第12話

 母に一旦帰宅を告げた僕は、そのまま自転車にまたがり、ゆっくりと坂を下りて行った。祖父の家の前で停車して、『お邪魔しま~す』と言いながら玄関の鍵を開け、そのままゆっくりと書斎へ。


「爺ちゃん、また来たよ」

(おう! 待っとったぞ。今日は秋のファイルを開いてくれ)

「え? まだこっちは夏だよ?」

(いいんだ。こちとら、四十九日間でいろいろとやっておきたいのでな。いつまでも夏にこだわっているわけにもいかんのだ)

「はあ」


 僕は納得できたような風に頷いた。そのまま書斎の奥の小さな本箱に向かい、


「秋、秋っと……。これかな?」

(そう、『秋②』というやつだ)


 僕はパラパラとフォルダーを見て――どこにも、何も挟まれてはいなかったが――、このあたりかと思うところで手を止めた。

 すると、


「!」


 また昨日と同じ要領で、僕はファイルに吸い込まれていった。

 ゆっくりと、足が地に触れる。僕は二、三歩その場で足踏みをして転倒を防ぐ。


「おっとっと……」


 さて、秋か。一体どんな風景が広がっているのだろう――と思ったのも束の間、


「ん?」


『何か』と目が合った。僕は軽く首を曲げ、視線を上げる。すると僕の視界は、巨大な二つの目玉に埋め尽くされてしまった。これは、何だ?

 中間霊域に飛び込んですぐのことだったので気づかなかったが、僕の目の前には巨大な生物が鎮座していたのだ。

 うん、よく映画やドキュメンタリー番組で見たことがある。

 そこにいたのは、紛れもなくティラノサウルス・レックスだった。


「……」


 あまりにも突然の遭遇に、僕は口が利けなかった。足を動かす、すなわち逃げるなど以ての外だ。

 目の前の恐竜は、ぼふん、と鼻息を一つ。そして後ろ足からゆるゆると立ち上がった。視線は僕と合わせたまま。そして一度、首を引っ込めたと思うと、


 ゴアアアアアアア!!


 と、とんでもない声量で鳴き声と唾を浴びせかけてきた。


「ひっ!」


 一種のショック療法だろう、僕はようやく正気に戻った。

 と同時に、自分の取るべき行動について考えた。ティラノサウルスは、動かないものは目に見えなかったはず。ここから動くべきではない。

 しかしそんな思いつきは、一つの知識に過ぎない。行動する指針や判断とは程遠いものであり、本能的な恐怖に勝るものではなかった。

 僕は膝を震わせながら、一歩、また一歩と後退した。しかし、背中が何かに塞がれてしまった。後ろに手を伸ばすと、それは大木だった。

 事ここに至り、ようやく僕は周囲の状況を把握した。

 ここは、ジャングルのど真ん中だ。秋らしくも何ともない、常夏の地。そんな中で、唐突にティラノサウルスに遭遇してしまった僕。

 今時恐竜など時代錯誤も相当なものだが、そんなことはどうでもいい。僕は一旦、思いっきり息を吸い込んで、


「うわあああああああ!!」


 と、あらん限りの力を振り絞って絶叫した。

 振り返り、大木を避けて密林の中へ。

 逃げろ。逃げろ。とにかく逃げろ!!

 ティラノサウルスは、明らかに僕を追ってきている。振り返る余裕はなかった。しかし、その気配はこれでもかと伝わってきていた。

 ドスン、ドスンという重い足音。バリバリと木々がなぎ倒される音。それらに合わせて僕の身体を揺さぶる振動。

 僕は思いっきり跳躍し、右手の草むらに跳び込んだ。いつもより自分の身体が軽いような気がしたが、今は気にしている場合ではない。伏せて身体を丸くする。

 嫌な汗が、背中から湧き出して腰を伝っていく。ティラノサウルスは僕を見失ったのか、立ち止まって荒い鼻息をついている。

 くそっ、これじゃあ爺ちゃんよりも僕が先に成仏しちゃうよ……!

