*26* 白き星見草

「死なせないから、絶対……!」


 彼女はそう言って、嘘つきな大馬鹿者を見逃してはくれなかった。

 無鉄砲で危なっかしくて。嗚呼、この子はやはり自分が愛した少女にちがいないと、滲んだ視界に笑いが漏れる。

 身体を抱きしめて離さない細腕に、酷く安堵した。

 そして気づく。自分はただ、少女に愛されたかったのだ――と。




  *  *  *




「まーちーくーん!」


 意識を引き戻す声は、突然だ。

 まぶたを持ち上げれば、琥珀の瞳に涙を溜めたほのが、自分の下から恨めしげな視線を寄越していた。

 ふわふわと浮いた意識から記憶を手繰り寄せ、真知まちは穂花とふたりきりで過ごす休み時間の最中であることを思い出す。

 そしてまずいな、とも。夢中になった末、あまりの気持ち良さに、理性を手放してしまっていたらしい。


「悪い、穂花があんまりにもかわいいから」

「もうっ、ところ構わず襲わないでください! ここ学校なんだからね!?」


 もしかしなくとも、誰かに目撃されることを危ぶんでいるのだろう。

 自分としてもせっかくの愛の営みを邪魔されるのはごめんだ。その点に関しては出入り口に術を施すなど充分な配慮を行った上で、事に及んでいるのだが。


「悪いって。いつもより無理させたかもしれない。背中、痛くないか?」

「うっ……うぅう~!」


 一応ブレザーのジャケットを敷いているものの、硬い木机との満足な緩衝材というには力不足だったはずだ。

 純粋に身を案じての発言だったのだが、穂花は唇を引き結び、なにやらうなり声を上げ始める。


「そうやって優しくして、ごまかそうっていっても無駄なんですからねっ!」


 はだけたブラウスの前を掻き合わせて、ふいとそっぽを向く仕草の、なんとかわいらしいこと。

 叱られているのに愛しさばかりがあふれてしまう自分は、いよいよ末期なのかもしれない。


「穂花、背中見せてみろ」

「い・や・です! 容態確認を装ってそのまま2回戦突入とか、たまったもんじゃないんだからね!」

「あ、それいいな」

「余計な入れ知恵しちゃった!?」

「よし穂花、選ばせてやる。このまま大人しく背中を見せるか、それとも反抗してまた俺に抱かれるか」

「どっち選んでも私にメリットなくない!?」


 真知を論破することは至難の業と踏んだ穂花は、「好きにして……」と白旗をあげることで被害を最小限に食い止めることにした。

 対して上手く丸め込むことに成功した真知は、普段ならば仏頂面が張り付いたかんばせを楽しげに歪めている。

 穂花の肩を抱き、机から起こすと、器用な手つきで後ろを向かせながら再びブラウスを脱がせる。

 羞恥からか、穂花は首を縮めたまま、微動だにしなかった。

 やがて現れた白い素肌に劣情を煽られる真知であるが、心を鬼にして視線を走らせるのみに留まる。


「よし。赤くなったり、擦り傷ができてたりしてないな――」


 早々に終えて、ブラウスを着せてやるつもりだった。

 しかしながら、上機嫌な真知が呼吸を止める。


「……まちくん?」


 不思議に思った穂花が首だけ振り返れば、驚愕に見開かれた鼈甲の視線が、己の背の一点に注がれていることに気づく。


「……嘘、だろ」


 声を震わせた真知が、頭を抱える。信じられないとでもいうように。

 自分の背に在るもの。真知の心を掻き乱すそれは、ひとつしかない。

 ……頼りなく揺らめく鼈甲に、戦慄した。


「あの、まちくん……」

「……く……」

「え……?」

「……きくだ」


 ――キクダ。

 なにを言われたのかわからず、呆けることしかできない。

 そんな穂花へ、なにかを堪えるような沈黙の後、真知は口を開く。


「菊だ。ここに在る花は――白菊だ」

「き、く……」

「あぁ、蕾じゃない……咲いてるんだ。俺の花が……っ!」


 花が、咲いた。

 脳内で繰り返し、やっと理解したとき、穂花の身体は反転させられるところで。


「穂花……っ!」


 一瞬だけ仰ぎ見た真知は、涙を流していただろうか。

 痛いくらいに抱きしめられ、確認する術はないけれど。


「ありがとう、ほのか……ありがとう」


 ……否。これほどまでに声を震わせては、確認するまでもなかろう。


「あーもうふざけんな……好きだばか……」


 予想外の展開に、訳がわからなくなっているようだ。語彙をどこかへ置いてきた真知がおかしくて、つい笑ってしまう。


「私も好きだよ……まちくん」


 ――すぐ後悔することになるとは、つゆ知らず。


「夢じゃ、ないんだよな……」

「うん、好き」

「っ……俺のほうが好きだばか。結婚しよう」

「うんうん…………ん?」

「いや無理だ、待てない。まず襲う。そして俺の子孕んで結婚してくれ」

「順番おかしくないですか!?」

「穂花、愛してる……っ!」

「ぎゃ――――っ!!」


 良かれと思ってかけた言葉が、まさか真知に火をつけてしまうだなんて。

 頬を朱に染めた真知に押し倒されながら、ふと壁にかけられた時計を見やる。

