第31話
僕はバックステップして距離を取り、友梨奈の動向を見つめた。そんな彼女は半ばパニック状態だ。
「そ、そんな! 翼が! 翼が!」
危険性はないらしい。そう判断した僕は、思いっきり一歩、大きく友梨奈の方へ歩み寄った。パチン、という快音が響いたのは、その直後のこと。
僕が、友梨奈を引っ叩いたのだ。
「そんなものに頼るな、馬鹿!!」
僕は声を張り上げた。
「翼? あれじゃあまるで、悪魔の翼じゃないか! あんな格好で、中間霊域に来るなんてどうかしてる!!」
「何ですって!?」
友梨奈もまた、ずいっと一歩歩み出る。
「私はあなたのことが好きなのよ、竜太! それなのに何故、付き合う相手が私じゃないの!? 一体今まで、誰があなたのお姉さん役を……!」
「なっ……お姉さん?」
お姉さん、だって? 僕は愕然とした。まさか友梨奈が、自らのことをそう思っていたなんて。
しかし、無理もないことだったと思う。実際、今回の『爺ちゃん成仏作戦』を決行するにあたり、真っ先に助っ人を名乗り出てくれたのは友梨奈だった。
僕は友梨奈に対して、残酷だったのだろうか?
だが、繰り返すようだが『友梨奈が僕を好いているのは友梨奈の勝手』なのだ。それに応えられなかった僕。確かに恨まれもするだろう。
しかし、それに他人を巻き込んでいいという道理はない。だからこそ、僕は自分の手で、友梨奈を叩かなくてはならなかったのだ。
「う、うぁ……」
翼は完全に消え去り、友梨奈はその場にへたり込んだ。
「友梨奈」
「うっ……く……」
僕もしゃがみ込み、顔の高さを合わせる。
「正直、僕も嬉しかったんだ。友梨奈が僕を助けてくれて、話を聞いてくれて、好きになってくれて。君は僕の、かけがえのない親友だ。だからこそ、こんなことはしてほしくなかった。暴力で解決するべき問題じゃない」
「そんなこと!!」
友梨奈は勢いよく立ち上がった。
「あなたには分からないわよ、竜太。あなたには、両想いの牧山里香さんがいるんだからね!!」
「君は勘違いをしてる」
微かに目を上げる友梨奈。
「君のことを、僕以上に大切に思っている人に、心当たりがある。少し僕に、任せてくれないか」
「私を……大切に……?」
友梨奈は小動物のような瞳をくるりと回転させた。
「そんな人、私に――」
「気づいてなかったんだね? 確かに無理もないかもしれない。でも、僕は彼が君を幸せにできると信じてるんだ。少し、任せてほしい。友梨奈、君の未来のために」
どこか寂し気ながら、友梨奈は半信半疑といった表情だ。いや、今はまだ半分疑ってもらっていい。僕が行動を起こさなければ。
どうにかして、友梨奈を篤と引き合わせよう。今度は僕が、二人のために。
僕がゆっくり腰を上げると、大きな掌が頭頂部に当たった。
「うわ!」
「よく戦ってくれた! そしてよく決断してくれた! 竜太、それでこそわしの孫だ!!」
『それでこそ』か。
僕はやっと、自分の人生に光明が差したかのような気がした。
行動力があって、強い意志があって、そのくせ道楽者だった祖父。道楽者とは呼ばれたくないけれど、僕は今、やっと祖父に近づくことができたのだと実感した。
そうか。僕はずっと、そんな祖父に憧れていたのだ。この期に及んでようやく気づくとは。
祖父は僕の頭をくしゃくしゃっと撫でてから、両手を腰に当てた。
「これでわしも、気兼ねなく成仏できるというものだ!」
「え?」
ああ、そうだった。友梨奈に襲われる前、祖父は『まだ四十九日は経っていないが成仏する』と言っていた。
「ちょっ、待ってよ爺ちゃん!」
僕は祖父の着ていたシャツを掴もうとしたが、するりとかわされた。
「女神さん、大丈夫かね?」
「はい。ダメージは回復しました~」
いつの間にか、女神様は人型の姿に戻っている。だが、今はそんなことはどうでもいい。
「爺ちゃん、まだここにいてくれよ! 明日も会いに来るから!」
「悪いな、竜太。日数を伸ばしたら、余計に別れがつらくなるぞ?」
