第29話
その日、僕は胸を張って……というわけではないけれど、堂々と祖父の家へと向かった。
父は祖父のことを理解してくれた。祖母の最期の本音にも触れることができた。これで祖父も、もう思い残すことはないだろう。
(おう、来たな、竜太)
予想通り、祖父の声、というか思念は、だいぶ落ち着いたものを感じさせた。
(竜平の奴、どうしておった?)
「感謝してたよ」
(流石わしの息子だ! 見る目があるな!)
「いや、『僕に』だよ。感謝してたのは」
脳内が沈黙する。祖父は顎でも外してしまったんじゃないだろうか?
まあ、そんなことはどうでもいい。
沈黙を破ったのは、『こんにちは~』という物静かな思念。里香だ。
(竜蔵さん? 竜太?)
(……)
「あー、気にしないで、里香。ちょっとね」
『ちょっと』って何だ? 我ながら不可解ではあったが、そうとしか説明しようがない。どうせ煽てればすぐ元気になるだろう。
「父さん、泣いてたよ。それで爺ちゃんを責めるようなことは言わなくなった。爺ちゃんのお陰で、僕たち高峰家もより仲良くなった、っていうか」
(ほ、本当か!?)
ガタッ、と身を乗り出すような気配がする。
(そうかそうか、『雨降って地固まる』というやつだな!)
うーん、あんまり自慢されてもなあ。天狗になられても、今度はこちらがリアクションに困る。でも、そんな僕の気まずさは一瞬で吹き飛んだ。
(よかったね、竜太! 改めて竜太のご両親に挨拶しに行かなきゃね!)
「って里香! 僕たちまだ手を繋いでもいないのに――」
(じゃあ、今度散歩に行こう? 手を繋いで)
「ぶふっ!?」
流石に免疫ができたのか、流血沙汰(鼻血)は避けられた。しかし、里香がこうまでぐいぐいくるとはなあ。いや、正直嬉しいんだけれど。
(わはは! 全く、お前さんたちを見とるのは飽きないもんだ!)
「爺ちゃん、まだ僕が里香と結婚すると決まったわけじゃ……!」
(え、そうなの?)
「そうだよ!」
里香もなにすっとぼけているんだか。
などと思っていると、再び書斎に沈黙が降り注いだ。しかしそこには、先ほどまでなかった緊張感のようなものがある。
今度は僕が口火を切った。
「ど、どうしたんだい、爺ちゃん?」
(今日はお前たち二人に、伝えねばならんことがある)
「何?」
(どうかしたんですか?)
心配げな里香の思念が混ざる。また僅かな沈黙を置いてから、祖父は言った。
(そろそろわしも、あの世に逝こうと思う)
「……え?」
(……はい?)
そんな馬鹿な。祖父が中間霊域にいられるのは四十九日間。まだ日数はあるはずだが――。
このまま三度沈黙が訪れるのを回避するつもりなのだろう、祖父は言った。
(二人共、中間霊域まで来てくれ。話はそこからだ。さあ、『春③』のファイルを)
夏から一周して春になったのか。
祖父が残したたくさんのファイル。それを小さな本棚から取り出して、中間霊域へと引き込まれるのはこれが最後か。
そんな感慨に囚われつつも、僕はやはり納得がいかなかった。正直、まだ祖父のそばにいたかったのだ。たとえその場所が、この世でなかったとしても。
(竜太、どうした?)
