第8話

「やはり我輩の格好が気になるかね、純真ボーイ?」

「え、ええ、まあ」


 すると先輩は、ない胸を張りながら、


「何故我輩がこうも自由に闊歩できるのか! それは、我輩こそが芸術の広大な自由を体現する存在だからだ!」

「……は?」


 ふふん、と鼻を鳴らしながら


「百聞は一見に如かず! さ、キミも早く美術室に来たまえ! 本物の芸術というものを見せて――」

「竜太、伏せてッ!!」

「!?」


 何だ!? 僕が慌てて身を屈めると、


「痛っ! な、何者!?」

「何者、じゃありませんよ、岡倉先輩! 勝手に人の同級生を勧誘しないでください!」


 恐る恐る顔を上げると、先輩は額に手を遣って痛みに耐えていた。

 振り返ってみると、そこには友梨奈が仁王立ちしており、ピストルのような形に右手を構えている。左手はポケットに回され、輪ゴムを取り出すところだった。

 そうか。輪ゴム鉄砲で先輩を狙撃したのか。


「友梨奈、一体何が……?」


 僕がゆっくりと立ち上がると、友梨奈は


「この先輩はね、放課後の美術室を乗っ取ってわけ分かんないものを描いてる変人なの!」


『関わらない方がいいわ!』と言って僕の肩を引く友梨奈。それに対し、


「って、キミは柏木友梨奈くんではないか! 久しぶりだな!」


 と言って親しげに距離を詰めてくる岡倉先輩。


「さしずめ二ヶ月ぶり、といったところかな? キミが我輩と決別し、独自の美術志向に走るようになってから」


 すると友梨奈は『ひっ!』という短い悲鳴を上げて、あたふたと周囲を見回した。

 足を止める者はいないが、それなりに注目は集まっている。

 僕は『二ヶ月ぶり』という言葉の意味を考えた。


「先々月の今頃……。友梨奈、何かあったのかい?」

「え、あ、それはちょっと――」

「説明しよう!」


 すると先輩はゴホン! と大げさな咳払いをしてから、


「柏木くんは我輩の愛すべき後輩だったのだよ!!」


 直後、友梨奈は固まった。ズドーン、と頭頂に落雷を受けたかのように。


「友梨奈、美術部員だったっけ?」


 友梨奈は無言。


「自分はスポーツばかりやってきた、だから新しい自分の可能性に挑戦したい! ……と言っていたね、キミ!」

「うわあああ、その話はナシ! 行くわよ、竜太!」

「竜太くん、美術室は三階の突き当たりだ! 機会があったら遠慮なく遊びに来てくれたまえ!」


 そう言う先輩を取り残すようにして、友梨奈は


「竜太、行くわよ」


 と短く告げて、僕の手を引いて歩きだした。

 ちょうど一階奥、理科実験室の前までやって来たところで、友梨奈は重くて深いため息をついた。まるで一年分の息をいっぺんに吐き出すように。

 ようやく手を解かれた僕は、


「なあ、どうしたんだよ?」

「……不覚」

「え?」

「不覚だったのよ、私が美術なんて……」


 どういう意味だ? 友梨奈は小学校から中学校まで、どの科目も割といい成績を修めてきたものと思っていたが。

 そんな疑問が顔に出たのか、友梨奈は語りだした。


「あの先輩と遭遇しちゃった、ってことは、まあ竜太に隠し立てすることはないわよね」


 そう言って、開き放たれた窓に手をかけながら


「岡倉先輩が言ってたことはホント。私が美術部に在籍していた、ってことはね。運動だけじゃなくて、いろんなことをやってみたいと思ってたから。でもね、うちの美術部ってただの部活じゃないのよ」

「どういう意味?」


 これまた深いため息をつきながら、


「あの先輩、かなりの変人でしょ?」

「うん」


 僕は素直に頷いた。


「だけど、部活動紹介の時の先輩の油絵に、何故か私の心がビビッ! と来ちゃったのよ」

「へえ?」


 どんな絵だったっけ? 特に興味のなかった僕は思い出せなかったが、問題はその次だ。


「美術部員って、あの先輩一人しかいないの。去年の三年生が卒業してからはね」

「でもそれで部活動申請できるのかい?」

「できちゃったみたい、ね」


 肩を竦める友梨奈。


「それに、あの先輩のオカシイところが、入学したての私には眩しく見えちゃったのよ」


 ああ、だんだん思い出してきた。確かに、美術部の紹介の時『変な格好の先輩がいるもんだなあ』とは僕も思った。しかしあれがパフォーマンスではなくデフォルトであり、先輩の日常の姿だったとは……。


「だから全然人なんて集まらなかったし。それで、未だにポスター貼りまくって新入部員の募集をしてるわけ」


 ん? 待てよ?


