第3話◎

 感慨に囚われていたせいか、気づいたら僕は祖父の家の前に到着していた。外観はこれといって変わった様子はない。いや、布団が干されていないな。それを見ただけで、僕は胸の奥が縮まるような感じを覚えた。

 そうは言っても、いつまでもぼーっと突っ立っているわけにもいかない。平屋建ての、飾り気のない一軒家。僕はすっと手を伸ばし、玄関を引き開けようとして、


「あっ……」


 ガチャリ、という無機質な音に耳を打たれた。そうだ、鍵が掛けられていたんだった。祖父が入院してから施錠されていたのだろう。僕はすっかり忘れていた、というか覚えていたとしても、無意識のうちに玄関に手をかけていたんじゃないかと思う。

 そもそも、祖父は自家に鍵をかけるという習慣を持っていなかった。このあたりがやたらと治安がいいということもあったし、祖父本人も護身術には事欠かなかった。特に剣道の有段者である、ということは、本人にとってはだいぶ自信になっていたのだろう。

『お前らの施しは受けん! こんな一軒家、俺一人で十分守れる!』なんて言っていたっけか。僕は苦笑しながら、父から預かってきた鍵をドアノブに差し込み、玄関を開けた。


 当然ながら、屋内は真っ暗だった。日が差しているお陰で歩き回るには支障はないが、もう電気も水道も止められてしまったと聞く。両親はこの家を、これからどうするつもりなのだろう。

 これは単なる僕のわがままに過ぎないけれど、このまま残してほしいというのが本音だ。祖父自身は亡くなってしまったが、ここに来ればまた会える。そんな予感がしていた。もしかしたら、まだ祖父の霊はこのあたりをふわふわ漂っているのかもしれない。

 少し廊下を歩いていくと、やや広めの畳の間が目に入った。十畳ほどはあるだろうか。仏壇と、その反対側には薄型テレビが配置され、部屋中央には『いかにも昭和』の雰囲気を漂わせる円卓が置かれている。まだこの部屋は片づけられていないようだ。

 僕はそっと、畳の間に足を踏み入れた。仏壇の前に正座する。そこには、穏やかな表情で微笑む祖母の遺影があった。僕の記憶にはあまり残っていない祖母だけれど、きっと祖父もこの笑顔に生きる喜びを感じていたのではないだろうか。

 そう言えば、一度だけ祖父にこっぴどく叱られたことがある。小学二年の頃、夏休み初日のことだ。祖父をびっくりさせてやろうと、神妙な面持ちで仏壇に向かう彼の背中に抱きついたのだ。すると祖父は、正座のまま跳び上がって慌てて振り返り、凄まじい形相で僕に拳骨を見舞った。

 僕はわんわん泣き出してしまったが、祖父の怒りは留まらなかった。僕を正座させ、頭上から雷を落とし続けた。何と言っているのか分からないほどの怒声で、だ。

 よって、祖父がどうしてそこまで怒ったのかは推測の域を出ない。ただ、その場の状況から察するに、祖父は祖母と心を通わせていたのかもしれない。それを僕が邪魔してしまった。もちろん僕は結婚などしていないけれど、『一生の伴侶』との遣り取りを邪魔されたら、当然怒り心頭だろうとは思う。

 僕の知らない面でも、祖父は優しい人だったんだろうな――。僕が一人で納得していた、その時だった。


 カタン、と音がした。何かが微かに震えたような、小さな音だ。それでも、僕の気を引くには十分だった。

 誰か僕以外の人間が、祖父の家の整理に来ていたのだろうか? しかし、だったら後から入ってきた僕に挨拶くらいするだろうし、そもそもこの家の玄関には鍵が掛かっていた。

 野良犬や野良猫が悪さをする、などという話は、このあたりでは聞いたことがない。

 気のせいだったのか? いや、まだ分からない。僕はそっと立ち上がり、廊下から顔を出して、長い廊下を見渡した。すると、再びカタン、と音がした。気のせいなんかじゃない。

 一体誰が――いや、何がいるんだ?