「そんなこと分からないじゃないか! 俺は爺ちゃんのことを大切に――」
その時、僕の肩に優しく手が置かれた。里香だ。
「お爺ちゃんの言うことは正しいよ、竜太」
一体何故だ、と問い詰めようと振り返る。しかし、眼鏡の奥の里香の瞳には、真摯な光が宿っていた。僕を責めるでも、説教するでもない。僕の屁理屈一切を浄化させる、そんな瞳だった。
僕が言葉に詰まっているのをいいことに、祖父はまた一歩、僕から離れた。
「竜蔵さん、準備はいいですか~?」
「おう。いつでも始めてくれ」
「ではでは~」
女神様が、自分の背丈ほどの杖をくるり、とバトンのように回す。
するとちょうど祖父に当たるように、雲の隙間から光が差した。僕たちは目を細めて、祖父の背中を見つめる。
「じゃあな、竜太。家族によろしく! 嫁さんの家族にもちゃんと顔を出すんだぞ!」
「……!」
僕は必死に手を伸ばした。が、どうしても祖父に触れるどころか、近づくことさえできない。
「爺ちゃん! 爺ちゃん!!」
僕が必死に暴れていると、祖父は振り返り、こう言った。
「お前がわしの孫でよかった。ベタな台詞ですまんがな」
すると、祖父に差す光の柱を中心に、凄まじい上昇気流が生じた。
「うわっ!!」
そんな中でも、僕は見た。祖父の身体が金色の光に包まれ、さっと上空へ吸い込まれていくのが。
「爺ちゃん……」
そう呟いた時には、既にあたりは暗くなり、僕と里香、それに友梨奈がその場に残された。
「では皆さん、またいずれお会いすることもあるでしょう~。しばしのお別れです~。さようなら~」
そんな女神様の穏やかな声に、僕は答える術を持たなかった。
※
気づけば、いつもの祖父の書斎に僕はいた。しかし、その書斎は今までよりも、ずっと狭い空間に思われた。
しばらくの間――三十分か? 一時間か? ――その場にへたり込んでいた僕は、今日のことを報告しなければ、とやっと気づいた。もちろん、報告相手は父だ。
海沿いの坂道を、自転車を引きながら登っていく。漁船の汽笛と穏やかな潮風が僕の頬を撫でる。僕は何度も立ち止まりながら、玄関に着いた。
ゆっくりとドアを引き、入ろうとしたその時だ。
「ただい……ま?」
父が、仁王立ちをして待っていた。しかし、顔つきは厳めしいものではなく、不安やら焦燥感やらが胸中でせめぎ合っているようだ。
「爺ちゃん、どんな感じだった?」
僕を見下ろすような、しかし高圧的でないような口調で父は問うてきた。
「いろいろあったけど……。女神様の力でちゃんと天国へ昇っていったよ」
「……そうか」
父は腰に手を当てた。先ほどの祖父と同じポーズだ。
「竜太、ついて来てくれ。是非、お前と一緒に聞きたいんだ」
聞く? 何を? 疑問は浮かんだが、その答えは実際に父についていくしかあるまい。
僕は父に誘導され、父の書斎へと入った。
「すまんが、そこの窓を開けてくれるか。ベランダに出て待ちなさい」
父に従って外に出た僕。振り返ってみると、父は年代物の蓄音機をいじっていた。
「お前が産まれるずっと前に流行った曲だ。一緒に聞こうじゃないか。星空でも眺めながら」
ん? 星空?
まさか、その曲って……。
穏やかながら希望に満ちたイントロ、心にすっと入ってくるメロディ、そして、その歌詞。
間違いなく、それは『見上げてごらん 夜の星を』だった。
その時、僕は急速に目頭がカッと熱くなるのを察した。
「父さん」
「どうした、竜太」
父はわざと僕から距離を取り、ベランダの手すりに体重を預けている。
「父さん……」
父がゆっくりと振り向く。その胸に、僕は思いっきり跳び込んだ。
「うわあああああああ!!」
泣いた。号泣だった。
涙と嗚咽が、後から後から溢れてくる。
祖父はもう、僕の手の届かないところに逝ってしまったのだ。
僕の背中に、そっと父が手を当ててくれる。
「お前の爺ちゃん、きっと幸せだっただろう。ありがとうな、竜太。私も嬉しいよ」
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