 ティラノサウルスの鼻息が、僕のシャツをめくりあげる。もう駄目だ、感触で気づかれる。


 僕が自分の死を覚悟した、まさに次の瞬間だった。

 バサリ、と音がして、何かが僕の頭上、木々の間から跳躍した。ティラノサウルスの頭上へと。

 逃げるなら今しかない。僕は立ち上がり、駆け出そうとして、


「あ痛っ!」


 何かにつまづいた。何だかよく分からないが、直感的に僕はそれを『武器』であると認識した。それを手にすると、どうやら剣のような形状をしているらしい。

 もしかしたら、僕も戦えるかもしれない――。

 そう思って、僕は思いっきり振り返った。

その先で、ティラノサウルスはかぶりを振りながら、空を斬って噛みつきを繰り出している。しかし、その牙は目標を捕らえることができずにいた。

 目標――それは人間だった。頭からフードを被り、その姿ははっきりとは見えない。しかしその人物が、とんでもない俊敏性で牙を回避しているのは視認できた。隙を見つけては、短刀で恐竜に手傷を負わせている。


「私が牽制する! あなたは早くこいつにとどめを!」


 その声――少女のようだ――に促され、僕は剣を抜刀した。すると、青白い光がうっすらと刀身を包んだ。原理は分からない。しかし、その光にどこか励まされるような気分の高揚が感じられた。


 ――僕だって、戦えるんだ! 


 僕は刺突の姿勢を取り、


「はあああああああ!!」


 一気に斬り込んだ。

 倒木を踏み台に軽く跳躍し、恐竜の胴体のど真ん中を狙う。


「ふっ!」


 ズシャッ、と音がして、剣は深々と恐竜の腹部に突き刺さった。少女は恐竜の頭部から跳び退り、短刀を眼前に、横向きに構える。

 しばしの沈黙の後、恐竜は、ズアアア……と弱々しい声を上げて反対側へと倒れ込んだ。会心の一撃であったようだ。僕は恐竜から剣を引き抜き――不思議と出血は見られなかった――、その反動でバックステップ。

 ドズン、と地を揺さぶるような振動を残して、ティラノサウルスの死体は横たわり、青白い光に包まれ、消えた。


「何だったんだ……?」


 死体は跡形もなく消え去った。一体どういうわけだろうか? これではまるで、テレビゲームのようじゃないか。

 僕が剣を鞘に納めながら首を捻っていると、


「高峰くん、怪我はない?」


 少女が声をかけてきた。


「ああ、僕は大丈夫、だけど……。君は?」


 すると少女はフードを取り去った。


「って、牧山さん!?」


 どういうことだ? 何故部外者であるところの里香がここにいる?

 ポカンとしている僕の前で、里香は腰元のベルトに短刀を戻しながら、


「取り敢えずアジトへ。いろいろ聞きたいだろうけど、着くまでは黙ってて。他の恐竜が近づいてくるかもしれないから」

「わ、分かった」


 僕は前後左右に視線を遣りながら、里香の後についていく。

 むっとするような森林の空気に辟易したが、それでも身体は軽い。どうしたんだろう? これも里香に尋ねるべきだ。脳内の質問リストにメモをする。


「あ、見えてきたよ。あれ」


 里香はやや開けた場所を指差していた。そこには見覚えのあるロッジが建っている。


「あれがアジト?」

「うん」


 僕は軽く駆け出して、里香のそばを駆け抜け、ロッジの入り口に手をかけた。


「爺ちゃん!」

「おう、竜太! 度々すまんな」

「い、いや、それよりも……」


 すると、いつの間にか僕の後ろに立っていた里香は、


「まあ、座ったら?」


 と木製の丸椅子を勧めてきた。


「あ、ありがとう……」

「はい、これ」


 僕が座ると同時に差し出されたのは、革製の袋だった。液体――水が入っているらしい。

 僕は再び礼を述べた。どうやら僕も、『ありがとう』という言葉の使い方を覚えてきつつあるらしい。

 キャップ状の部分を捻り、口をつけてゆっくりと水を飲む。どうやら僕は、自分で思う以上に喉が渇いていたらしい。……って待てよ?


「ま、牧山さん、あの……」


 すると、おっとりモードに戻っていた里香は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。


「牧山さんの分の水は?」

「それ、だけど」


 彼女が指差したのは、紛れもなく僕の手中に収められている革袋だった。

 と、いうことは。


「ご、ごめん、牧山さん……」

「何?」


 こくん、と首を傾げる里香。


「えっと、あの、その……」

「おいおい竜太、気にするなよ。間接キスくらい、どうってことないじゃないか」


 僕は危うく口内の水を噴き出すところだった。


「ちょっ、爺ちゃん!? か、かかか、間接キスって……」

「お前、そう言おうとしたんだろう? 少なくともこういう状況になることは考えてたんじゃないのか、ええ?」


 僕は一瞬で顔が紅潮するのが分かった。

 里香はと言えば、いつものようにおっとりとした態度。だが、微かに視線を下ろし、頬を染めている。


「わはは! 若いな、竜太も里香も!」


 爺ちゃんだけが、腰に手を当てて盛大に笑い声を響かせていた。

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