第4話◎

 片腕で頭をガードしながら、もう片方の手で本箱に触れてみる。その時になって、ぼくはようやく気づいた。


「……浮いてる?」


 そう、この本箱だけが振動に巻き込まれなかったのは、僅かに浮いていたからだ。それに、本当に弱々しいものではあるけれど、どこからか淡い、白い光を発しているようにも見える。


(竜太、無事か?)

「は、はい! 今本箱に――」

(だったら一番右端のファイルを取り出して、中を開いてみろ。急げ!)


 先方の切羽詰まった言い方に押され、僕はそのファイルとやらを手に取った。背表紙には『①夏』と書かれており、透明な表紙には真夏のビーチのポスターが挟み込まれている。


「見つけました! 夏、ですよね?」

(分かっとるならさっさと開かんか!)

「は、はい!」


 僕は今日何度目かになる情けない返事をしながら、ファイルを開いてみた。

 何が挟まれているのだろう? 何が描かれているのだろう? 祖父は一体、何を保存していたのだろう――?

 緊張で動きを止めたのも僅かな間のこと。脳内で怒鳴りつけられる不快な感覚を思い出し、そうはさせまいと急いでファイルを開く。ページは適当だ。しかしそこには、


「あれ?」


 何も書かれていない。パラパラとめくってみるが、どのページにもプリントや冊子の類は見つけられない。何のためのファイルなんだ?

 僕がそう訝しんだ、その時だった。


「うわっ!?」


 見開き状態だったファイルのページが、突如として光りだした。本箱が光っていたのとは比較にならない、光の奔流が僕を包み込む。僕は咄嗟に腕を瞼に当てて顔を逸らした。

 しかし、そんな僕にはお構いなしに、『謎の力』が働いた。正直、わけが分からない。しかし敢えて説明を試みるならば、ぐっと身体全体が圧縮され、ファイルに引っ張り込まれるような、そんな感覚だった。

 そっと腕をどかし、薄く目を開いてみる。すると僕の視線の先、前方から、多くの写真のようなものが僕に向かってきた。それは、祖父と一緒にスイカ割りをしたり、花火大会に行ったり、夏祭りで金魚すくいに悪戦苦闘する僕たちの姿だった。

 一体誰が撮ったのだろう? そんな疑問を覚える頃には、僕の身体は真っ白な光の中にあった。今度は僕自身が浮いている。どんどん前方に吸い込まれていく。視界は白い光に代わり、写真と思しき画像の流れに呑まれている。

 その呑み込まれる速度はどんどん上がり、写真も判別が難しくなってきた。やがて光は七色になり、写真のフレームは曖昧になり、僕は、僕は、ぼく……は……。

 最後に覚えているのは、凄まじい睡魔に襲われ、穏やかに気を失っていった、ということだった。


         ※


「まあ、そっちの世からこっちに来るまでざっと二十分、といったところか。どうだ、竜太? 初めて異世界にやってきた感想は?」

「……」

「どうした? さっきも言ったが、俺はお前の爺ちゃんだぞ? 高峰竜蔵だぞ? 分かってるか?」

「……」

「む、記憶障害が出るとは、女神さんも言っておらんかったぞ。竜太、聞こえとるか? 竜太?」

「き、聞こえてるよ!」


 僕ははっとして声を張り上げた。

 睡魔によって意識を失う、というのは、どうやら爺ちゃんのいる『この空間』に来るために必要なことらしい。波打ち際で眠りに落ちていた僕を祖父が見つけ、肩を貸しながら、二人でロッジへ戻ってきたところだ。

 戻ってきたといっても、そのロッジも立地条件も、それからこの世界全体のことも、僕にとっては初めて見聞きすることばかりだった。

 まず確認したかったのは、


「爺ちゃん、生きてるの? 死んでるの?」

「何を言っとるんだ竜太! ほら、ちゃんと足があるだろうが」

「じゃあ、生きてるの?」

「生きてるというよりは……うーむ」


 祖父は顎に手を遣って考え始めた。

 一応落ち着きを取り戻してきたところで、僕は祖父をまじまじと観察した。

 確かに、目の前にいるのは僕の祖父、高峰竜蔵だ。豊富な白髪に浅黒い肌、九十九歳とは思えない、ピンと伸びた背筋。

 次に、周囲の状況を確認。木造のロッジは特に何の変哲もなく、波の穏やかな音が時折鼓膜を震わせる。呼吸もできるし、身体にもちゃんと力が入るようにはなってきたようだ。

 要するに、ここが異世界だろうと現実でろうと、僕の死生に関わることはないらしい。祖父が僕を誘導してきたところからすると、きっと戻る手段もあるのだろう。


 ――と、そこまで思考を巡らせた、その時だった。


「ちょっと竜蔵さん、あたし、ちゃんと説明しましたよね? あなたも、あたしより自分の口から竜太くんには説明した方がいいって、そう言ってましたよね? どうして無言で固まってるんですか?」


