第7話
僕はラジオをゆっくりと里香の机に置く。勢いで『修理してほしい』などと言ってしまったが、無礼ではなかっただろうか。僕は俯き、何を言うべきか思いつかず、ラジオをじっと見つめた。
だが、僕以上にラジオを注視している人物がいた。誰あろう、牧山里香その人である。
僕が『もし迷惑だったら……』と言おうとしたまさにその時、ラジオが僕の視界から消えた。正確には、里香の両手に掴まれ、彼女の眼前に引き寄せられたのだ。
「ちょっ、牧山さん?」
「……」
里香は無言。ただラジオを目の前にかざし、その瞳を輝かせている。僕たち三人の沈黙を破ったのは、
「うわあ……」
という里香のため息だった。
彼女はぎゅっとラジオを腕に抱くと、
「すごい……すごいよ、高峰くん!」
「え?」
な、何がすごいって?
「このトランジスタラジオ、一号機だよ! TR-52だよ!」
ガタン、と椅子を倒しながら、里香は跳びあがらんばかりの勢いで立ち上がった。
「この子、いつか修理してみたいと思ってたんだあ……。仕組みにもすごく興味があったし!」
「そんなにすごいものなのかい?」
里香は何度も首を縦に振りながら、
「真空管ラジオを絶滅に追いやった、ラジオ界のアルマゲドンだよ!」
うーん、よく分からん。けど、この調子だったら――。
と、言うか。
「ね、ねえ牧山さん、キャラ変わってない?」
「え?」
小躍りする足を止めて、こちらに振り返る里香。
「こんなお宝、持っていながら分解や組み立てもしないなんて、そっちの方がおかしいよ!」
どうやら僕の方がおかしな人間に分類されてしまったらしい。
流石にこんな僕と里香では話が進まないと思ったのか、友梨奈は
「ねえ、牧山さん。音が鳴るように修理できる?」
「モチのロンだよ!」
「でも、ここには工具も何もないけど」
「あ」
里香のスキップが止まった。すると里香は僕の方に向き直り、思いっきり両の掌を机について、
「お願い、高峰くん! 明日! 明日の朝まで貸して! 新品同様にして返すから!」
「あ、ああ、うん。よろしく」
「うわあ、TR-52だあ……」
とにかくご満悦でうっとりモードに入ってしまった里香、それを呆然と見守る僕と友梨奈、それにクラスの目のうちの約半分。僕はすぐさま現場を離れ、目立たない自席に戻りたかった――と言いたいところだが、そんな僕の視線は里香に向けられていた。
僕の持っていたもの、話しかけたこと、そしてお願いをしたこと。
たったそれだけのことで、こんなに喜んでくれる人は初めて見た。
僕の胸中は、いい意味でカオスになってしまった。こちらから頼み事をして相手に喜ばれるなんて、立場が逆じゃないか。それでも、里香は喜んでくれた。友梨奈も満足気に頷いている。僕もなかなか捨てたもんじゃない、ってところだろうか。
ちょうどその時、予冷が鳴った。朝のホームルーム開始五分前を知らせるチャイムだ。
「おっと! じゃ、私はこれで!」
「あ、ありがとう、友梨奈」
その時、僕はもう一つの自分の心の移ろいを感じた。
友梨奈の背中を見つめながら考える。
僕が最後に、誰かに向かって『ありがとう』と述べたのは、一体いつのことだっただろうか?
