*28* 凍りつく夕炎

 

「ニニギ様、ニニギ様――」


 軽やかな旋律が、まだらに夕照の降り注ぐ木陰を流る。

 新たにあつらえた紅の衣にはどうも慣れず、気を抜けば裾を踏んでしまいそうになる。

 それでも躍る胸を抑えられず、浮き足だった脚で駆けるのを止められない。


「ニニギ様! こちらにいらしたのですね」


 想い焦がれた相手は、やはり邸近くの森を散策していた。

 高千穂の地、自分の庭も同然のこの森で彼の神気を探り当てることなど、造作もない。

 花でも摘んでいたのだろうか。膝を折っていたそのひとは、自分の喚び掛けに身じろぐ。

 彼女の長い射干玉の髪は美しくてとても好きだけれど、背中をすっぽりと覆ったそれがいまはひどく恨めしい。

 隠さないで。早く見せて。そのかんばせを……


「……どちらさまですか?」


 そよ風とともに振り向いた想いびとの言の葉に、びくり、と肩が跳ねる。

 寂しく思った。そして仕様がないか、とも。


「大変失礼いたしました。突然こんな姿でお目にかかっては、驚かれてしまいますよね」


 非礼を詫びたあとは、行儀よく手と手をそろえ、ふわりと花の頬笑みをほころばせる。


「わたくしです――イワナガヒメでございます」


 するとどうだろう。自分を映した琥珀の双眸が、にわかに見開かれる。

 とっておきのいたずらを成功させたように嬉しくなって、翠の髪をなびかせながら、無邪気に駆け寄った。


「ニニギ様……嗚呼、夢みたい。貴女様の御背中に、腕を回せる日が来るなんて」

「……ヒメ、あなたなの?」

「はい、ニニギ様のヒメです。貴女様の為だけを想って、わたし、がんばったんですよ」


 こうしてぬくもりを感じていると、あぁ駄目だ、たまらなくなって頬をすり寄せてしまう。これでは猫ではないか。

 この身体はもう、わらわではないというのに。


「また無茶を……」

「とんでもございません! 偶然見つけた妖に、余分な神気を与えただけです。なにも不都合はありません。むしろ、好都合です。あの身体では、貴女様を満足に抱きしめることもできませんでしたもの」


 鈴のようだわ、もっと鳴らして頂戴と、彼女が好いた声は、ひと回り低い旋律しか紡げなくなった。

 しかしながら、彼女を見つめる視界は、うんと高くなった。

 このときを、どれほど待ち焦がれていたことか。


「家事も、教養も、剣も、一生懸命学びました。貴女様の伴侶と名乗るにふさわしい身体も手に入れました。ですから、わたしを片時も離さず、おそばに侍らせてくださいませね。ずっと、ずっと――」


 自分が進んで永久を乞うとすれば、ただひとつのねがいのみ。それ以外はなにも要りはしないから。


「――イワナガヒメ」


 うなずいてくれるはずだった。平生のようにあたたかく、頭をなでてくれながら。

 だが耳に届いたのはやわらかな渾名ではなく、張り詰めた真名だ。

 愛するひとの一挙手一投足は余すところなく目に焼きつけている自分も、このときだけは、彼女の表情をうかがうことができなかった。


「いい加減にして頂戴」


 ……ただ、凍えるほど美しいかんばせを隠した宵闇の向こうで、目を貫くような紅蓮の夕陽が燃え盛っていたことだけは、憶えている。

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