第26話

「婆さん!? 婆さん、しっかりしろ!!」

「爺ちゃん!」


 祖母の肩を掴もうとした祖父を、僕と里香が慌てて引き留めた。

 そうだ、祖父は祖母が息を引き取る瞬間、この場にいなかったのだ。これは、祖母がいかに弱々しくなっていたのかということを、祖父が関知していなかったということでもある。


「おい婆さん、どうしたんだ!?」

「爺ちゃん、忘れちゃったの!?」

「竜太、いや、覚えとるが、こんなひどい状態だったとは……」


 最後に祖父が祖母と会ったのは、祖母が亡くなる三日前だった。それから再び僕たちの前に現れるまでの五日間、祖父は何をしていたのか。

僕が両親の会話を盗み聞きしたところでは、ゴルフ仲間と一緒に旅行、という名目で全国の地酒巡りをしていたらしい。

 自分が帰宅する二日前に祖母が亡くなったと聞いて祖父は仰天した。しかし、驚いたということは、祖母の病状がどうなるか、万が一の場合そばにいてあげられるか、想像していなかったということでもある。確かに、最後に祖父と会った時の祖母は、食がやや細くなった程度で重篤な状態ではなかった。『心配するな』という意味合いのことを、祖父は確かに祖母から聞かされていたのだ。


 だが、そんなことは父が祖父を許す理由にはならなかった。

 ただでさえ、定年退職後に遊び呆けて祖母を苦しめた祖父だ。しかも、葉巻の受動喫煙で祖母の体調を悪化させた張本人でもある。

 もし自分の母が、父の道楽が原因で体調を崩したとしたら。それも肺癌などという重篤な病を患わせる原因となったとしたら。

『父が母を殺した』と思っても無理はない、と僕は思った。


 祖父を悪く言った父に飛びかかった僕。だが、今こうして祖母の様子を見せつけられると、祖父に一方的な非があったのでは、という考えに囚われてしまうのも分かる。


「離せ、離さんか二人共! 婆さんが!!」

「止めろよ、爺ちゃん!!」


 気づけば、僕は思いっきり怒声を張り上げていた。ここが病院であることなどお構いなしだ。


「婆ちゃんが誰のせいでこんなことになったのか、分かってるの? 自分の父親を責めてしまうような思いをしてる父さんの気持ちが分かるっていうの? 誰より、婆ちゃんがどれほど辛い思いをしてるか、分かってるの?」


 祖父は雷に打たれたかのようにビクリ、と全身を痙攣させた。ゆっくりと僕の方に顔を向け、声帯を震わせる。


「竜太……!」

「爺ちゃん、確かに爺ちゃんは僕たち家族のために頑張ってくれたんだと思う。でも、自分の仕事が終わったからって、気を抜きすぎたんだ。家族のことを顧みなかったんだよ。だから婆ちゃんはこんな状態になっちゃったんだ。父さんは、それを許せない、って言ってるんだよ!!」


 僕の言葉は一気呵成に溢れ出した。止めようがなかったのだ。まるで、今まで信じてきた祖父が、本当はとても冷たい人間だったような気がして。

 

「僕は信じられないよ。婆ちゃんのこんな姿を見るまで、爺ちゃんが事の重大さに気づいていなかったなんて」

「……」


 病室は、完全に沈黙という物質でぎゅう詰めにされてしまった。誰も身動きが取れない。呼吸することさえ憚られる。唾を飲むのもやっとだ。――ただ一人を除いては。


「……お爺さん?」


 僕と祖父は、声のした方へと振り返った。


「さっきの声は、お爺さん? 竜蔵さん、ここにいるのかい?」

「あ、ああ、そうだ!」


 祖父はベッドの上に身を乗り出し、両手で祖母の両肩を掴んだ。一瞬冷やりとしたが、祖父の手は優しく、祖母の肩に載せられただけ。僕は祖父を止めようとした腕を引っ込めた。


「……そうですか。来てくれないかと思っていました」

「何言ってるんだ、幸江。俺はお前の亭主だぞ」


 幸江というのは、僕の祖母の名前だ。

 すると、祖母の呼吸器がふっ、と動いた。祖母が大きく息をしたらしい。それがため息なのか、話すための挙動なのか、はたまた笑みを作ろうとしたのか、そこまでは分からないが。


