第17話
放課後。祖父の家の書斎にて。
(何!? 今日は来てくれんのか、竜太!?)
「ごめん、父さんと喧嘩した時にいろいろ聞かされちゃってさ……。心の整理がつかないんだ」
(竜平め、余計なことを竜太に吹き込みおって……)
竜平というのは、僕の父の名前だ。
僕は少し緊張していた。僕が『今日は休む!』と言い出すことによって、祖父がショックを受けるのではと危惧していたのだ。
だが祖父は、ショックを受けたというより父さんに対して怒っていた。ぷんすかぷんすかと怒気の上がる音が聞こえてくるような錯覚に陥る。
(里香も来てはくれんのだろう?)
「うん。残念だけど、僕と里香の片方だけが中間霊域に行くのは危険だと思う。だから里香にも遠慮してもらうことにしたよ」
(ふーむ……)
祖父は唸った。が、すぐに合点のいったような気配でこんな提案をしてきた。
(竜太。だったら明日来る時に、絵描きを一人、連れてきてくれんか?)
「絵描き?」
何をするつもりなのだろう。
(いや、秋のシーズン最後に、この絶景を誰かに描いておいてほしいと思ってな)
「写真じゃ駄目なの?」
(そりゃあいかん!)
祖父はいかにも『分かっとらんなあ』とでも言いたげな雰囲気でそう言った。
(人の手のかかったものはいいぞ! 創造性がある! 写真にももちろんあるが、わしには絵画の方が合っとるようでな。頼む!)
「分かった。誰かあたってみるよ」
(そうか! わしの心意義、理解してくれたか! よろしく頼むぞ、竜太!)
随分と大げさな言い方だなあと思ったが、僕は少し、嬉しかった。
もちろん、祖父の力になれる、ということもある。だがそれ以上に、『誰かを誘ってくる』という難解なミッションを、怯むことなく受け入れたのだ。それが、自分の成長を示しているようで嬉しかった。
だが問題は、『誰を連れてくるか』だった。
「あの人しか思いつかないんだよなあ……」
僕は後頭部を掻きながら、ひとまず友梨奈に電話することにした。また彼女の力を借りることができれば、あの岡倉先輩を中間霊域に連れていきやすくなると思ったのだ。
祖父の家を出て、夕日を浴びながらスマホを取り出す。
「柏木友梨奈、っと……」
アドレス帳をめくった僕は、何の気なしに通話ボタンをプッシュ。プルルルル、と呼び出し音が鳴り始めた。
二回、三回、四回、五回……あれ? 出ないな。まだ部活中なのだろうか? しかし、時計は午後七時を回っている。一体どうしたんだろう。
と思った矢先、カチャリ、と軽い接触音がした。そして聞こえてきたのは友梨奈の声。だが、それは友梨奈のようであり、友梨奈とは異なる人物――いや、異なる生き物であることを示すような、冷たい声だった。
《もしもし》
「も、もしもし? 友梨奈……だよね?」
《他に誰が出るっていうのよ》
いつになく棘の含まれた口調だ。
「また一つ、頼みたいことがあるんだけど」
《何?》
さもどうでもいいような雰囲気が、電話の向こうから伝わってくる。
「岡倉先輩……美術部長に会わせてほしいんだ」
《一人で行けば?》
「いや、でも、三年生の廊下を通らなきゃならないし、ちょっと僕一人では……」
《ふうん?》
これが地雷であることに、僕は気づくのが遅すぎた。
《だったら牧山さんと一緒に行けばいいじゃない。なんで私ばっかり頼るわけ?》
「そっ、それは!」
僕はいつもの褒め言葉を並べ立てようとした。
友梨奈の人付き合いのよさ、周囲への適度な気配り、絶やすことのない明るい笑顔。
だが、その直前になって、僕はまた地雷を踏みかけていたことに気づいた。
だったらどうして僕は友梨奈をふったんだ?