「あ、ああ。今行く」
祖父に促されて、僕は中間霊域へと踏み込んだ。
※
いつもは着地の感覚から入るはずの中間霊域。しかし今回は違った。匂いだ。花々や木々の放つ、自然的でどこか甘い香り。
「おっ……と」
僕はバランスを取り、地に足を着いた。あたりを見渡せば、西日が差し、草原と背の低い花々が広がっている。里香と祖父――今は人間の姿をしている――は、少し離れたところに立っていた。
「おーい、竜太!」
祖父に呼ばれて、僕は二人の元へと向かい始めた。
一歩。また一歩。
しかし、僕は自覚していた。自分の足が、どんどん重くなっていくことに。
僕が到着したら、祖父はどうする? きっと別れを告げて、女神様の助けでも受けて、今度こそあの世に――決して会えないところにまで行ってしまうのだろう。
怖い、と思った。本当に、本当に二度と会えなくなるのか。
そう思い、どんどん足が下草に絡めとられていくような感覚に囚われる。しかし、無情にも時間と距離は少なくなっていく。
気づけば、祖父・里香のいる場所へは、あと五メートルほどの距離しかなかった。
「さあ、竜太」
声をかけてくる里香に、無言で見守る祖父。
僕はすぐにでも祖父に駆け寄っていきたいのと、ずっと近づかずにいたいのとで、酷いジレンマに陥っていた。
それでも、いつしか僕は、祖父の手が届くところにまで近づいて来ていた。
「竜太、わしの自慢の孫よ」
「……」
祖父は僕を無理やり引っ張らずに、そっと肩に手を置いた。
「皆さん、ご準備はいかがですか~?」
しばらくそうしている間に、女神様がそばに立っていた。彼女も今は人間の姿だ。
「では、私が地面を割って、三途の川を造ります。下がっていてくださいね~」
そう言って、女神様は手にした長い杖をさっと振りかざした――その時だった。
ドン、と鈍い打撃音がして、女神様は突き飛ばされてしまった。
「何だ!?」
「ど、どうしたの!?」
「何事だ、女神さん!?」
三者三様のリアクションを取る僕たち。女神様は、まさか死んではいないようだった。しかし、立ち上がることができないほどのダメージを被ったらしい。
女神様を突き飛ばすなど、とんでもない力だ。それが物理的なものであれ、霊的なものであれ。
祖父が女神様の方へ駆け出そうとする。次の瞬間だった。『彼女』の声が頭上から降ってきたのは。
「そうそう好きにはさせないわよ!!」
「友梨奈!?」
僕は考えるでもなく、『彼女』の名を呼んでいた。
一体何故、どうやって友梨奈は中間霊域に現れたんだ? その目的は?
それに、どうして僕たちは狙われているんだ?
そんな疑問だらけの僕の顔を見つめながら、友梨奈は草原に足を着いた。と、その直前。
バサリ、と強く空気を打つ音がする。そして、僕たちは驚愕した。
友梨奈の背中には、真っ黒な翼が生えていたのだ。翼長三メートルといったところか。夕日の逆光を浴びて、その黒さは余計に引き立てられている。
否応なしに、僕は一つの言葉を連想した――悪魔。
「どうして私がここにいるのか、解せないみたいね、竜太」
不敵な笑みを浮かべながら、友梨奈は唇の端を釣り上げた。
「原理的には難しくなかったのよ? あなたと私と竜蔵さんが写っている写真ならあったから、そこを入り口にしたの。それで、父さんに頼んだのよ。『私も協力を頼まれたから、中間霊域に送ってくれ』って」
「それでここに……?」
呟く里奈に代わり、僕は大声を張り上げた。
「何をするんだ、友梨奈! 目的は何なんだ!?」
「あなたのお爺さんを、地獄に落とすことよ」
今まで経験したことのない寒気が、僕の背中を駆け抜けた。地獄に、落とす……?
「この前言ったわよね。私、あなたのことが好きだし、諦めるつもりはないって」
驚きと恐怖心からか、里香が唾を飲む音が聞こえてくる。この件は、里香にはまだ話していなかったことだ。
僕たちが動けないでいると、友梨奈は相変わらず不気味な表情で宣言した。
「竜蔵さんには人質になってもらうわ!」
すると、祖父の足元から黒い雑草状のものが湧いてきた。
「ぐっ!」
「爺ちゃん!」
ほぼ一瞬で、祖父はぐるぐる巻きにされてしまった。
「くっ……」
僕が二の句を継げないでいると、友梨奈は言った。
「私が父さんの力を借りようとした時、これで竜太は私に振り向いてくれるんじゃないかと思った。里香さんなんて地味な子、すぐに飽きて、私の行動力や明るいところに目が行くんじゃないかと思ってね」
友梨奈はふっと脱力し、両腕を腰に当てた。
「でも、そんなことはなかったみたいね。本っ当に残念!」
「まさか、その怒りを僕にぶつけるために……?」
「そうに決まってるじゃない! 本当はあなたの家族を殺してもよかったんだけど、流石にそれはね、リスクが高すぎる。でも、もう死んじゃった人が相手なら構わないわよねえ?」
「ッ……」
友梨奈は翼を格納し、弓矢、というかボウガンを構えた。
「竜太、あなたが私と付き合ってくれないなら、私、ここであなたたちを殺すわ」
そう言って友梨奈が一歩、距離を詰めてきたその時だった。
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