第2話◎

 三日前。実家の客間にて。

 大勢の大人たちが、この蒸し暑い中、スーツ姿で正座をし、座布団に腰を落ち着けている。

 誰も口を利かない。身動きすらしない。ただそこにあるのは、広大な畳の間、セミの鳴き声、そしてどこか穏やかな空気だ。

 ちょうど部屋の中央あたりに座っていた僕――高峰竜太は、大いなる戸惑いと心理的麻痺状態にありながら、お坊さんの読み上げるお経に耳を傾けていた。

 僕が酷く狼狽していた理由は二つ。一つは、昨日の夜に僕の祖父――高峰竜蔵が亡くなったということ。もう一つは、それにも関わらず親族の誰一人として嘆いたり、悲しんだりしている者がいないということだ。


 祖父の死は呆気なかった。五日前の晩に呼吸困難を起こし、病院に搬送されて、四日前には亡くなってしまったのだ。原因は、重度の肺癌。確かに、日に葉巻を十本も二十本もスパスパやっていたらそうもなるだろう。

 ちなみに市販の煙草は『刺激が足りん!』とか言って、決して口にはしなかった。だったらそのまま禁煙してくれれば……と思った人は何人もいたらしく、その度に交渉の席がもたれた。しかし祖父は『年寄をもっと労われ!』とか何とか怒鳴り散らし、交渉決裂となるのが毎度のことだったらしい。

 そして病室、しかも個室で安静を保つよう告げられた祖父。癌はもはや止めようのないところまできてしまっていたんだそうだ。

 これが、祖父の人生の幕引きの一部始終だ。ちなみに享年は九十九。実に清々しい。そんな高齢になってまで、葉巻の他にもスイミングやらゴルフやらを嗜んでいたのだから、羨ましいを通り越して恐れ入る。


「九十九歳は白寿と言ってね、とても縁起がいいんだよ」


 と教えてくれたのは僕の大叔母、つまり祖父の妹だ。


「だから竜太くんも悲しむのではなくて、今までありがとう、っていう気持ちでお葬式に臨みなさい」


 その後光の差すような大叔母の言葉を信じ、僕は悲しむまいと思っていた。周囲の大人たち――とりわけ僕の両親もそう考えていたらしい。

 しかし僕はその中に、何らかの『異変』というか、複雑な感情が含まれているのを、高校生の身でありながら薄々察していた。

 僕はしょっちゅう、祖父の家に通っていた――というか、入り浸っていた。僕の実家から祖父の家の間はせいぜい自転車で十五分。そんなに離れているわけではないし、両親の許可も得て、僕は祖父の家で寝泊まりすることが多かった。

 こんな言い方をすると、いかにも幼稚園児がお爺ちゃんっ子になっているのと同じような印象を与えるかもしれない。が、それもあながち間違ってはいない……というか、否定材料を僕は持ち合わせていない。


 だが、こうして祖父が亡くなり、思い出に浸っている今、僕は新たな疑念にぶつかりつつあった。

 どうして祖父は、僕の両親と同居せず、ずっと一人暮らしをしていたのだろう?

僕の祖母は、僕が小さい頃――三、四歳くらいの時だろうか――に既に亡くなっている。一人で暮らすのは寂しかろうに、どうして同居しなかったのだろう?

 今だからこそ分かることだが、僕の両親と祖父は、あまり仲が良くなかったのだ。だからこそ、両親とは別居を続けていたのだろう。

 もしかしたら、僕が祖父にだいぶ世話になっていることも、両親はあまり面白く思ってはいなかったかもしれない。


 いずれにせよ、九十九歳の大往生だ。大叔母の言う通り、悲しみよりも『単なる別れ』という認識の方が、この部屋の空気の大半の割合を示しているように思われた。

 でも、それだけでいいのだろうか。皆が皆、大叔母の言う通り感謝の念を抱いているとは限らない。家族との死別というのは、こんなにあっさりしていてもいいものだろうか。

 僕は音のないため息をつきながら、誰に見せるともなく肩を落とした。


         ※


 三日後、つまり今日。

 僕は自室で、祖父と一緒に撮った写真を漁っていた。写真の中では、釣り好きだった祖父が自ら釣り上げた大物を僕の身長と比べっこして微笑んでいる。本当に、死ぬまで元気でエネルギッシュな人だったなあ。