 まず初めに、僕は驚いた。いや、亡くなったはずの祖父がいる時点で驚きには慣れておくべきだったのだろう。しかし、どこからともなく聞こえてくる女性の声には、再びの不意打ちを喰らっていた。

 今ここには、僕と祖父しかいないはず。どこだ? そして誰だ? 声の発生源は。

 僕は慌てて周囲を見回す。誰もいない。と、いうことは。僕が視線を上に遣ると、緑色に輝く掌サイズの球体が、天井をすり抜けて入ってくるところだった。

 すると、僕同様に首を巡らせていた祖父は、


「おう、女神さん。すまんな、わしも歳で忘れてしまった。説明を代わってくれんか?」

「全く、しょうがないですね……」


 女性にしては低めのアルトヴォイス。綺麗な声だなと思いながら緑色の球体を凝視していると、


「さあ、二人共目を閉じて。すぐ済みますから」


 なんだか注射をされるみたいだな……。そう思いつつ、僕は女性の声に従った。


「二人共、ぎゅっと閉じてくださいね」


 その言葉の直後、


「うっ!」


 光が目に差し込んできた。これは凄い光量だ。女性の言葉通り、きっちり瞼を閉じていたのだから。直視していたら失明していたかもしれない。


「もう大丈夫です。目を開けてください」

「ん……」


 僕が目を開けると、そこには一人の女性が立っていた。 


「どわあ!!」


 と大声を上げて身を引いた――のは僕ではなく祖父の方だ。

 すると女性は、


「竜蔵さん、何度も驚かないでください。私にとっても不本意です」

「あ、ああ、すまない」


 祖父は姿勢を正した。


「竜太、この方が女神さんだ」

「女神……?」


 僕はその女性に注目した。

 背は僕より頭二つ分は高く、淡い緑色の長髪の上に輪っかを浮かべている。濃い緑色のローブをまとい、背中には真っ白な翼を有している。深く穏やかなオーラがキラキラと発せられ、瞳はエメラルドのようだった。人間で言えば二十代前半くらいの姿に見える。

 僕はさっと自分の顔が紅潮するのが分かった。こんなに美しい女性に出会ったのは初めてだったし、胸元の大きく開けた服装に、目のやり場を失ってしまったからだ。


「そんなに緊張しなくてもいいんですよ、竜太さん」


 そ、そう言われても……。僕はなんとか女神様と目を合わせ、こくりと頷いた。


「さて、それでは私からこの世界――『中間霊域』の説明をします」


 女神様によれば、人――専ら何も信仰していない日本人――には、死後四十九日間、『中間霊域』での滞在が認められる。ここでは、自分が死んだ後の家族の様子を見守ったり、ごくごく僅かではあるが干渉したりすることができるらしい。


「それにしても、先ほどの書斎での干渉はやりすぎです、竜蔵さん」

「いやー、失敬! ああでもしないと竜太が勇気を出してくれないんじゃないかと思ってな」

「じゃ、じゃあ、爺ちゃんは僕を試したの?」


 すると祖父は、決まり悪そうに頭を掻いた。

 と同時に、女神様はコホン、と空咳を一つ。


「四十九日間が経過すると、ここにいる人は天国か地獄かに進み、死後の道を歩んでいくことになります」

「え?」


 僕は間抜けな声を上げた。


「女神様、ここには爺ちゃんしかいませんけど……」

「死者の数だけ、中間霊域は存在します。ここは高峰竜蔵さん専用の霊域です」


 なるほど。道理で他の人……というか、亡くなった霊を見かけないわけだ。


「ここにいる間には、他にもできることがあります。それにはかなりの意志、というか遺志の力が要りますが……。遺族に、自分の代わりに何かを行ってもらうことができます。その相談をするためのスペースとしても、中間霊域は存在しています」


 そこでも僕は首を捻ってしまった。


「だ、だったらもっと、現実世界で『私は幽霊を見た!』とか言い出す人がいてもいいんじゃないですか?」

「いい質問ですね」


 女神様は僅かに目を細めた。それだけで僕はまた赤面しそうになる。

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