*27* 鶯の鳴く夕
「――ということで、大事を取って、
時分は黄昏時。淡く茜を帯びた居間にて、三柱が膝をつき合わせている。
腕組みをして耳を傾けていたそのうちの一柱、知恵の神たる青年が、神妙な面持ちで口を開く。
「成程、ついに俺の子が出来たか」
「黙らっしゃい。そのお耳は飾りなのですか? 穂花は疲労の為に休養なされているのです。どなた様の所為かは知りませぬがな」
すぐさま異議を申し立てる草笛の音色。容赦なくねめつける紅玉を見据え、
「
「連日のようにところ構わず求めるような節操なしには言われたくありませぬな。発情期の雄犬じゃあるまいに」
「あ? おまえこそこの数千年かけて何千回と抱いてきたんだろうが。よく言うぜ」
「失礼な。わたしを孕ませたがりのケダモノとでもお思いか。きちんと愛を込めて、百八回です!」
「煩悩の数じゃねぇか!」
「愛の数です!」
「ドヤるな!」
「兄上、オモイカネ様、どうかお静かに……! 穂花が起きてしまいます」
サクヤの仲裁を受け、渋々引き下がる両者。穂花という単語に弱いのは、総じて然りらしい。
「オモイカネ殿の花が咲いたのならば、あとはサクヤのみですな。この点については、心配は無用でしょうが」
「そう……でしょうか?」
別段驚いた様子もなく真知が無言の同意を示す最中、瞳を白黒させたのは、サクヤ本人である。
「まだおまえが穂花と出会って間もなかったころ、少なくとも
「それが、俺と穂花が想いを交わして
「五分咲き……」
「元々ニニギ様の夫であったのは、この中でおまえのみじゃ。穂花もおまえに心を赦しておられる」
「男女の契りなくしてこれなら、じきに花も満開になるだろう」
誓約は成功する。
事実上、二柱の太鼓判を得た神は、しかし声をあげて喜ぶ真似はしない。
「……
むしろ声をひそめ、脈絡もなく、まるでうわ言のように
「サクヤ……?」
「……いえ。穂花のように可愛らしい妻を頂けるとなると、朔馬もさぞ喜ぶだろうと思いまして」
ふわりと花の頬笑みを浮かべ、そっと腰を上げるサクヤ。その拍子に桜が仄かに香る。
「じきに宵ですし、そろそろおいとま致しましょう。最後に、穂花の寝顔を見て参りますね」
華やかな笑顔も、洗練された辞儀も、見慣れたサクヤのそれだ。
足音もなく退室した桜の衣が見えなくなると、居間に静寂の帳が舞い降りる。
「〝喜ぶだろう〟……か」
先ほどの発言を繰り返してみせた真知は、ふいに、茜の射す庭へと鼈甲の視線を飛ばす。
「その朔馬は、いつ目を覚ますのか――」
真知でさえ気づいた。ならば、紅が弟の異変を見逃すはずもない。
「サクヤ……もしやおまえは、なにか大切なことを隠しているのではあるまいな……?」
しかしながら、これまでの仕打ちを思い出せば、無遠慮に問い詰められる身でもない。
それでも、兄としてただ心配に思うことだけは、赦されるだろうか。
* * *
居間で神たちが話し合いを開いている間、穂花の付き添いを任ぜられていたのは、主から絶対的な信頼を得ている妖である。
「ねーさま……つらい?」
「なんかね、ずっと気だるいっていうか……まちくんの赤ちゃんが出来たとか、そういうのでは断じてなくてね」
言うなれば、風邪の症状にも似ている。
真知に高天原へ連れて行かれた数日間も、目に見えて食欲が湧かなかった。
飢えることはないと聞いていたが、それは飢えを感じないということではない。
神々が住まう天界は恵みの楽園。草花は美しく咲き誇り、一晩で成る作物が枯れることはない。
食べるものに困らないという点で、〝飢えることはない〟のだ。
つまり、連日のごとく頭を悩ませる身体の異変は、生まれながらにして飢えを感じない紅とはちがい、穂花にとって不調を如実に物語るものというわけだ。
「さくは、そんなに心配しなくても大丈夫って言ってたし……」
生命を司るサクヤのことだ。万が一死に関わるようなことがあれば、気づくはず。
そのサクヤが心配ないと話すのだから、せいぜい質の悪い風邪なんだろうと、結局は最初の答えにたどり着く。
「がっこう、あしたはお休みしたほうがいいかもって、ぬしさまが言ってたよ」
「えぇ~! もうすぐテストがあるのになぁ……!」
「受けていない授業分は俺が教えてやる、だから休め」と真知なら言うだろう。
真知の気遣いは嬉しい。だが神の恩恵を受けて良い成績を残しても、嬉しくはない。
いまはただ、現代日本に生きる女子高生に過ぎないのだから、ありのままで勝負したかったのだ。
「ねーさま、はやくげんきになりたいよね……」
「ホントそれです……」
「じゃあ、あおがげんきにしてあげるっ!」
布団のそばで寄り添ってくれていた
怪力ゆえ家事など細かい作業を苦手としているが、これまでも蒼なりの考えで穂花の力になろうと努力していた。
のどかな昼下がりに添い寝した日には、すこぶる癒やされたものだ。
思い出すだけで頬笑ましくなる蒼の行動は、今日に限って、どこかちがっていた。
「あのね、ねーさまがつらいのはね、かみさまのちからがわーっ! ってなってるからかもって、ぬしさまが言ってた」
「神様の、力……?」
「うんうん。ぬしさまと、おーさまのちからがわーっ! ってなって、ねーさまにこんがらがっちゃってるの!」
おーさまというのは、真知のこと。オモイカネだからだという安直な名づけだ。蒼に悪気はない。
