*29* 届かぬ喚び声
「考え事は終いか」
淡泊な言の葉に、意識を引き戻される。
上座にて、ひと言投げかけるのみでこちらを
もともと、話に花が咲くような気の置けない仲ではない。
居間にニ柱残されてからは、こんな仏頂面とにらめっこをするより、かわいらしい妻を愛でるほうが有意義だと、自分の世界に入り込んだ
「……よりにもよって、どうしてあんなことを」
「いま最高に不細工な面してるぞ、おまえ」
「それはご忠告どうも」
いつもならば文句のひとつやふたつおまけしてやるのだが、その気力すら、いまの紅は惜しかった。
しばしの間物思いにふけっていただけであるのに、悪夢を見たように心の臓がさわぎ、すこぶる気分が悪い。
未練でも在るというのか。
たしかに、何千年も何千年も、彼女だけを想っていた。
だが、嫉妬に狂い、堕ちた己を救ってくれたのは、彼女の魂を宿しただけの、
神というには平凡で、よく笑い、いっしょになって泣いてくれる少女が、いつしか紅にとっての唯一無二となった。
「穂花は……わたし共には勿体ないですな」
わたし「共」とひと括りにされ、真知とて異議申し立てがなかったわけではない。
が、虚空をさまよう感傷的な紅玉に、湯飲みの底を卓上に押しつけるだけで留まる。
「わたしにとって、穂花のすべては是です。あの方がなさること、望まれることに、否などという選択肢は存在しない」
紅は独白する。行儀よく膝の上でそろえた手で、紺青の裾を握りしめながら。
「ですが穂花は……存在自体が是です。欲にまみれたわたしの罪でさえ、穂花の前ではたやすく赦されてしまう」
つと、真知は鼈甲の視線のみを紅にやる。
そうして気づく。うつむいた華奢な神の肩を、いまにも押し潰さんとするものに。
「弟を殺し続けたわたしが、赦される筈がない……では、此処に在る幸福はなんなのでしょうか?」
そ……と左手がふれたまぶたの下に在るは、紅蓮。血に染まった瞳。
父に施された呪い。彼女に褒められた誇り。
「穢れたわたしが愛しても良いのか……時折、わからなくなるのです」
「……まぁ、あいつの底なしな優しさにはしょっちゅう困らされてるし、心配なとこでもあるがな」
真知が同意を示すのは同然のことだ。
白菊が咲いたことで――もう伯父ではなく、夫として。
「いざ手に入れてみると、どう接していいか戸惑うのもわかる。また俺が不甲斐ない所為で傷つけたり、壊してしまうんじゃないか……ってな。だからいまここにいんだよ、俺は」
「では、サクヤに預けてから、一度も穂花をごらんになられないのは」
「無理させちまった手前、これでも反省してんだよ。子作りはちゃんと同意を得てからする」
「本当に反省していらっしゃいますか?」
「まぁ御託はこのくらいにして。つまりはだな――俺は穂花に生かされた。だったら、この命を穂花に捧げてなにが悪い、ってことだ」
水を打ったような静けさに、凛然たる言の葉が響き渡る。
真正面から見据える鼈甲のまなざしに、頬をはたかれたような気分だった。
「愛しても良いのかじゃない、愛すんだ。これまで穂花に与えた苦痛や恐怖をぜんぶ塗り替えるくらい、愛してみせろ。途中で投げ出すことは赦さん。言っとくが俺は、おまえが穂花の純潔を奪ったこと、いつまででも根に持ってるからな」
ニニギの純潔を奪った張本人が、よくもまぁ言えたものだ。
乾いた笑いとともに、胸のわだかまりが出てゆくのがわかる。
……お互いさま、というやつだ。
「ありがとうございます、オモイカネ殿」
「よーしわかった、表へ出な…………は?」
てっきり喧嘩を売られると踏んでいた真知は、意外や意外なひと言で、あっけに取られる。
「おまえ……マジで言ってんのか?」
「まじ、というやつです。どなた様かの所為でここのところ穂花がかまってくださらないので、紅は寂しくてたまらなかった次第なのですよ」
「あーハイハイ、それが愚痴った理由な。いつも通りの
「どうやらサクヤは帰るつもりのようですし、今宵はわたしが穂花と」
「安静にっつってんだろうが。手ぇ出したら叩っ斬る」
「厭ですな。介抱ついでに、添い寝させて頂くだけですぞ?」
そう、添い寝だけでも良い。
なにも問わず、優しいその心のまま、気づかないふりで。
「さて、時分は逢魔ヶ時もよいところです。優良な学生殿は、どうぞご自宅で勉学に励まれませ?」
「揺るぎない皮肉がいっそ清々しいぜ」
嘆息しつつも、異論はないらしい。真知は思いのほか素直に座布団から腰を浮かせる。
「明日から数日間は穂花を休ませろ。テスト勉強は、去年の俺のノートを貸してやるから心配するなと伝えておけ。あとはおまえが
「かしこまりまして」
若草色の衣を羽織り直した真知が人の目に視えるはずもないが、見送るのが礼儀だと、紅も次いで腰を浮かせる。
「あぁそれと――例のモノだが。さすがの俺も少し手間取る。質は保証するが、ほかは目をつむれよ」
「ご助力、痛み入ります」
このときばかりは、素直に腰を折った。
自分が勝手に頼んだこと。だから余計な気を遣わせるつもりはない。穂花にも、サクヤにも。
「ぬしさま、たいへーん!」
そんな声が聞こえてきたのは、真知に連れ立ち、玄関へ向かおうとしたまさにそのときだ。
パタパタと廊下を駆け、天色の使い魔が姿を現す。
「何事じゃ、
「あのね、ねーさまのようすがね……って、わぁ! ぬしさま、おーさま!?」
穂花の世話を任されていた蒼。その蒼が大変の次に穂花と続けたとなれば、真知と紅はそろって血相を変える。