 元来僕は、自他共に認める臆病者だ。普通ならそっと祖父の家を後にするところだろう。だが、それではいけない、この家を守らなければという使命感が、僕を突き動かした。

 僕は畳の間に戻り、仏壇と壁の間に立てかけてあった竹刀を手に取った。抜き足差し足で部屋を抜け、廊下へ。その廊下の一番奥にある部屋こそ、僕が片づけを指示された祖父の書斎だ。遺品といったら、間違いなく書斎にある。経験上、僕はそう確信していた。

 廊下をゆっくりと進む。書斎の扉――そこだけ洋風の造りになっている――を視界の中央に捉えながら。また、廊下の床を軋ませないよう注意しながら。

 どのくらい時間をかけただろう? 一分? 十分? もっとか? いや、今は隠密性を保つ方が優先だ。何が待ち構えているのか分からないのだから。

 僕はスライド式の引き戸になっている書斎の扉に手をかけた。その時になって、自分が汗だくであることにようやく気づく。無論、原因は暑さだけではない。

 隙間を開けて様子を見るか? いや、この際いっぺんに飛び込んでしまった方がいい。僕は右手に竹刀を握り、左手をドアにかけながら、胸中でカウントダウンを始めた。


 ……三、二、一、今だ!!


 僕は相手の頭頂から竹刀を振り下ろせるよう握り直し、気合の声と共に書斎に飛び込んだ。目の前には誰もいないし、何もない。

 素早く視線を左右に走らせ、『敵』がいるのか否かを確かめる。しかしそこは、今まで通り何の変哲もない、祖父の書斎だった。


「はあ……」


 僕は軽く息をついた。やっぱり僕の聞き違いだったのだろうか。

 なんだ、馬鹿馬鹿しい。最初から何にもなかったじゃないか。僕は再び、しかし今度は脱力感を込めてため息をついた。


 僕が扉の手すりに触れようとした、まさにその瞬間だった。


「……地震?」


 全身を包み込むような振動が、僕の足元から伝わってきた。僕だけではない。書斎の棚や机、椅子までもが振動している。

 地震の際は『何か』の下に隠れるのが基本。だが、その『何か』の最有力候補であるところの机までが振動している。やがて、


「うわっ!?」


 本棚から本が飛んできた。降ってきたのではない。飛んできたのだ。

 僕はその場でうずくまり、頭を守った。それでも、何冊かの冊子が背中に当たり、紙切れが吹き荒れてバサバサと僕の頭上を覆った。

 しばらくすると、重いはずの分厚い百科事典までが震えだし、


「ひっ!」


 ドスンと落ちてきた。あんなものが頭に直撃したら、命に関わるかもしれない。

そんな恐怖に駆られつつ、僕の脳みそは一部が冷静に状況を把握していた。

 これは、ポルターガイストという奴だ。誰に触れられることもなく、家具や雑貨が部屋中を跳ね回るというあれだ。

 その現象が、人を狙うという話は聞いたことがないので、生き残ることは可能だろう。でも、辞典を満載した棚が倒れて来たら、保証の限りではない。


 ――助けて、爺ちゃん! ――


 声に出したかどうかは分からない。だが、今この場に駆けつけてくれるのは祖父以外にはいないだろう。

 僕は目を閉じ、できうる限り身を縮めて、この怪現象の収束を待った。

 その時だった。


(竜太、聞こえるか?)

「!?」


 何? 何だ、今の声は?


(竜太、怪我はしとらんだろうな?)

「は、はい!」


 僕は突然、頭の中に響いてきた声に返答していた。


(これから脱出方法を話すから、よーく聞いておけ!)

「な、何を言うんだ!?」

(だから、助けてやると言っとるんだ!)


 荒れ続ける書斎の現状からして、どうやら僕はこの謎の声に従う外ないようだ。


(顔をゆっくり上げろ。奥の机の横に、小さな本箱があるのは分かるか?)

「はい!」

(そのそばまで、何とか這っていけ!)

「え? でも床は滅茶苦茶です!」

(多少のものは蹴っ飛ばしても構わん! いいから小さな本棚のところまで辿り着け!)


 これほどの状況下にあって、僕は半ばやけっぱちだった。

 蹴飛ばしてもいい? 分かった、上等だ。僕は最近観た戦争映画のモブキャラよろしく、腕と足をフルに使って前進を開始した。

 僕の肘の下で本が破れ、足先からはグシャリ、と紙の折れ曲がる音がする。しかし、それに構っている場合ではないのだ。ひたすらに僕は前進し、小さな本箱に手をかけた。

 不思議な感触だった。木製の、両手で抱えられる程度の大きさの本箱。そこには数冊の、アルバム状の本が挟まっていた。

 そして今更ながら、何故『不思議な感触』だったのか、僕は気づいた。

 この本箱だけが、揺れも震えもせずにその場に留まっていたのだ。

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