第25話

「よく逃げ切った! ラビットターンも完璧だったぞ! よくもまあ、あの場で両手から突っ込んだなぁ!」


 帰ってきた麻衣を隣に座らせ、早川がべた褒めする。


「ラビット……? グラスホッパーではなく?」


 早川の使った言葉に違和感を覚え麻衣が聞き返す。


「いや、由紀がバッタはないって、うるさくて」

「?」


 全く話の経緯が掴めない麻衣だったが、気にせず早川がアドバイスを続ける。


「とにかく、ここまでの流れは上出来だ。次のラウンドもいけるぞ。今は一点負けてるけどな、焦らずにカウンターを狙っていけ」

「はい」

「相手はこっちのカウンターを怖がってリズム乱してる。一発で11点持ってかれたんだから当然だな。反撃の姿勢を見せ続ければ、そうそう手も出してこれないはずだ」

「そうなるといいけど」


 麻衣は汗をタオルで拭きながら、気持ちを落ち着かせるように素っ気無く答えた。


「そうなるさ。あれだけの動きを見せられれば、誰だって警戒する。記憶は脳に焼きつくんだ。同じような場面で何度でも思い出す。もう二度と起こらない奇跡だとしてもな」


 そんな言葉を聞きながら、麻衣のために椅子を空けて立っている茜は思う。


(ラビットターンは急激な筋肉の疲労を伴う……。慢性的な疲労と急激な疲労。先生が練習で麻衣ちゃんにフットワークを厳しくやらせていたのは、この状態になってからのためだったんだね……)


 単なる根性論ではなく、自分の身体の限界を知り、上手くそれをコントロールするための練習だったのだ。その事に気付き、茜はますます早川の正体が気になりだしたのだった。


(本当に、一体何者なんだろうこの先生……)


 考え込む茜を尻目に早川はフィールドの向こう側にある第三格闘部陣営、そしてその中にいる天見千佳の様子を観察する。

 天見は座って俯いたまま、黒木の話を聞いているようだ。

 思わず鋭い視線を向けていた早川の方へ、千佳が気付いたように視線を合わせる。

 ひょっとしたら麻衣に向けた視線だったかもしれないが、すぐに千佳はさりげなく目線を外した。

 フィールド上では審判が立ち、インターバル終了の時間を計っている。

 第二ラウンド開始の時は近い。




 第三格闘部側では、黒木が明らかに動揺しながら、それをなんとか押し殺して千佳に問いかけている。すでに何度か繰り返した問いだった。


「千佳、本当に、どこか調子悪いわけじゃないのよね?」

「……はい」


 千佳はあくまで表情を変えず、簡単にそう答えたのだ。


「そう。なら、いいけど」


 黒木は口ではそう言いながら本心は決して穏やかでない。


(やっぱり普段の千佳と違う……。とはいえ、私としても出来る事は限られてるし……)


 彼女は意を決して、千佳に対して次のラウンドの助言を始めた。


「千佳、あのターンは出来すぎだった。結果的にポイントは奪われてしまったけど、あんなものまぐれに決まってるわ。気にする必要ないわよ」

「わかっています」


 ややぶっきらぼうに答える千佳。黒木は歯がゆかった。

 千佳が黒木の言っている意味を本当に理解している事も、その上でなおどうしようもない事もはっきりわかっていたからだった。


(二度と来ないとわかっていても、体は反応してしまうものなのよね……)


 勝負における『流れ』や『勢い』とは、結局そう言った記憶の積み重ね。成功や失敗のイメージがどちらかに偏って蓄積することによって、お互いのパフォーマンスに変化が生じる事である。というのは、黒木の掲げる持論の一つだった。


「千佳、相手は初心者よ。だから……」


 言いかけて、黒木は口ごもった。

 彼女は先ほどの試合で伊藤にしたように、正攻法を崩すアドバイスをしようとしたのだが、途中で思いとどまったのだ。


(そんな事言って、聞くような子じゃないか)


 天見千佳は少し頑固な所がある。格下相手だからといって、自分の戦い方を崩すような真似はしないのだ。その信念の強さが天見の強さでもあり、その柔軟性の無さが彼女の弱さでもあった。