居間を駆け出すのは、両者同時だった。
行儀など気にせず、鶯張りの廊下を一心不乱に駆け抜ける。
「「穂花!」」
病人が床に臥せっていることは百も承知で、ふすまを開け放った。
すぐさま部屋を満たす神気の異常な流れに気づき、口許を袖で覆う。
なんだこれは。酔ってしまいそうなほど、濃い――
「兄上、オモイカネ様……」
控えめな声音が響いた。サクヤだ。布団のそばに座り、困惑の菫をこちらに向けている。理由は、すぐにわかった。
「あらお兄様、ヒメ。いらっしゃい」
「な……っ」
「そんな……」
白と赤の上衣に、橙の袴で繕われた巫女装束を身にまとい、ぴんと背を伸ばして布団に座る面影は、普段見慣れた少女のものと同じで、ちがう。
「ニニギ、様……?」
呆然とこぼれたつぶやきに、ふわりと咲く笑顔の花。
まさか、信じられない。
何千年と繋いできた魂は、たしかに彼女のもの。だが、彼女が彼女たるには不充分な、欠けた宝玉に等しかった。
どの少女も彼女の記憶を思い出すことは叶わなかった。ゆえに、紅は身が焼き切れるほどのもどかしさを味わってきたのだ。
真知にとっても衝撃的な出来事であったようで、入口で立ちすくんだままそろって絶句するニ柱に、彼の神は告げる。
「なんちゃって」
「…………は?」
「驚かせてごめんね。いやー、起きておったまげたのよ私も。寝苦しいと思ったら、パジャマがこんな着物になってて」
「おまえ……ニニギじゃないな。…………穂花、か?」
「そうそう! こんな姿だけど、ほのちゃんでーす。ってあれあれ、紅さん、まちくん? 人の顔見てなにため息ついてるんですか」
「穂花じゃ……」
「まごうことなき、穂花だな……」
「だからほのちゃんだってばー!」
頬をふくらませるニニギ――否、穂花は、紅と真知の嘆息が呆れではなく安堵によるものだとは、思いもしないのだろう。
ひとまず、命に関わるような一大事ではないと悟った紅と真知は、サクヤにならい布団のそばまでやってくると、それぞれ膝を折り、胡座をかいた。
「どこかお加減の悪いところは、ございませんか?」
「不調どころか絶好調よ。熱っぽかったのがウソみたいに、身体が軽いの!」
「たしかに、すさまじい神気だな」
先程の発言から察するに、どうして異変が起こったのか、穂花自身も見当がつかない様子だ。
この短期間に自分と真知の神気をあふれんばかりに注がれ、穂花の体内で言わば喧嘩したような状況だ。
不安定ゆえに、なにが起こっても不思議ではない、と紅は結論づける。
「とりあえず、その神気をしまえ。無駄に垂れ流してるとまた身体壊すぞ」
「えっ無理、やり方わかんない。さっきまでごく普通の女子高生だった私にそんな無茶振りするほど鬼畜だったんですか、まちさん」
「結界でも張っとくか……」
早々に諦めた真知は、瞬時に次なる打開策を打ち出す。
幸い「俺の本業はデスクワークだ」と言い張るだけあって、そういった呪術の知識や技術に長けている。
ここは真知に任せるが最善だと、紅も納得していた。
「これでめでたく、帰れなくなっちまったわけだな」
「あっ、まちくん泊まりがけ? お泊まり会みたいで楽しそうだねー!」
「はしゃぐな病人」
ぴしゃりと叱りつけた真知の、「今夜は寝ずの番か……」というぼやきは、おそらく舞い上がった穂花の耳には届いていないだろう。
調子に乗った罰だと、紅としては内心思いこそすれ、口には出さなかった。
「サクヤ、おまえはどうする」
「お赦しを頂けるのであれば、私も穂花のおそばにいさせてください。心配でたまらないのです……」
「……サクヤ?」
想いびとの身を案じるのは道理。しかしサクヤのそれは、真知のものとはまるでちがう。
切迫し、なにかを思い詰めたようであるのは、〝思い当たる節があるから〟だ。
その旨を何故兄にも話さないのか、紅にはわからない。
しかし問い詰めたところで、余人の目があるこの場では、余計にはぐらかされるだけだろう。
――折りを見て。釈然としないながらも、紅の中ではいったん決着した。
「あーっ、ねーさまのおせわ、あおのおしごとなのに! とっちゃダメ~っ!」
遅れて部屋に駆け込んできたらしい蒼が、そのまま穂花の胸許へ飛び込む。
「おーよしよし。蒼はホントに頑張りやさんだねぇ」
「ねーさまのためだもんっ!」
かねてより天真爛漫な蒼が、ふにゃりと頬をゆるませて穂花にすり寄る。そんな光景はいままでに何度も目にしたはずで、なんら不思議はない。
不思議はない、が……妙な違和感を覚える。
蒼の行動には、主である自分が根底にあったはず。ぬしさまだから。ぬしさまのため。そう言って蒼は、紅の言いつけを固く守ってきた。
それが、今日に限っては――
「……穂花の、香りがする」
信頼を置いた妖が、無断でつまみ喰いをするなという言いつけを破るはずがない。
けれども、蒼から穂花の神気がかすかに漂っていることも事実で。
これは、主従の契りを交わした紅だからこそやっと気づくことのできた、本当に些細な異変。
けれども、穏やかな性分であるにも関わらず、険しい面持ちで蒼を見据えるサクヤが、なんらかの理由でその事実を知ったものだとするなら……すべてのつじつまが合うのだ。
「……蒼」
祈るように喚んだ名はしかし、妖には届かなかった。
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