第16話
「竜太、だからと言って――」
「もういい!!」
僕は鼻血だけでは飽き足らず、涙まで振りまきながら客間を飛び出した。
「竜太!!」
「あら、ちょ、ちょっと、竜太!?」
母が慌てて台所から顔を出したが、無視した。そのまま玄関に直行、スリッパをつっかけて玄関扉を押し開け、外へと飛び出した。むっとする湿気が僕を包んだが、そんなことはどうでもいい。
どれだけ走ったところで、行くあてはない。ただ、祖父が――あれほど僕を愛してくれた爺ちゃんが、これ以上非難されることに耐えられなかった。
僕の脳裏には、祖父について語った父の言葉が再生されていた。
『道楽人間』? そんな馬鹿な。祖父は確かに葉巻にはこだわっていたけれど、ギャンブルや女性関係に問題があったとは思えない。
父は僕に嘘をついている。しかし、亡くなった人の陰口を叩く理由、動機が分からない。
まさか、父は僕と祖父が別れる時の悲しみを相殺するために、祖父を悪役に仕立て上げようとしているのか? 僕が、祖父は死んで当然の人間だと思い込むようにするために?
いや、父はそんな薄情な人間ではない。ということはやはり、父の語っていたことは真実……?
そんな思考が、僕の脳内で浮かんでは消え、膨らんではしぼみ、を繰り返した。その時、
「あっ!」
誰かと肩がぶつかった。
「す、すみません!」
僕と相手のどちらに非があったのかは分からないが、取り敢えず僕は謝った。見れば、相手は若い女性で、尻餅をついてしまっている。
僕は慌てて駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
すると女性は立ち上がり、一言。
「……竜太?」
僕ははっとした。
「って、友梨奈じゃないか! 一体どうしたんだ? こんな時間に」
と尋ねながら、僕は息を飲んだ。
友梨奈の頬には、涙の筋が光っていたのだ。それに、ぶつかった時の衝撃。友梨奈もまた、わけあって駆けてきていたのだろう。
「ごめん、ひ、ひとまず落ち着こう」
そう言って僕は友梨奈に手を伸ばした。しかし、友梨奈はぽんぽんと運動着の汚れを落とし、自分で姿勢を立て直した。
「どうしたの、こんな遅くに?」
僕は再び問いかけた。すると友梨奈は、
「……」
「え?」
「全部あんたのせいよ、竜太!!」
と、凄まじい声量で僕を怒鳴りつけた。再び駆け出そうとする彼女の肩に手を伸ばし、なんとか引き留める。
「僕も混乱しているけど……。一体何が起こったんだ? 教えてくれ、友梨奈」
「こういうことが起こってるのよ!!」
要領を得ない返答に、僕は少しばかりカチンときた。
「こういうことってどういうことだよ!?」
すると友梨奈は僕の腕を振り払った。
「この馬鹿! 阿保! 朴念仁! 全部……、全部あんたのせいなんだからね!!」
ここまで罵詈雑言を並べ立ててから、友梨奈は再びぺたんと腰を下ろし、俯いて泣き出してしまった。
これは僕の手に余る。そう思いながらも、せめて話を聞いてあげようと考え、僕もその場にしゃがみ込んだ。
実際のところ、僕だって大変な状況にいることには変わりない。父と喧嘩まがいのことをして、急に家を飛び出してきたのだから。
だが正直、目の前で女性に泣かれるということが、こんなに男性を狼狽させるものだとは思いもしなかった。今は自分の事情を語るより、友梨奈の話を聞いてやった方がいい。
「友梨奈、ここは暗いから、川沿いのハイキングコースまで行こう? 街灯もあって安心だから」
すると友梨奈は再び自力で立ち上がり、僕と目を合わせた。
「あ、鼻血……」
「気にしなくていいよ。どうせすぐ止まるから」
※
沈黙が、僕と友梨奈をぐるぐる巻きに拘束していた。
僕は今、友梨奈と二人で川沿いのベンチに腰掛け、腕の間で炭酸の缶ジュースを弄んでいる。友梨奈はじっと動かずに、アイスコーヒーの缶を握りしめている。
……ええい、黙っていても仕方がない。
「なあ、友梨奈。もし迷惑でなかったら、だけど……。訊かせてほしいんだ。一体どうしたんだい?」
すると、友梨奈は大きなため息をついてから口を開いた。
「この缶コーヒー、おごってくれてありがとう」
「ああ、いや。何でもないよ、そのくらい」
「竜太は優しいね」
「臆病なだけだよ。人に嫌われるのが怖くてさ」
思えば、小さい頃から僕は他人、とりわけ両親の機嫌を伺いながら行動している節があった。
そのことを口にしようとした瞬間、友梨奈の口からとんでもない言葉が飛び出した。
「その優しさ、人を殺すこともあるんだよ」
「!?」
僕は缶ジュースを取り落とした。優しさが人を殺す、だって?