 無言で立ち上がり、千佳がこう告げる。


「いってきます」


 その背中にほとばしるのは、恐ろしいほどの気迫。


「……いってらっしゃい」


 黒木は額を押さえながら彼女を送り出す。





 すぐに反対側から麻衣もやって来て、息をつく暇も無く審判が笛で合図をする。

 試合が再開される。


 開始早々、千佳が麻衣へと突進する。

 何度も繰り返した通り、麻衣は後ろに下がってそれをかわそうとした。

 すぐに千佳が接近し、ガードの上からでも連打を浴びせようとする、が


「っ!」


 麻衣が千佳の目を見ながら反撃の素振りを見せると、千佳はやはり攻めきれず立ち止まってしまう。それが、一度や二度ではなかった。


 何度も千佳は麻衣を追い詰める。しかしその度に麻衣の発する反撃の気配と、強気な視線が千佳の動きを妨げるのだ。途中何度か千佳がブローをヒットさせるも、ガードの上からであり点差はさほど変化しない。こう着状態が続いていく。


 黒木はその様子を見ながら歯噛みしていた。


(まだあの反撃が、ターンが頭にチラついてるのか……。いや、それだけじゃない。千佳があそこまで萎縮するなんて、それだけじゃ説明できない……)


 何が千佳の動きを止めているのか、黒木にはわからない。


(千佳、あなたはその子の、何を恐れているの……)





 点が動かない状況がしばらく続いた後、

 不意に、千佳の足が止まった。


(っ? どうしたんだろ?)