「友梨奈、じゃあ君は、その『全然集まらなかった新入部員』のうちの数少ない例外だったわけ?」


 すると友梨奈はキッ! と僕を睨みつけ、しかしすぐにへなへなと肩を落とした。


「本当に若気の至り、ってやつよ。若さゆえの過ち、とも言うわね」


 なんだか片方だけ、格言ではなくアニメの台詞のように聞こえなくもない。


「じゃあ、友梨奈はそんな岡倉先輩から僕を救ってくれたんだ」

「まあね。別にあなたが特別、ってわけじゃないけど」

「ふうん」


 と、その時だった。


「あ、あああああああ!!」

「ちょ、どうしたのよ竜太!?」


 僕はとんでもないことに気づいてしまった。


「岡倉先輩みたいな変人とも会話できたってことは、僕のコミュ障が治りつつある、ってことなのかな!?」

「そんな、私に訊かないでよ!」


 確かに、尋ねたのは悪かった。というか、無意味だった。

 僕は今日、偉大なる『二歩』を踏み出したのだ。

 一つ目は、牧山里香に対するラジオ修復の交渉。二つ目はもちろん、岡倉先輩との会話だ。

 だが、もちろん友梨奈に対する感謝を忘れるわけにはいかないだろう。まあ、先輩の時は微妙なケースだったけど……。


「ありがとう、友梨奈! 君のお陰だよ!」

「ん……ま、まあ、そうかもね。どういたしまして」


 友梨奈は微かに頬を赤らめたが、僕は特に気に留めるでもなく、再び昇降口へと向かった。

 そして気づいた。今日二度目の『ありがとう』を友梨奈に捧げたことに。

 そうか、こんな使い方をする言葉だったんだな……。普通の人には当然のことなのだろう。だけれど、僕にとっては新発見にして新たなる実体験だった。

 『ありがとう』という言葉は、相手に使われるだけでなく、自分が使うことによって得られる満足感というものもあるんだな。


 僕は意気揚々と昇降口に向かい、岡倉先輩の力作に一瞥をくれながら下駄箱を開け、鼻歌を歌いながら校門を出ようとした――その時だった。


「ね、ねえ竜太!」

「ああ、友梨奈。まだ何か用かい?」


 振り返ると、友梨奈は軽く息を切らしていた。まるで、一旦僕の後を追うか否かを考え、それから駆け出して僕に追いついてきたかのような。


「竜太、一緒に帰らない?」

「え?」


 意外な一言だった。友梨奈は人気者だから、一緒に登下校する友人には事欠かなかったはずだ。それが『僕と一緒に帰りたい』だって? どういう風の吹き回しだろうか。


「ああ、いいよ。僕なんかとでよかったら」


 すると友梨奈はふっと顔をほころばせて、


「僕『なんか』なんて言わないの! そういう自虐ネタ、よくないぞ!」


 そう言いながら、友梨奈は軽い拳骨を僕に見舞った。どうやらいつもの友梨奈に戻ったらしい。

 それから先、僕たちはどうでもいい会話を続けた。どのくらいどうでもいいのかと言うと、『また明日!』と別れる時までには何を話していたのか忘れてしまうくらい。でも、それなりに楽しく会話することができた。


 家――実家の方だ――に帰ると、


「ただいま~」

「あ、お帰り竜太!」


 母が台所から顔を出した。向こうからは、何かを炒めるジャージャーという音がする。

 僕は靴を脱ぎ、揃えて玄関に置いて、屋内用のスリッパを突っかけた。

 すると、


「うわ! ど、どうしたの、母さん?」


 母はまだ料理には戻らず、僕の挙動を見つめていた。右手には菜箸を、左手にはお玉を握っている。


「いや、なんだか竜太を見てたら、今日は楽しそうだなー、って思ってね。いいことあったの? 誰かに告白でもされた?」

「まさか」


 僕は一笑に付したけれど、脱・コミュ障の旗印を立てられたことは事実だ。だからこうやって、母との会話も気楽にできる。


「父さんは今日、帰り遅いの?」

「そうみたいね。お盆前だからかしら? あんたたちはもうすぐ夏休みよね」

「ああ」

「せっかくなんだし、いい夏休みにするのよ」


 すると、母は笑顔のままで顔を引っ込めた。


『きゃあ! 豚肉の生姜焼きが炭になっちゃったわ!』という奇声が我が家に響き渡ったのは、まさにその直後のことである。

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