自然に口をついて出た言葉だけれど、それ故に違和感も胸に残る。
僕はそんなに寂しい人間だったのだろうか? そんなぼんやりしたことを考えながら、僕は自席、廊下側の真ん中あたりの席に腰を下ろした。
※
放課後。
いつもは物静かな里香が、さらに隠密性を帯びて教室後方を横切っていくのを、僕は目にした。カタツムリを連想させる、のろのろとした歩みだ。
跳びあがるほどの勢いでラジオの修理を請け負ったのだから、早く分解修理に取りかかるため、足早に去ってしまうと思っていたのだけれど。
もしかしたら、単に慎重にラジオを運びたいだけなのかもしれない。外は猛暑なので、熱波でラジオが壊れてしまわないか、僕は少し心配だった。まあ、そのあたりは里香の方がよほど専門家なわけだし、下手な横槍は入れないでおくか。
僕が廊下に出ようとすると、
「おう、竜太!」
この陽気な声は……。
「や、やあ、篤くん」
僕は不器用に笑みを浮かべて振り返った。
「なあ、今朝のあれは何だったんだ? 柏木と一緒に来たかと思ったら、牧山さんと何やら盛り上がって……」
「え? えーっとあれは……」
まさか『亡くなった祖父の願いを叶えるため、ラジオの修理を頼んだ』と正直に答えるわけにはいかない。
「お前も隅に置けねえなあ! 柏木と牧山さんの二人を相手に、あんなに楽しそうに話すなんて、羨ましいぜ!」
「え?」
「おいおい、『え?』じゃねえだろうよ。しっかりしてくれ」
また僕の肩を叩いてくる篤。そんな彼の言葉の中で、二ヶ所ほど僕には引っ掛かる部分があった。
一つ目は、篤が珍しく他人、すなわち里香のことを名字で、しかもさん付けで呼んでいること。まあ、流石にあまり喋ったこともない女子を、突然ファーストネームで呼び捨てにすることには抵抗があったのだろう。
そして二つ目は――こちらの方がよほど重要なのだが――、
「あの、篤くん、僕が楽しそうに見えたって?」
「ああ! 心底嬉しそうだったぞ」
そ、そうなのか? 僕は慣れないコミュニケーション体験を経て、ずっと緊張しっぱなしだったという自覚しかないけれど。
「かあー、両手に華とは、お前も変わったなあ、竜太!」
「い、いや、そんな……」
すると、篤は後ろからやってきた運動部の男子たちに混じって僕の前から立ち去った。『じゃあな! また明日!』という爽やかな挨拶も忘れない。
取り残された僕は、教室の隅に引っ込んで考えた。
ふむ。僕は二人の女子と会話をして、楽しそうだったのか。この部分だけ考えるとなんだか下心があるような気がする……。が、他人との交流が上手くいったらしい、という事実は確定的だ。
「よく分かんないな……」
そう呟きながら、僕は鞄を持って教室を出た。
それは、教室を出て数歩も歩かない位置にあった。ケバケバしい三原色に白黒から成る、でかいポスターが昇降口の前に貼られていた。放課後になって、すぐに貼りつけられたのだろう。
「何だこりゃ」
僕は足を止め、数秒間そのポスターに見入った。何が描いてあるかは、正直分からない。抽象画というやつだろうか。
その数秒間。僅か数秒間が、僕にとっては致命的だった。
「ハ~イ、そこの純真ボーイ!」
声のした方を振り返る。するとそこには、なんとも奇妙な格好の人間が腰をくねらせて僕を見つめていた。僕は慌てて周囲を見回し、それから『僕?』と尋ねる意味合いで自分を指差してみた。するとその奇妙な人間は『そうとも!』と頷きながら、
「キミ、美術に興味があるのか~い?」
と言いながら近づいてきた。
長身痩躯。丸眼鏡。リーゼントで固めた、いかにも一昔前の不良っぽい髪型。ちゃんとした服装をしていれば――そして黙っていれば――、それなりにいい顔つきをしているのだろう。
しかし、顔の右半分が極彩色と言ってもいいペイントが施され、イケメン度を著しくダウンさせている。ポケットの両側からは、ジャラジャラとチェーンがぶら下がっており、シャツは白ではなく、こちらも派手だった。形だけ見るとこの高校の夏服だが、きっと絵具の跳ねた跡なのだろう。
と、いうことは。
「あの、このポスターの原画を描いたのって、あなたなんですか?」
「オウ! よく気づいてくれたネ!」
気づかれたのがよほど嬉しかったのか、その変人はドジョウ掬いのような踊りを始めた。うわあ、周囲の目が痛い。僕にとっても。
「我輩は二年C組在籍にして美術部部長、岡倉絵麻! 現代シュールレアリズムの申し子也!」
ん? この人の下の名前、『えま』っていうのか?
「えっと、失礼ですが」
「何だね、純真ボーイ?」
「あなた、女性ですか?」
すると変人はチッチッチ、と舌を鳴らしながら右手の指を立て、ゆっくりと振った。
「甘い! 甘いよキミ! 男子の制服を着ているからといって、本人が男子とは限らないんだぜ!」
「は、はあ」
僕は改めて変人、もとい岡倉先輩を頭頂から足元まで見直した。まあ言われてみれば、女性には見える。顔の左半分の柔らかな曲線など、先に注目していれば僕も岡倉先輩を『女性か?』と思っただろう。
しかし、あまりにも……。そう、夏服で男子に間違われるほど、起伏に乏しかった。一昨日出会った女神様とは雲泥の差だ。いや、これ以上は語るまい。
そう。問題はそこではない。この先輩は何故、そしてどうやって男子の制服を手に入れ、悠々と校内を闊歩しているのか、だ。
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