドへ

 彼女にとって宿命の戦場へ、足を踏み入れていく。




 フィールドの中央で両者は合い見える。


「グローブを突きあわせてください」


 審判の指示に従い、先に待っていた天見が右腕を持ち上げる。

 それに対し、麻衣もどこかたどたどしい様子ながら腕を突き出した。


 当然二人は近距離で見つめあう状態となり、麻衣にとっては狂おしいほど気まずい空気が流れる。天見千佳の考えていることを想像するだけで、麻衣は口から心臓が飛び出しそうな感覚に襲われる。心の底から恨まれていてしかるべきなのだ。それぐらいの酷い行いを、麻衣は彼女にしたのだから。


 ただ、麻衣はある意味で高をくくっていた。高校に入学して以来、麻衣は何度か千佳との会話を試みたが、まるっきり無視されるばかりで一言も返事を貰っていない。だから今回も、そう簡単に口を開いてはくれないだろう、と。逆に言えば、まだ千佳が自分に向けて言葉を発する事はないだろうと、思い込んでいたのだ。


 だから次の瞬間、彼女の心臓はかたり、と音を立て、一瞬止まってしまった。


「どうしてこの学校に来たの?」


 拳を突き合わせた直後、氷のように冷たく鋭い声で、天見千佳が麻衣へと尋ねたからだ。

 麻衣の心臓は一瞬の遅れを取り戻すように激しく拍動を始め、彼女の全身に嫌な汗が滲む。嗚咽のような声が不意に漏れたかと思うと、無意識の内に麻衣の口から言葉が。


「わ、私……千佳と、その、もう一度……話がしたくて……。あ、あの、時のこと謝りたくて……」


 ともすれば泣き出しそうなほど悲痛な様子でなんとかそう口にする麻衣。


 途端に彼女の脳は恐怖に支配される。麻衣は激しく後悔していた。許してもらえるはずがない。すぐにでもその場から逃げ出したかった。しかし足は地面に縫い付けられたようにぴくりとも動かない。


 石化する魔法にでもかけられたがごとく、麻衣は千佳と腕を突き合わせたまま全く動けないでいた。千佳との微妙な距離、そして目を合わせていなければならないという状況が、より一層麻衣の心臓を締め付け、脈動を加速させていく。


 にもかかわらず、麻衣は心のどこかで期待していた。千佳が、かつてのように優しく微笑んでくれる事を。自分を許してくれることを。

 だがその身勝手な期待は、文字通り粉々に打ち砕かれることになる。


「……私は、会いたくなんてなかった」


 どこまでも冷え切った、それでいて憤りの炎に燃えるようなその言葉は、千佳の口から。

 びくり、と麻衣の肩が震えた。何度目かもわからない激しい悪寒が背中を蹂躙し、立ちすくんだまま彼女は気付いた。目の前にいるのは、自分の知っている千佳ではない。


「顔も見たくなかった……!!」


 凍てついた仮面の下に、燃え上がる激情を押し殺す。その時の千佳の表情を例えるとしたら、そんな言葉が最も相応しい。麻衣は息も吸えぬ胸の苦しさに苛まれながら、もう後には退けないという絶望にも似た覚悟の中に、審判が鳴らす笛の音を聞いた。


 直後、弾けるように二人は動いた。グローブを打ち離し、麻衣は後ろへ。千佳はそんな彼女を追い前方へと。当然千佳の方が早い。麻衣は斜めに下がりながら咄嗟にブローを放ち千佳の動きを牽制しようとする。だが、


 バチッ、と電流が流れるような快音とともに、打ち出した麻衣の腕は弾かれ、

 弾かれた腕の内側を潜って、千佳の左拳が麻衣のボディに直撃する。


(なんで……? 腕が弾かれて……)


 麻衣は腕を引き戻しボディのガードを固めつつさらに後退する。殴られた痛みはない。千佳のブローは茜のようなハードヒットではなく、純粋にポイントを奪う事を目的とした軽いものだったのだ。


 後ずさる麻衣に千佳の追撃が襲い掛かる。ガードの上からでも関係はない。豪雨のごとき連打が麻衣の両腕に浴びせられ、有効打撃の1ポイントが加算されていく。


「ぅ、あぁっ!」


 溜まらず右手で打ち返す麻衣。だが、その拳は千佳には決して届かない。

 再びバチッ、という音が鳴り、気付いた時には麻衣の腕は弾かれていたのだ。


(まただ……。また弾かれて……)


 そしてその腕が守るはずだったボディの部位、右脇腹付近へと千佳の素早いブローが炸裂する。慌てて腕を引き戻しても、ガードの上から嵐と見紛う猛打が叩き込まれる。

 何ポイント奪われてしまったのか。そんな事を正確にカウントしていられないほど麻衣は動転していた。このままではまずい。試合が終わってしまう。


 夢中で振るった左腕が、タイミングよく千佳のガードの隙間にヒットし、そのままの勢いで麻衣は後ろに転んでしまった。千佳はそれ以上麻衣に追いすがるのを止め、審判が笛を鳴らす。その笛の音は、攻撃によらない転倒スリップの合図である。




 待機場所。早川は冷や汗をかきながら夢中で試合に見入っていた。


(あぶねぇ……! あのまま立ってたら試合終わってたぞ……)