明確に『付き合えない』と言ったわけではない。けれど、彼女は今も僕を『狙って』いる。精神力の大半を犠牲にしながら。それは、昨日の彼女の涙を見れば明らかだ。
《私、あなたの幼馴染かもしれないけど、便利屋に成り下がった覚えはないわ。今回は付き合えない。それじゃ》
「あっ、待って友梨奈!!」
直後、電話から聞こえてきたのは、通話終了を告げる電子音だった。
僕は呆然と、スマホを耳に当てたまま立ち尽くした。
友梨奈……。僕は、彼女が僕にとっていかに重要な役割を担っていたのかを痛感した。
いや、『役割』というには語弊がある。友梨奈は大事な友人だったのだ。『役割』などという無機質な言葉は似合わない。それに、友梨奈を僕の不都合に突き合わせる筋合いなど、どこにもないだろう。
仕方ない。明日は里香と二人で臨むしかない。三年生の廊下、すなわち三階を渡りきり、岡倉先輩に会って、一緒に中間霊域に来てくれるように頼むのだ。
じわり、と僕の胸中に黒い染みが広がるような、不快な感情が湧き上がる。このパターンは、緊張や不安に基づくものだ。だが、やるしかない。これまでの自分を無駄にしたくなかった。ここ数日、いろんな人と会話を重ねてきた自分を。
僕はやっとのことでスマホを耳から離し、里香に連絡を取ることにした。
再び僕の鼓膜を震わせる、スマホの呼び出し音。里香は三回目で出た。
《もしもし。牧山です》
「あ、里香? 僕、竜太だけど……」
思いがけず、意中の人物に初めて電話をしていることに、僕は緊張してしまった。
他人の目を気にせずに、里香と話ができる。なんてこった。面と向かっている時よりも、頭に血が上るのが感じられる。
「あ、あのさ、里香は、先輩に会うのって抵抗ある?」
《先輩?》
そうか。里香も僕と同じで帰宅部だった。『先輩』という存在に触れる機会は、一般生徒に比べてずっと少ない。彼女も不安を抱くだろう。
だが、どうしても僕の独力では、三年生の廊下を渡り切る勇気がなかった。誰かにそばにいてほしかった。もちろん、誰でもいいはずがない。僕を勇気づけてくれる人間。それは、やはり恋愛対象者ということになってしまう。男子高校生の悲しい性、とでも言うべきか。
すると里香は、自ら問いを発してきた。
《どんな人?》
「あ、えっと、それは……」
岡倉先輩を何と表現すればいいのか。僕は返答に窮してしまった。だが、早く答えないと里香は不安を募らせるばかりだ。
「や、優しい先輩だよ! 絶対に僕らを叱ったりしないから!」
《本当?》
まずいな。僕の不安が里香にまで伝播している。
「その先輩、画家なんだ。里香も聞いたよね? 爺ちゃんが中間霊域の絵を描いてほしい、って言ってたこと」
《うん》
「だから、その先輩に会うのに三年生の廊下を通って美術室まで行かなくちゃいけないんだ。ど、どうかな? 僕と二人で」
《竜太と?》
その言葉に、微かな安堵感が混じっているのを僕は捉えた。
《じゃあ、大丈夫だと思う》
「一緒に来てもらえる?」
《うん。一人ではとても行けないと思ったけれど》
ぼくはほぅ、っとため息をついた。
「明日の放課後、美術室に行こう。二人で」
《分かった》
「うん」
ここまで作戦立案をしてみたはいいものの、僕は、いや僕たちは話題に困窮した。もう用件は済んだわけだけれど、『さよなら』の一言を言い出すタイミングが掴めない。
正直、僕は早くこの通話を切り上げたかった。何だか気まずい。里香は元来、口数の多い方ではないのだ。電話というツールはあまり向いていない。
僕は一度、喉を鳴らしてから一言。
「じゃ、じゃあ、また、明日」
《おやすみなさい》
すると、カチッという静かな電子音を残して通話は切れた。
「ん……」
僕はスマホを握ったまま、ベッドに大の字に横たわった。
里香と一緒に過ごす時間が増えれば、もっと話ができるようになるのだろうか。だったらいいのだけれど……。
過去の同じ話題に固執していては、愛想を尽かされてしまうかもしれない。それが怖かった。
取り敢えず、明日やることは決まった。今日はもう休んでもバチは当たらないだろう。
僕は自室を出て階段を下り、シャワーを浴びに浴室へと向かった。
……つもりだったが、ふと浴槽に入りたくなった。暑苦しくなってからというもの、シャワーで済ませてばかりだったけれど。
「はあ……」
僕は額から顎へと顔を拭った。
宿題が出てはいたが、今日は早く寝て明日の朝に片づけることにしよう。
里香にも『おやすみなさい』と言われたことだし。
僕は冷水浴で身体をリラックスさせてから、ゆっくりと床に就いた。
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