「毎日毎日、胸を締めつけられて、息もできなくなるくらい……」
「僕の優しさのせいで? 誰が? 誰がそんな苦しい思いをしてるんだ?」
これが愚問だと気づく前に、僕は言葉を全て言い切ってしまっていた。
……そんなの、友梨奈自身に決まっているじゃないか。
だが、原理が分からない。
「僕が何か酷いことをしたのか? だったら謝る、何でもする。だから、僕が君に何をしたのか、はっきり教えてくれ、友梨奈」
次の瞬間、
「うわあああああああ!!」
友梨奈が泣き出した。号泣だ。手で目元を覆い、肩を震わせ、くぐもったしゃっくりを繰り返す。
「どうして!? ここまで言ったのに、どうして気づいてくれないの!?」
「気づくって何――」
「私は竜太のことが、ずっと好きだったのよ!!」
僕は、大口径のショットガンで胃袋をぶち抜かれたような気がした。いや、そんな経験はないのだけれど。
「竜太はいっつも控え目で、大人しくて、自己主張がなくて、でも誰よりも周りのことを気にかけていて、すごく、すごく素敵だったのに……」
そんな馬鹿な。僕はただの臆病者だ。控え目で大人しくて自己主張がないのは、僕が周囲から変な目で見られないようにしたかっただけ。ましてや周囲を気にかけるなど、臆病さが発現する最たる例だ。
それを素敵だって? 友梨奈は何を言ってるんだ?
しばらく呆然としていると、友梨奈はこう言った。
「やっぱり意識はしてなかったんだね」
その頃には、呼吸もだいぶ落ち着いてきていた。
「牧山さんに告白はしたの?」
「い、いや、そんな!」
僕はぶるぶるとかぶりを振った。
「僕なんかにできるわけが――」
「私もそう思ってたよ。自分自身のことでね」
自分自身のこと、というのは、友梨奈が僕に告白はできなかった、という意味だろう。それが先ほど、ぶつかった拍子に思わず口に出てしまった、と。
「じゃあ、竜太はまだ牧山さんとお付き合いしてるわけじゃないのよね?」
「……うん」
「だったら私も狙うから。あなたのこと」
「え?」
『狙う』って、物騒な表現だなあ。
「明日からは、私はそのつもりで行動するから。よろしくね、竜太!」
「……よ、よろしく……」
すっくと立ち上がり、こちらに背を向ける友梨奈。こちらを振り返ろうとはしなかった。
あ、そう言えば、僕と父との確執について相談することは後回しになってしまったな。まあ、明日にでも聞いてもらおうと思う。
僕は堤防を少し下りて缶ジュースを拾い上げ、ゆっくりと口につけた。背もたれに両腕を載せ、足を組む。そして、口ずさんでみた。
「見上げてごらん 夜の星を……」
※
その日、どうやって帰宅し、両親に何を言われたのかは覚えていない。まあ、その程度のことしか言われなかったということだろう。
翌日、相変わらず元気な篤と挨拶を交わしながら、僕は里香に声をかけた。
「おはよう、里香」
すると里香はゆっくりと顔を上げ、
「おはよう、竜太」
と言って微笑んだ。
僕は里香の机の前に立ちながら、
「里香、頼みがあるんだけど……。今日の中間霊域の冒険は中止にしない?」
かくん、と首を傾げる里香。『どうして?』と理由を尋ねるポーズだ。
「ちょっと、心の整理がつかなくてね……。昨日、父さんといろいろあったんだ」
パチパチと瞬きをする里香。どうやら続きを聞きたいらしい。
隠し通すべきことでもなかったので、僕は素直に答えた。
祖父が遊び人だったらしいこと。
葉巻の件で、祖母が亡くなったらしいこと。
そんな祖父を、父は許せないでいるということ。
里香は無言でふむふむと頷いていた。
「だから里香、今日は、明日何をすべきか、っていうことを確認するだけにしよう。里香も、中間霊域に入らなくても爺ちゃんの声が聞こえるんだよね?」
しっかりと首を縦に振る里香。
「じゃあ、また明日になったら打ち合わせをしよう。今晩LINEでやってもいいし」
するとちょうど、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。僕は軽く里香に手を振って、自席についた。
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