 そんな感慨にふけりながら、その写真をぼんやり眺めていた。

 すると、コンコンと僕の部屋のドアがノックされた。


「竜太、今いいか?」

「どうしたの、父さん?」

「話があるんだ。少し来てくれるか」

「分かった」


 ドア越しにそう告げあった僕と父は、一階のリビングの一つである和室で相対した。決して怒られるような雰囲気ではなかったが、父の眼差しは鋭い。


「竜太、お前に頼みたいことが……いや、お前にしか頼めないことがあるんだ」

「うん」


 僕は頷きながら、ごくりと唾を飲んだ。普段から厳しい父だが、今日の顔つき、眉間に皺を寄せた表情は、ごく稀にしかお目にかかれない強い意志の表れだ。そして発せられた言葉は、


「竜蔵さんの遺品整理を頼みたい」

「えっ……」


 僕は改めて戸惑った。僕が祖父の遺品整理などという大役を担っていいものなのか? 確かに、本人以外で祖父の家に最も出入りしていたのは僕だけれど。

 ちなみに、父が自らの実父である人物を『お父さん』や『お爺ちゃん』と呼ばないのはいつものことなのでスルー。

 そう、だから遺品整理のことだ。


「生活必需品の類は父さんと母さん、それに伯父さんたちと協力してやるつもりだ。だが、流石に竜蔵さんの書斎までは、何が置いてあるのか、何が大事なものなのか、判断しかねるものがある。だから竜太、お前に頼む」


『できるんだろうな?』と暗に脅しつけるような目つきの父に、僕は反論できない。かと言ってできる保証もなく、口をパクパクさせる結果となった。


 ちょうどその時、


「お爺ちゃんはいろいろと凝り性だったからね。竜太、あんたが上手く片づけてあげなさい」


 と、母が気楽に声をかけてくれた。麦茶を入れた二つのグラスが、僕と父の前に置かれる。

 薄々感じてはいたけれど、母の方が父よりも祖父に対して寛容なようだ。逆に言えば、血の繋がった親子だからこそ、父は祖父に特別な思いを抱いているのかもしれない。悪い意味で。

 一応忌引きということで、明日までは学校を休む予定でいる。今日から取り掛かればなんとかなるだろう。

 そう判断した僕は、了解の意を父に告げ、玄関を出て愛用の自転車にまたがった。


 ここ、房総半島の東岸に位置する田舎町では、海沿いの高台に住宅が並んでいる。田舎と言っても、物流はきちんとしているし、宅配便は期日通りに届くし、まあ端整で静かな街だ。

 高崎家は随分昔から地主の務めを果たしてきたこともあり、このあたりではちょっとした銘家と言ってもいい。当然、僕たちの(正確には僕の両親が住んでいる)家は、高台の中でも一等高いところにある。

 対して祖父の住んでいる一軒家は、高台の中でもあまり高い立地ではない。別にそこに住民のヒエラルキーが存在するわけではないが、だいぶ坂を下ったところにある。

 車の通りも少ないこの高台で、海を臨みながら自転車をぶっ飛ばすのが僕の趣味……と言いたいところだが、そんな青春アニメのようなことは起きていない。万が一、万が一にも事故に遭ったら目も当てられないからだ。

 僕は――誰に強制されたわけでもないけれど――仮にも高崎家の跡取りなのだ。冗談だろうが何だろうが、命を落とすわけにはいかない。

 しばしのろのろと坂を下っていると、ちょうど見晴らしのいい曲がり角に差し掛かった。太平洋が一望できる……ほど広い範囲が見えるはずはないのだが、


「ちょうどこのあたりだったよな……」


 僕は足を止め、ブレーキをかけて停車した。

 祖父と二人で、祖父の家から両親の家まで自転車競走をしたことがある。当然ながら、コース全体が上り坂だ。ちょうど二人共このあたりでバテてしまい、『登り切ったら一緒に食べよう!』と準備していたアイスクリームが見る影もなく溶けきって、落胆しつつも苦笑しあった思い出がある。

 今は競争相手もいなくなったこの坂道。少しばかり視界が滲んできたのを感じた僕は、それに気づかなかったふりをして再び自転車を発進させた。

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