*23* 天裂く弓矢

 高天原たかまがはらも時分は夜。ほのは気怠い身体を動かし、書斎へと出づる。仕事を持ち帰った真知まちが、夜更けまで筆を走らせている一角である。


「――天孫降臨に至るまでのことを、教えてほしい?」


 小難しい書簡から逸らされたかんばせは、橙の仄明るい灯明に照らされ、夜闇でわずかな渋面をつくった。


「俺とそれはそれは仲睦まじく暮らしていた――だけじゃ満足出来ないか」

「思い出した記憶が断片的なの。教えてくれたら、まちくんとの想い出も蘇るんじゃないかなぁって」

「俺にもメリットがあるにはあると……おまえも口達者になったな」


 聡い真知のことだ。ふ……と口許に笑みを浮かべたところを見れば、穂花の思惑に気づいているのだろう。


「いいぜ。寝物語に昔話を聞かせてやろうか」


 硯に筆を寝かせ、椅子から腰を上げた真知は、穂花の手を引いて部屋の奥、寝室へと誘う。

 天蓋つきの寝台へ並んで腰かけたなら、ひと回りちいさな肩を抱き寄せ、体重の一部を引き取った。

 月明かりのみが射し込む部屋に、ひとときの静寂が訪れる。


あしはらのなかくには、元々イザナギとイザナミがつくった国だ。だったら、同じ天津神である自分たちが治めるべきだろうとアマテラスが言い出したのが、事の始まりだ」

「でも、なんやかんやあったんでしょ?」


 偃月の夜、曖昧にぼかされた部分へと、踏み込んでみる。


「アマテラス自身は、高天原での仕事が山積みだったからな。中津国を治める役にまずは自分の長男、オシホミミを指名した。つまりはおまえの父親だ」


 とうに腹は決めていたのか、真知は流暢に答えてゆく。


「天津神の統治案に、国津神たちがデモを起こした。だがオシホミミは下界へ降りることもなく、さっさと戻ってきたんだよ。面倒だってな。さすがボンクラ」


 聞けば高天原では、死ぬことも飢えることもないのだという。

 中津国統治と天秤にかけ、オシホミミは高天原での悠々自適な生活を選んだ。それだけのことなのだ。


「当然、言い出しっぺの馬鹿が納得しなくてな。そこで、高天原の知恵袋がお出ましってわけだ」


 早くも口調に棘が見え隠れし始めた。「こっちだって迷惑してんだよ」と嘆息していた夜のことを思い出す。


「俺はアマテラスの次男、ホヒを指名した。あいつは兄貴とちがって生真面目だったからな。中津国を譲ってもらえるよう、穏便に交渉を進めてくれるだろうと考えていたが……」

「そう上手くは行かなかったんだね」

「当時中津国を治めていた国津神たちの長、オオクニヌシの策にハマッてな。上手い口車に乗せられて、向こうに取り込まれてしまった。アマテラスの息子たちが使い物にならないと早々に踏んだ俺は、次にアメノワカヒコを指名した」

「アメノ、ワカヒコ……」


 どこか聞き憶えのある名だ。

 しばし考え、思い出す。そうだ、たしか誓約を行った偃月の夜に、真知が口にしていた。


〝アメノワカヒコの惨劇を繰り返すつもりか……〟――と。


「……いまでも、あいつには悪いことをしたと思っている。それくらい、気持ちのいい話じゃない」


 真知は口を閉ざしてしまった。

 そっと見上げれば、鼈甲の瞳が目前にじっと据えられている。それでも聞くのかという、無言の問いだ。

 穂花は息を飲み、それからうなずいた。

 ややあって、真知は重い口をこじ開ける。


「ワカヒコはアマテラスの子供でもなんでもないが、頭の切れるやつだった。アマテラスは念の為、鹿を一撃で射抜けるというあめの鹿児かごゆみあめの|波々矢(はばや)を渡して、ワカヒコを遣いにやった」


 天鹿児弓。誓約の際に紅が天から貸して頂いたと話していた、黄金の弓のことだ。真知いわく、とんでもない代物。


「国譲りの交渉に当たったワカヒコは……オオクニヌシの娘と結婚をし、中津国に住みついてしまった」

「それも、オオクニヌシさんの策にはめられて……?」


 真知は答えない。鼈甲の瞳は夜闇の虚空を見つめているようで、遠いなにかを捉えようとしている。


「……中津国へ降りてからのワカヒコの消息を、俺たちは一切知らなかった。音沙汰がないまま何年も過ぎ、不審に思った俺たちはナキという高天原の鳥を遣いにやった。そして……鳴女は胸を射抜かれた無惨な姿で、無言の帰還を果たした」

「……鳴女を射抜いたのって」

「ワカヒコだ。鳴女を射抜いた勢いもそのままに、天波々矢は高天原まで届いた。これには天津神たちも混乱したよ。あいつはなにを考えているのかってな。そこで声を上げたのは、タカミムスビだ」