 色んな意味で泣きたくなった穂花は、半ば諦めに入りつつ、瞳を閉じた。




  *  *  *




 恋は盲目。時には人を狂わせるというが、神も例外ではなかったらしい。


「もー決めた。まちくんとは、しばらく口聞いてあげない!」


 穂花が目を覚ましたとき、昼休みはとうの昔に終わっていた。開口一番にこれなのだから、もし真知本人が耳にしていたら、卒倒していただろう。


「穂花がかわいすぎるから、というのは、わからないでもありませんが」

「まちくんに感化されちゃダメ! 純粋なままのさくでいて!」


 空き教室からところ変わり、保健室へと居場所を移した穂花。どうやら気を失ったところを、真知に送り届けられたようだ。

 どこかの神とはちがい、真面目に勤務していたサクヤ――ここではさく――は、なにを言わずとも察し、預かった穂花を献身的に看病してくれていたとのことだ。


「お加減は如何ですか?」

「んー……あっちこっち痛いけど、まぁそれだけだし」

「申し訳ありません……私に癒やしの力があれば、すぐにでも苦痛を取り除いてさし上げられるのですが」

「なんていい子なの……っ! いいのよさく、気にしないで!」

「そう言って頂けますと、嬉しいです……」


 今の発言だけで9割方は回復した。あおと同じく、もはやサクヤは、存在自体が癒やしなのである。


「あまりにもお辛いようであれば、ご自宅までお送りしましょうか? それとも、兄上をお喚びして――」

「いやいやべにさんの手を煩わせるほどじゃないですホントに!」


 仮に満身創痍のまま紅を喚んだとしよう。惨状を目の当たりにした彼の神ならば、黒い笑みを浮かべて真知へ特攻しかねない。最悪、校舎が消し炭になる。


「そうですか……担任の先生には連絡してありますので、ゆっくりお休みになられてくださいね。あぁそうだ、少しお待ち頂けますか?」


 思い出したように言い残し、一旦ベッドを離れる白衣姿。

 奥のほうでカチャ、と陶器のふれあう音が聞こえたかと思えば、仄かな甘い香りと共に、青年が戻り来る。その手には、ひとり分のティーセットが。


「そろそろお目覚めになると思って、ご用意したんです。よろしければどうぞ」

「ありがとう! ……わ、桜の花びらが浮かんでる!」

「桜の紅茶です。最近のお気に入りなんです」


 さすが桜の神。元々整った顔立ちではにかむものだから、蕾がほころぶ様を彷彿とさせ、言葉を忘れて魅入ってしまう。


「……穂花? どうかなされましたか?」

「あっ……なんでもないよ! いただきまーす!」


 きょとんと首をかしげられ、ごまかすようにカップへ口をつける。

 ほんのり甘い味は好みのど真ん中であるはずだが、ふいに香った桜に、思考が固まって。

 嚥下し、身体を巡る香りは、さながら目前の彼に隅々まで満たされているようで……なんて。

 なにを馬鹿げたことを考えているのだか。

 一度抱かれた身で、また別のひとに満たされゆく感覚で赤面するなど。節操なしにも程があるではなかろうか。

 いや、真知以前にサクヤとは夫婦なのだから、別段おかしくないことなのだろうか……?

 考えるほどに泥沼にはまってしまう。

 抜け出すことに意識を割いていた穂花は、気づかなかった。

 つと、サクヤが笑みをひそめたことを。


「……穂花」


 うん、なに? と聞き返すことすら叶わず。

 ふわりと風が吹き、ひときわ強い桜が香る。

 ――唇を覆うのは、彼の神のそれだろうか。

 そよ風のように優しくふれ、サクヤはもう一度笑みをほころばせる。


「この身体でふれるのは、はじめてですね」

「さ、く……」

「ふふっ……穂花がどうも上の空でしたから、かまってほしくなったんです」


 サクヤは冗談めかすけれど、とたんにばつが悪くなる。

 ……そうだ。自分はサクヤと夜を共にする約束をしたのに、反故にしたまま、真知と身体を重ねていたのだ。


「蕾を花開かせるのに、必要な時間でした。私は、どなた様も咎めるつもりはございません」


 負い目は見透かされて、すぐさま先回りをされてしまう。


「こんな私を、貴女様は聖者だとお思いですか?」


 その問い方は言外に告げている。ちがうのだ、と。

 恐る恐る見つめ返しながら続きを促す穂花へ、サクヤは桜の袖を伸ばす。


「兄上とオモイカネ様の花が咲いたのならば、残るは私の蕾のみ……これで、貴女様を独り占めできますね」


 なんて、と冗談めかしつつも、菫の双眸には期待の色がにじんでいる。


「えっと、さく……」

「ご安心ください。無体を強いる真似は致しません。ですから」


 ふわりと頬笑み、言葉を切ったサクヤは、ふいに穂花へ身を寄せる。


「――私にも貴女様の夫であるという矜持がございますことだけは、御心にお留め置きくださいね?」


 女人と見まごう花のかんばせで囁かれた声音は、低い。

 耳朶からじかに痺れさせられ、桜の甘い香りに、刹那のうちに酔わせられたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る