*32* 桜咲む夜に【R15】

 鮮やかな色彩を放つわけでも、大輪の花を開かせるわけでもない。ましてや、その生涯はまばたき程の切なさ。

 だのに、どうして人は儚い栄華を想うのだろう。

 淡い薄桃、控えめな五花弁が、他の追随を赦さず優美に咲き誇る刹那があるとすれば。


「……ほの……」

「さ……くぅ、んんっ」


 応えようとして、せり上がってきた疼きに身体が跳ねる。

 熱を逃がそうと背がしなる反動で、腕に力がこもった。


「ふふっ……どこまでもお可愛らしいですね、貴女様は」


 くすりと奏でられるのは、草笛によく似た音色。

 気だるい身体を羽毛へ埋めた穂花の頬を撫ぜながら、彼の神は可憐な姫のごとく笑む。


「うぅ……こんなの、反則だー……」

「こんなの、とは?」

「私より可愛い顔して、こんな……」


 みなまで口にすることが憚られ、代わりにたっぷりの涙を溜め込んだ琥珀の瞳で見上げても、抗議の意味を成さない。むしろ蕾がほころぶように、サクヤは破顔するのみだ。


「閨では主導権を頂きますと、申し上げましたもの。ねぇ……穂花?」

「ちょっ、さく待っ……やぁっ……!」


 穂花を立て、べにを立て、自らは多くを望まないサクヤが、兄や使い魔のいない今宵に限って、湯浴みの誘いを口にした。


 強制されたわけではない。逃げ道はきちんと用意されていた。

 しかしながら、どこか色を帯びた菫のまなざしに射抜かれ、羞恥が穂花を俯かせたのだ。


 結局身体の隅々まで清められ、長い射干玉の髪を時間をかけて拭き、梳かれた。

 この間、本来の姿へ戻っていたのは、「男だったのか」という先の失言が原因か。

 華奢な細腕に抱き上げられ、自室の布団に横たえられてからは、あまり記憶がない。


「は、は、あっ……」

「……ほのか……んっ」

「あっ、あっ……はぅぅ……!」


 ぞくぞくと下半身から這い上がる悦びに、堪らずサクヤの首へしがみつく。

 普段は幾重もの衣に隠された素肌、いまは白から桜へ淡く色づいた胸とふれあい、ふにゅり、と乙女の柔らなふくらみがかたちを変えた。


 サクヤは、己の肉欲のために穂花を抱き潰すことをしなかった。

 閨事が始まってからというもの、焦れるほどほぐされるばかりで、漸く肌を合わせたところだ。


 だがそのわずかな間に、何度も高みを見たように思う。

 一定の間隔で、ゆるゆると腰を揺すられる刺激は弱いくらいであるのに、何故。


「お忘れ、ですか。私は、貴女様を、一夜で孕ませた男ですよ」

「っあ、さく……」

「……相性が、よろしいのです。兄上よりも、オモイカネ様より、もっ……!」

「んんんっ……!」


 明らかに、動きの質が変わった。

 歓喜の悲鳴が、塞がれた口内で行き場を失くし、どちらのものともわからぬ熱い吐息に溶け消える。


 こわい、と思った。自分の腹の奥がこんなにも深いだなんて、知らなかった。逃げたくとも、容赦なく貫く熱い楔がそれを赦さない。

 紅も真知もたどり着くことが出来なかった場所に、サクヤがいる。

 その衝撃に狼狽したところで、衣擦れの響く褥の上で、意味のない母音をこぼすことしか出来ない。


 甘い香りがする。気のせいではない。

 紫紺の髪を振り乱し、熱に浮かされた菫の瞳で穂花だけを映すサクヤが、はっ、はっ……と肩で息を行う度、額から玉の汗がこぼれ落ちる。それが桜の花びらとなって、褥を彩るのだ。