 タカミムスビ。それも初耳ではない。


「タカミムスビは、天津神たちの中でも特にことあまかみといううちの一柱だ」


 元々、世界は〝神が住む世界〟〝人が住む世界〟〝死者が住む世界〟の3層に分かれていたが、その境目は明瞭でなく、混沌としていた。

 やがててんかいびゃく――3つの世界がそれとなく分かれたときに生まれたのが、別天津神なのだという。


「別天津神は世界ではじめて生まれた神たち――彼らの命によって、子供であるイザナギとイザナミが世界をかたち作り、そのまた子供であるアマテラスが治めることとなった。要するに別天津神は、イザナギ、イザナミやアマテラスよりもさらに偉い、俺たち神の最高指導者ってわけだ」

「そのタカミムスビさんが、なんて?」

「〝矢返しを〟と。もしもワカヒコが天を裏切ったのならば矢が当たるように。そうでなければ当たらぬように。誓約としてタカミムスビは矢を放った。やがて……ワカヒコを遣わした出雲いずもの方角から、彼の名を喚ぶ悲痛な女の声が、高天原に届いた

それって……」

「ワカヒコの妻だ」


 みなまで言わずとも、悲惨な結末がありありと脳裏に投影されてしまう。


「……俺は、あいつが詐欺まがいの甘言に乗せられるとも、考えなしに反抗するとも思えない」

「じゃあ、どうして……」

「ワカヒコ以前に、国譲りの交渉は幾度も失敗している。その上、養父となったオオクニヌシも親の七光りで統治者になったようなもんだ。……自分が中津国をよりよい国にしなければならないというプレッシャーが、のしかかっていたんだと思う」

「ワカヒコさんも……必死だったんだね」

「あぁ……あいつには死して涙を流してくれる家族がいた。それだけの生き方をしたってことだ。だからといって高天原を裏切っていいというわけじゃないが、俺は、ワカヒコを責める気にはなれない」


 アメノワカヒコの事件を重く見た天津神たちは、中津国平定の為、遂に武力行使へと乗り出す。

 高天原にその名を轟かせていた軍神、タケミカヅチをオオクニヌシのもとへ遣わした。

 彼の神の働きもあって、国譲りの交渉もなんとか話し合いのみで承諾を得ることが出来た。

 そして――漸く得た葦原中津国統治の権限は、アマテラスの系譜であるニニギノミコトに託されたのだという。


「これが、天孫降臨に至るまでの経緯だ」


 ……ワカヒコの死や、真知の苦悩。

 ほかにも様々な犠牲を伴って得た国を託されたのだ、ニニギじぶんは。


 ……とたんに身体が震えを刻む。呼吸が苦しくなる。

 胸を満たすのは感動とは正反対の……恐怖にも似た感情だ。


「……穂花? どうした」


 真知は目敏く異変を感じ取り、うなだれた顔を覗き込もうとする。それよりも、彼の首にしがみつくほうが早かった。


「べにが、言ってた……〝タカミムスビ様に、矢返しをお願いした〟って……それって、もし失敗したら、ワカヒコさんと同じ目に遭うってことだよね……? べにや、さくや、まちくんが、それくらい危ない勝負をしてるんだって、私、いまさらわかったの……」


 嗚咽混じりの独白を受け、ふと鼈甲の瞳が和らぐ。


「花が咲けばいいんだ。なにも心配することなんてないだろ?」


 背を撫でる手がなにを言わんとするのかは、わかっている。

 わかってはいるのだが、その印を、穂花は自分の眼で見ることが出来ない。だから不安でたまらなくなるのだ。


「俺を見くびってもらっちゃ困るな。おまえを置いて、黄泉の女王なんかと浮気するわけがあるか。おまえだけを愛してる……穂花」

「まち、くん……」

「あんまり思い詰めるな。……腹の子にまで障る」


 穂花を抱きすくめた真知は、琥珀のまなじりに溜まる雫に唇を寄せ、頬、額にもぬくもりを残してゆく。

 本当は、実際に目にした真知のほうが辛いはずなのに。

 アメノワカヒコについて話させて、泣き出すなんて、身勝手で、情けないにも程がある。


「ほら、もう寝よう。俺が傍にいる。大丈夫だ」


 それでも真知は元気付けようとしてくれる。

 軽く肩を押され、寝台に横たえられた身体は、ぱっくりと開いた傷を急速に癒やされるような感覚に戸惑い、上手く動かせない。


「ねぇ……まち、くん」

「なんだ?」


 自身も横たわりながら射干玉の髪を梳く真知の声は、この上なく優しかった。


「もうひとつだけ、おしえて……」


 もうひとつだけ、これで最後だから――

 半ば放心状態で、はて、なにを問おうとしていたのだったか。


「まちくんの……まちくんは……」


 言葉はどこだ、どこへやったか?

 虚空を引っ掻いて、はたと見つける。

 そうだ……最後に訊きたかったことは。


 ――まちくんの花は、なんだった?


 思い出しただけで、ついぞ声には出来なかった。

 だから真知も、薄く頬笑むのみだったのだと、そう思う。

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