ところで、無邪気にとんでもないことを言われたような気がする。
紅と真知の神気が体内に在るのは事実だ。つまり、あふれんばかりの愛情とともにそれを注がれた夜のことを、蒼も理解しているということで……
言動は幼くとも、紅とともに数千年を生きてきた妖なのだと、改めて思い知らされる。
「原因は、なんとなくわかったけど……それから、どうするの?」
不調の原因が紅と真知の神気ならば、たしかに過度な心配をする必要はない。
が、それをどうにかしてみせると胸を張る蒼を前に、どうしても疑問が生まれてしまう。
同じ神ならまだしも、蒼は妖なのだから。
「かんたんだよ! からまっちゃってるの、あおがぜんぶたべてあげる!」
「あ……そっか。蒼はそれが出来るもんね」
神気を原動力とする蒼は、普段は紅から力を得ている。
勿論すべて平らげてしまっては、紅がひとたまりもない。必要な神気を、必要なだけ取り出す。その術が蒼にはある。
「でも、大丈夫?」
穂花を渋らせるのは、勝手につまみ食いをするなと蒼を叱りつけていた、いつかの紅だ。
「ねーさまのことたのまれてるから、だいじょうぶ!」
返ってきたのはまばゆい笑顔。
主に良く従う蒼だ。これ以上気を揉むのも杞憂であろう。
「じゃあ……おねがいしてもいい?」
以前のように頬を舐められると思うと気恥ずかしいが、純粋無垢な蒼に下心はない。幼い子供とのたわむれと思えば、なんのことはないだろう。
「うんっ、わかった!」
にっこりと笑みを見せて、腰を浮かせる蒼。
おもむろに膝立ちで移動した先は――穂花の、上。
「…………うん?」
体重をかけ、見下ろしてくる様は、もしかしなくても自分に跨がっているのだろうか。
蒼のことだから、変な真似はしない……と思いたい穂花だが、この体勢はいささか穏やかでない。
「えっと……」
「だいじょうぶ、ぬしさまとおんなじように、いたくしないからね!」
だからね、と言いかけた蒼は、ふいに穂花へ顔を寄せ、
「ねーさまは、じっとしてて……?」
いつもより半音低い声音と同時に、さらりと、長髪が頬をくすぐる。
蒼の肩から滑り落ちてきた天色に隠され、表情をうかがうことは出来ない。
「うん、そう……いいこ」
動かないというよりは、動けないといったほうが正しい。
蒼が理解していたかは定かではないが、天色の髪から煌めく常盤色の瞳が覗いたとき――それは起きた。
「……っん」
唇と唇が重なる。
自分はいま、蒼に口付けを落とされているのだ。
「――ッ!?」
木葉がふれあうように優しげなものだったが、徐々にすきまをなくしていき、物凄い力で身体を引き寄せられているような感覚に陥る。
実際は、唾液をすすられているだけ。だが、ともすれば魂までも抜き取られてしまいそうな勢いに、とっさに襟首をつかんだ手が爪を立てた。
「……んっ……」
くぐもったうめき声が口内で消える。
どうすれば良いのかわからない身体を抱きすくめられ、頭をなでられる。大丈夫、大丈夫……と。
「……はぁっ!」
ようやく解放されたのもつかの間。酸素が供給されることを喜ぶよりも先に、強烈な睡魔が襲う。
とろんとしたまぶたが閉じる様を、常盤の双眸がとらえた。
「ねーさま、かわいい……」
「……〝あおのねーさま〟がもどってくるまで、もうちょっと」
くすりと笑みを漏らした妖は、最後にいま一度顔を寄せ――
「だいすき」
三日月型に曲がった唇で、桃色のそれを食んだ。
* * *
足取りは、お世辞にも軽いとは言えない。
思案の海底に深く沈み込んだサクヤを、ひときわ高く鳴いた鶯張りの廊下が引き上げる。
「あっ、さーさまだ~!」
前方からひらひらと手を振るのは、蒼だ。
「……穂花はどうしたのです? おまえは兄上から、付き添いを命じられていたはずでしょう」
「だいじょうぶ~」
答えになっていない。言葉に不自由な妖ゆえ、致し方ないことではあるが。
軽やかに歩んでくる蒼に、ひとつ苦笑。
――そして、失笑する。
そう……軽やかに歩んでいるのだ。ひとの姿に不馴れなはずの蒼が。
「蒼……おまえ」
声を強ばらせたサクヤをすり抜け、はたと止まる足。
風も吹かない中、妖の形をした影が揺らめく。
「――姉様なら部屋にいるよ。ご挨拶したほうがいいんじゃない?」
ゆらりと振り返った常盤色の瞳には、妖しげな輝き。
ろくに考えるまでもなく、駆け出していた。
木板の鶯が、忙しく鳴く。
「穂花っ……穂花!!」
桜の衣を振り乱して向かった先は、不気味なほどに静まり返っていた。
嫌な胸騒ぎがする。
突き破るようにふすまを開け放ったサクヤの目前に、飛び込んできた光景は――
「あらあら。賑やかなお客様ですこと」
――時が止まった。
これは、夢か幻なのだろうか。
「まるで幽霊でも見るような眼ね。無理もないけれど」
聞き慣れた少女の声音ながら、その落ち着きようは平生とはちがう。
「久しぶりね。こちらにいらっしゃい。お話ししましょう?」
――確信した。
夢でも幻でもない。
やかましいほどに脈打つ自身の鼓動が、そう告げていた。
「ニニギ、様……」
絞り出した声は掠れて、静寂に消えゆく。
それも満足げにとらえ、目前の神は美しく、花のように頬笑んだ。
「会いたかったわ、サクヤ」
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