 麻衣は距離を取りながらその様子を伺う。

 すると千佳は俯いたまま、ぽつりと呟いたのだ。


「どうして、私に構うの……」


 麻衣の耳にははっきりとは聞こえなかった。だが、彼女の感情が並々ならぬ状態になっている事は、簡単に察しがついたのだった。


「……千佳」

「どうしてそんな目で見るの?」


 顔をあげた千佳と、麻衣の目が合った瞬間、千佳は強い口調でそう言ったのだった。

 ただその口ぶりは、どこかか弱く。まるで何かを恐れているような、そんな調子だった。


「千佳……?」

「やめてよ」


 千佳は語気を強めて凄みながら、再び麻衣へと迫る。


「もう私に構わないでッ!」


 千佳の悲痛な叫び。麻衣は胃を引きちぎられるような罪悪感に抱かれながら、

 咄嗟に、自分でも無意識の内に、言い返していた。


「ごめん……ごめんなさい、千佳……」


 千佳が麻衣へと迫る。麻衣は必死にその追撃から逃れながら、言葉を紡いだ。


「許してくれなんて言えないけど、本当に馬鹿な事をしたって思ってる。千佳の気が少しでも晴れる方法があるのなら、私なんだってするよ……!」


 言いながら、麻衣は自分の口の軽率さに嫌気が差す。

 嘘つき、と。じゃあ死ねと言われたら、死ねないくせに。


 そもそも謝るぐらいなら、最初から悪い事をしなければよかったのだ。

 麻衣はそう思いながらも、必死に自分の気持ちを千佳に伝える言葉を探した。


「やめてっ!」


 千佳は今までにないほど動転した様子で、麻衣へと襲い掛かる。コンパクトで教科書どおりだったブローは影を潜め、大振りで無駄の多い動きが目立ってくる。


「わたしに関わらないで! わたしの前に現れないで!」


 半ば狂ったように拳を振り回す千佳。

 麻衣は辛うじてその攻撃を避けきり、とうとう千佳の足がぴたりと動かなくなる。

 暴れ回った疲労が足にきたのか。それとも感情の高ぶりが落ち着いたのか。


 千佳の真意は誰にも分からない。


 ただ、立ち止まり俯いた彼女が再び顔をあげた時、

 そこにいたのは、見るも痛々しいほど弱気な表情をした少女だった。氷のような冷たさも、炎のような激情も持ち合わせていない、ただ何かに怯えるだけの少女の姿だった。


「私の事なんて、忘れてよ……」


 彼女が言ったのは、それだけ。

 とても悲痛な、呻き声みたいな声で、辛うじて言った言葉だった。

 麻衣は千佳の姿を見て思った。あの時の彼女みたいだ、と。辛い事があって麻衣に相談してくる時、彼女はいつもこんな顔をしていた。

 麻衣の口から、自分でも驚くような言葉が漏れ出したのは、次の瞬間だった。


「千佳、わたし、千佳と仲直りしたいよ……」


 言っている言葉をそのまま耳で聞いて、自分の耳を疑う。そんな不可解な現象が起こるほど、自然に、何の突っかかりもなく、麻衣の口からその言葉はこぼれた。

 ひどい裏切りをしておいて、仲直りがしたいなどと、図々しいにもほどがある。

 場所が場所なら、殴り倒されてもおかしくないような身勝手な台詞。


「ごめんなさい……。こんな事言う資格、ないんだってわかってるんだけど……」


 麻衣は本気でそう思って、次の瞬間に訪れるであろう、千佳の憤怒を予想した。

 だが、


「……謝る必要ないよ」


 千佳はそう言って、麻衣の目を見つめたのだ。

 麻衣は息をのんだ。その目があまりにも純粋だったから。


「麻衣ちゃんは優しい人だって事、私知ってるから」


 試合中ながら、歩くように麻衣へと近づく千佳。

 審判を含め周りの者達も、皆二人の異変に気がつき始めていた。


「いじめられて辛かった時、家に来て話を聞いてくれたこと、私覚えてるから……」


 ぽつりぽつりと、溢れそうになる感情をせき止めるも、とうとう溢れた感情が言葉に変わっていく。そんな調子で語る千佳の瞳には、大粒の涙が溜まっていた。


「な、なに、言ってるの……?」


 だが、千佳以上に狼狽していたのは麻衣の方だった。千佳の言っている意味が全く理解できず、彼女はおろおろと困ったように聞き返す。


「千佳、言ったじゃん。会いたくなかったって……。顔も見たくなかったって……」


 千佳は、麻衣を拒絶していたはずだった。だからこそ麻衣は、二度と仲直りなど出来ないと思い、その上で彼女に謝るため今回の試合に臨んだのだ。

 それなのに、千佳の今の態度はまるで先ほどまでとは別人のようだった。

 頬に涙のしずくをこぼし、ゆっくりとした足取りで。千佳は麻衣へと歩み寄り


「会いたくなかったよ……! だって会ったら、麻衣ちゃんはあのときの事思い出すに決まってるから……。私と一緒にいたら、麻衣ちゃんまた辛い思いするから……!」


 より一層大きな声で、涙を流しながら告げた。


「大好きな麻衣ちゃんの辛そうな顔、あれ以上見たくなかったから……!!」


 直後、千佳は一気に麻衣へと駆け寄る。

 麻衣は驚きのあまり、身構える事すら出来なかった。

 そして千佳は、立ちすくむ麻衣の身体に




 早川が声をあげる。


「タックルっ?」

「いや、あれは……」


 隣にいる茜が言葉を濁す。




 第三格闘部では黒木が瞠目する。


「な、なにが起きてんの……?」

「あれは、抱き合ってますね。泣きながら……」


 呆気に取られた様子で可奈がそう答えたのだった。




 フィールド上では、審判の警告を無視し、抱き合って崩れ落ちる二人の姿。

 両者の目からはボロボロと涙がこぼれ


「千佳、ごめんね……本当にごめんね……」

「ううん、私の方こそごめん……。麻衣ちゃんと話したかったよ……」


 試合のことなどそっちのけで、お互いに謝りあっていた。


「千佳っ?」


 黒木が大声をあげながら走って出てくるが、それでも千佳は麻衣から離れようとしない。

 遅れながら早川も現れ、黒木が完全に混乱した様子で尋ねた。


「早川君? これ、どうなってるのか説明できる……?」


 早川は頭をかき、苦笑いを浮かべて


「ええと、まあ……とりあえず、試合は中断ということで……」


 審判を含めた周りの面子にも言い聞かせるように、ひとまずはそう説明したのだった。

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