 握りこんだ拳の汗をズボンで拭い、額に滲む方は左手の袖で拭う。

すると隣から茜の声が


「上手いドロップだったね。先生ひょっとして麻衣ちゃんに教えてた?」

「教えてるもんか。教えときゃよかったって後悔してたところだよ」

「ドロップ、ってなんですか?」


 そう尋ねたのは由紀だ。早川は手短に説明する。


「ドロップってのはな……。わざと転んで相手の追撃を避ける技のことだ」


 麻衣は全く無自覚ながら高度な回避技術を披露していた。早川が口にする『ドロップ』という技術である。


 ベルヒットでは1ラウンドにつき一度までの転倒はペナルティにならず、得点に影響しない。転倒後は試合が中断され、5メートルの距離を取って再開となるので、それを利用してわざと転倒することによりピンチから脱出することが出来るのである。


「そんなのアリなんですか! 私もやっておけばよかった!」

「上手く行けばいいけど、失敗したら反則で5ポイント持って行かれるんだからな?」


 彼の言うとおり露骨にやると反則と見なされるため、上手く移動でバランスを崩したように見せかけなければならない。その演技が難しいため早川は麻衣たちに教えなかったのだが、奇しくも麻衣が偶然成功させこのピンチを逃れたのであった。


 早川はフィールド脇の得点掲示板を眺め、苦々しく呟く。


「倒れ際にボディに当てて、今の得点差は7か……。このラウンド逃げ切れるのか……?」


 タイマーは試合が中断された時点の時間で止まっている。まだ開始から一分も経っていない。このままのペースで行けば、二分経つ頃には15点差で試合が終了してしまう。1ラウンドは3分あるのだから、順当に行けば1ラウンド持たない計算である。


(いや……麻衣を信じよう。こっちにはまだ奥の手があるんだ)


 試合が決まってからの二週間。普通の女子高生では考えられないほどの猛特訓で磨いてきた技がある。その練習を信じるしかない。

 フィールド上では、立ち上がった麻衣と天見千佳が距離を取り、再び正対していた。


 審判の笛と同時に、試合が再開される。

 再度麻衣へと詰め寄る千佳。しかし今度は5メートル近く離れているためそう簡単には距離を詰められない。麻衣は練習で何度も繰り返した通り、円を描くように追いすがる相手から逃げ続ける。


 千佳も最初ほどの勢いはなく、少しずつにじり寄るような動きで麻衣を追い詰めようとする。このスピードなら自分にも太刀打ちできる、と麻衣が思った矢先、


 不意に、千佳の動きが一気に加速する。

 急な速度差に対応できず、麻衣は簡単に近距離への接近を許してしまう。


(っ!? やば……!)


 咄嗟に右拳を振るおうとしたが、二度にわたって腕を弾かれた嫌なイメージが歯止めをかける。麻衣は腕をぐっと抱え込んで固いガードの姿勢に入った。ガードの上から千佳のブローが突き刺さる。その瞬間、麻衣は身を捻って、ほとんど背中を見せるような形でその場から逃走する。なりふり構っていられない。そんな気持ちがありありと見て取れた。


 千佳は無理に追わず、あくまで冷静に麻衣を追跡する。

 そしてある程度の距離まで近づくと、再び猛烈な加速を発揮する。

 そんな事が何度か続き、その度麻衣はガード越しに打撃をくらい、徐々にポイントを奪われてしまう。必死に逃げ惑う麻衣だったが、その表情はいつしか苦悶に染まっていく。


(あ、れ……? な、んか、苦し……)


 麻衣はまだ気付いていなかった。自分の体力が底をつきつつある事に。




 第三格闘部陣営では、黒木が眉間に皺を寄せ考え込んでいた。


(千佳は基本どおり緩急をつけた良い攻め。お手本みたいな戦い方ね。それに対して相手は……何よ、完全に素人じゃない。二番手の子の方が確実に強かったわ……)


 早川が3番手、すなわち千佳の対戦相手として彼女を選んできた理由。それだけが全く理解できなかった。見たところ優れた技術も身体能力もない。顔を見ればわかるのだ。開始二分も経たず、息は上がり死ぬほど辛そうな表情を浮かべている。明らかに体力不足だった。


 試合での疲労は練習の非にならない。緊張や恐怖による心臓への負荷は否応なくスタミナを絞り上げ、平常時のようなパフォーマンスを困難にする。


(この試合にはがっかりだわ。千佳をわざわざ出させたっていうのに、なんの収穫にもならない。時間の無駄ね)


 黒木は麻衣の陥っている状態を知っている。あそこまでの疲労状態になった選手が、そこから持ち直す事はまずない。次第に身体的な苦痛は精神を蝕み、まともな判断など出来なくなる。そして心が折れ、負けてもいいという気持ちに飲み込まれる。


 そうなって然るべきだ。だから、黒木にとってこの試合はもはや興味の埒外にあった。あるはずだった。


(なのに……。なんで、あんたはそんなに力んでるのよ……? そんな顔、今まで私たちに見せたことなかったでしょうが……!)


 黒木には、千佳の表情だけが理解できなかった。軽く流すでもなく、冷静に対処するでもない。まるで何か恐ろしいものと戦うような必死な顔を、彼女も浮かべていたのだ。

 千佳が普段の動きだったなら、この試合はとっくに決着している。そうなっていないのは、千佳の動きが硬いからだった。


(一体なんなのよ……。あんたはこの試合に、何を見ているの……!)

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