「竜蔵さん、嘘はよくありませんよ。……さっきからの竜太との会話、ちゃんと聞こえていましたからね」

「あ……」


 顎を外したのは僕だった。まさか聞こえていたとは。


「婆ちゃん、僕が分かるの? 声変わりしちゃったはずなのに……」

「誰が孫の声を聞き違えるもんですか。竜太は年寄りを甘くみているんじゃないのかね」


『それに、さっきから竜蔵さんが竜太、竜太と言っていましたからね』と付け加える祖母。確かに、祖母は近所では有名な地獄耳だったと聞いている。


「二人共、未来から来たんじゃろう? もう一人、女性の声がしたけれど……。竜太、お前の嫁さんかい?」

「なっ! ま、まだそうと決まったわけじゃ……」


 僕は俯いた。自分の顔が紅潮するのが分かる。どうして最近、僕はこのネタでいじられるのだろう。まあそれはいいとして。


「竜蔵さん、正直に言います」

「な、なんだ、幸江?」


 恐る恐る、といった風で、祖父は耳を祖母の口元に近づけた。


「あなたは亭主失格でした」


 その言葉は、相変わらず穏やかだった。しかしそれゆえに、祖父の胸を撃ち抜く破壊力があったらしい。


「あ、ああ……」


 祖父はベッドの隅に肘を載せ、両腕の間に頭を下ろしてしまった。

 それはそうだろう。必死に祖母に縋りついた祖父。そんな様子を見れば、彼がいかに祖母を――臭い言い方だが、愛していたかは察せられる。


「すまなかったな、幸江」

「どうして謝るんです?」

「え?」


 祖父、そして僕も顔を上げた。亭主失格だと言ったのに?


「勘違いしないでくださいね、竜蔵さん。私はあなたを亭主失格と言いましたが、人間失格とは言っていないんですよ」

「そ、それはどういう……?」

「あなたは人間としては素敵だった、ということです」


 祖母は語った。祖父が毎晩のように飲み歩いていたこと。突然同僚を招いて宴会を始めるのもしばしばだったこと。正直、自分は葉巻の煙は大嫌いだったこと。

 だが、祖母が告げたのは、そんなネガティヴな側面ばかりではなかった。


「あなたが連れていってくださったすき焼き……。遠慮なく食べろとおっしゃいましたけど、実際は自分の貯金を少し切り崩してまで私を誘ってくれたのでしょう?」

「どうしてそれを……?」

「分かりますよ。自分は白滝ばかり食べて、ずっと唸っていたんですから」


 なるほど、それは分かりやすい。


「その時、私がどれほど嬉しかったか、分かりますか、竜蔵さん。正直、あなたは若い頃から破天荒でしたね。でも、幸せにすべき人は誰なのか、守るべき人は誰なのか、それは決して間違わなかった。ブレがなかった。それは誇るべきことです。人間として」


『私にとっても、あなたと一生を添い遂げられたことは誇りなのですよ』――。そう言って、祖母はゆっくりと瞬きした。


「竜平が産まれた時、あなたは自分がどこにいたか、覚えていらっしゃいますか?」

「……どこだ?」

「居間ですよ。前の晩も飲み歩いて、辛うじて帰って来たんでしょう。正直、私は呆れました。でも、親戚の方がおっしゃっていたんですよ。あなたは何かを書きつけていたようだって。それに、あなたの部屋を物色させていただきましたが……。何が出てきたと思います?」

「何だ?」

「子供の名前の付け方の指南書ですよ。そりゃあ何冊も何冊も出てきました。数日間、夜中にお一人で何かしているようだとは思っておりましたが、竜平のことを想って夜更かしなさっていたとは……。私は頭が下がる思いでしたよ」


 祖父は無精髭の生えた顎を撫でた。


「だからね、竜蔵さん。あなたは自分勝手だけど、とても優しい方なんです。だから、私のことを後悔して、謝りに来てくれたと知って、私は踊りだしそうなほど嬉しいんですよ。こんな身体ではもう踊れはしませんけれど」

「――そうか」


 祖父がぽつりと呟く。

 僕は思い出したかのように、すっと息を吸った。と、その時だ。


「あ……!」


 しまった! デジカメで録画するのを忘れていた! 

 まさかこれを繰り返せ、とは言えないし……。僕が自分で自分の頭をぶん殴りたくなった、その時だった。


「ちょうどバッテリー切れです」


 という静かな声がした。はっとして顔を上げると、里香がデジカメをベッドの方へと向けている。ちょうど祖父母の二人が入るような角度で。

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