「ほのか……いい、ですか……私も、そろそろ……っ」

「やぁ……んっ、さく、さく……っ」

「ほのか……っ!」


 名を呼ばれた刹那、ひときわ強く桜が香る。

 身体の芯から爆ぜる熱。真っ白に染まる思考。

 経験したことのない快楽に、ただただ絶叫した。なにもかもを解き放たれたそばから、新たな熱に満たされゆく。


「……んっ、んっ……」


 おぼろげな視界で、吐息を漏らすサクヤを認める。

 穂花の腹を満たしながら、サクヤ自身も、穂花に感じ入っていた。

 悩ましげに柳眉を潜め、頬に朱を散らしたその様の、なんと美しいことだろう。


「さ、く……」


 ――嬉しい。抱かれたことが。身体を繋げられたことが。

 言霊に出来ないほど嬉しくて、だからこそ、無性に涙があふれるのだろう。


「さく……」

「えぇ……私は、ここに」


 持ち上げることすら億劫な手を取り、指と指が絡められる。

 一分の隙もなく抱き込まれ、直にふれあった胸と胸が、とくとくと、互いの心音を伝えた。


「ずっとおそばにおりますから、安心してお休みくださいませ。穂花、私のかわいい、花妻。……愛しています」


 子守唄でも聞かされているような酷い安堵感に、抗う間もなくまぶたが下りる。

 ふわふわと夢見心地の中、最後にはらりと、またひとつ、桜が香った。




   *  *  *




 魑魅魍魎を寄せ付けぬ結界を一歩出れば、そこは無数の雨矢が降り注ぐ、深淵の夜闇。

 居住する民家から離れ、ほかに動くものはないとある高層ビルの屋上に、紅はいた。


「……はぁッ、はぁッ、はぁッ!」


 酷く息を乱し、紅と菫の瞳で、虚空を睨みつけながら。

 水気を多分に吸い込んだ紺青の衣が、重い。四肢が、重い。無機質なコンクリートに突き立てた片膝と白銀の剣に体重を預け、やっと身体を支えている状態だ。

 満身創痍の紅を繋ぎ止めるのは、狐の面を取り払った瞳に爛々と宿る、闘志のみ。


「まだ……まだじゃ……!」

「いい加減諦めたら?」


 執念とも言える闘志の炎は、冷めた一言によって一蹴される。


 紅が注視する虚空から、まだあどけなさの残る少年の声音が響く。激しく降り注ぐ風雨の音に、打ち消されることもなく。

 まるで赤子でも扱うかのような声色に、紅は散々打ち据えられ体温を奪われた身体が、カッと発火する感覚に見舞われた。


「笑止千万! このイワナガヒメを甘く見られては――!」

「はいはい、おままごとは、これくらいにしましょうね」


 淡々と紡がれる声音の向こうで、閃光がまたたき。


「――僕に勝とうなんざ、千年早いんだよ」


 照らされたのは、闇に焼きついた緋色の残像。


「……か、はっ……!?」


 まさしく、電光石火のごとし。

 己が自重を支えていたはずの剣の柄が、よもや瞬きのうちに鳩尾へ叩き込まれることになろうとは。

 紅が正しくそれを理解したか否か、たしかめる術もない。

 地に伏せられた紅を見下ろす少年――綺羅きらの背で、雷鳴が轟いた。


「はい、残念でした。また今度ね」


 事もなげに言ってのけ、玩具でも放るかのように剣を手放す。

 夜色の瞳でしばし紅を見つめたのちに、ゆるりと三日月型に弧を描く口許。

 滅多に笑みを浮かべない少年が、一歩を踏み出した、そのときだった。空を切る音が、綺羅のいた空間を夜闇ごと薙ぐ。


「っと……危ない危ない」


 軽やかに後方へ転回した綺羅は、濡れたコンクリートに、危うげなく降り立つ。

 自分がいた場所を十二分に含む軌道上で、つい先刻まで天を仰いでいた避雷針が、根元からへし折られたのを、一瞥のうちに認める。


 強いしなりと耐久性を謳うチタンが、呆気ないものだ。誰が弁償すんのコレ、と他人事のように思い、意識を背後から正面へ戻す。

 天色の鱗。鋭い二本角。とぐろを巻く長大な体躯に紅をも巻き込んだ大蛇が、常盤色の双眸で綺羅を射抜かんとしている。


「あぁ……きみか。久しぶり。昼間は挨拶出来なくてごめんね」


 悪びれもしない口調であった。

 しばしの対峙を経て、止まない雨の中で大蛇の姿が薄れる。やがて、己とそう体格も変わらない主を軽々と抱いた少年の妖が、姿を現す。


「ぬしさまに、さわらないでくれるかなぁ?」

「あれ、そんな喋り方だったっけ? 無理はよくないよ。疲れるからね」


 きょとりと、綺羅は小首を傾げる。

 途端、愛嬌のある笑みを消し去ったあおのかんばせに、明らかな嫌悪感が、惜しげもなく滲む。


「……なにしに来たの。わざわざ主様を苛めに来たわけじゃないでしょ」

「まぁね。僕がって言うより、彼が僕のことを好きだからね」

「自意識過剰じゃないの」

「残念、ただの事実だ」

「……姉様、か」


 低く唸るような呟きに、くすりと、笑みが返される。


「それは否定しない。かわいいよね、さすがお姫様。オモイカネさんがゾッコンなのもわかる」

「変な真似したら、殺すから」

「相変わらず物騒だな。それは、彼女次第とでも言っておこうか。まぁ、きみが僕に勝てるとも思えないけどね。その子も然り――あぁ、怒らない怒らない。僕も無闇に傷つけたいわけじゃないからさ、落ち着いて。じゃないと……〝本当〟のきみの気は、その子には毒だからねぇ」


 殺気を向けられて尚、流暢に紡がれる言葉が、微塵も揺るがぬ余裕が、蒼は酷く腹立たしかった。

 つくづく癪に障る男だ。昔から。


「僕はね、彼女のことをかわいいと思うよ。かわいいからこそ、優しくなんかしてやらない」

「……悪趣味」

「僕なりに色々我慢してるんだよ。むしろ褒めてほしいもんだね。だって僕が本気になったら――彼女、壊れてしまうだろう?」


 可笑しげに細まる夜色の双眸に、黄金の虹彩が煌めく。この嵐の夜に轟く、稲妻のごとく。


「先に堕ちるのは、彼女か、それとも……まぁ、楽しみに見物でもしてて。出雲いずもの君」


 常盤色の瞳が剥かれた刹那、雷鳴がつんざく。蒼を中心に巻き起こる風を、いとも容易く捩じ伏せて。


「――見くびるなよ、ひよっこが」


 低い一言は、蒼の反論を赦さず、その場へと縫い留めた。

 稲妻が、漆黒の天道を駆け巡る。

 再び訪れた闇にいくら目を凝らそうとも、あの影を認めることは出来ない。


 ……嗚呼、厭だ。

 何故、どうしてなのだろう。


「どうして……僕は、あいつに勝てないの」


 すがるように漏らした独りごちが、意識を失くした紅に届くはずもない。


「……絶対に、渡さない」


 感情論でも、理想論でもいい。

 同じ志を抱いた紅がここにいる。それだけで、蒼は蒼でいることが出来る。


「帰ろっか……姉様のところへ」


 和らいだ声音で冷たい紅の頬を撫で、非情な雨の矢から覆い隠すように、蒼は主の弛緩した身体を、しかと抱き直すのだった。

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