*25* 神代の契り
――外面のいい社交辞令などというものは、遥か昔、神代の時代から、すでに始まっていたのかもしれない。
「お言葉の通り、神託を致しましたところ、見事豊作に恵まれました」
或る日。
「あの村が田に引いていた川の水は、作物には向かない。少し手間がかかるが、裏山の湧水に変えたほうが、作物との相性が良かったからな」
「ほう、左様でございましたか! いやはや、流石オモイカネ様でございます!」
書簡へ署名を記す視界に、大げさな賛美を行う神の仕草がちらつく。
たったひと言ふた言がオモイカネの筆を鈍らせ、滲み模様を作ったことを、件の神のみぞ知らぬ。
「……水の質が良くなっても、適度に雨が降らなければ、結局は作物も育たん」
「ご心配は無用でございます。彼の地は毎年必ず雨の降りますところ。不作の要因がわかりましたことですし、我が領地も安泰ですな。はっは!」
自分は知恵の神であるが、並々ならぬ疑問が生まれる。
この世に絶対などない。声高々と断言できる理由を是非とも教授してもらいものだと、素直に感じた。無意味なこととは、内心悟りつつも。
……自分は憎たらしいほどに聡明であったから、知っていたのだ。
「ご多忙の折りに、大変失礼致しました。それでは、これにて」
好好爺の笑みを浮かべて腰も低く退室した神が、
「……ふぅ、かなわんなぁ。あのように無愛想な方のお相手は、骨が折れる」
……と、扉の板一枚を隔てた向こう側で、なにを言っているのかも。
初めてのことではない。いまさら口うるさく追及するつもりもない。
自分のことよりも真っ先に、声を上げたかったことがあるとするならば。
「……テメェの領地だろうが。自分を崇めてくれる人間くらい自分で守れよ、阿呆が」
このように聞くに耐えない、罵倒のような言葉のみだ。
「おじさま?」
完全に油断していた。
卓上に肘をつき、眉間に指を当てて嘆息していたオモイカネは、弾かれたように返り見る。
椅子に腰かけた自分よりも低い位置から見上げる、くりくりとした大粒の琥珀は、いつからそこにあったのだろう。
「こら。お兄様と喚べお兄様と」
「おにいさま」
「よし、いい子だ」
本気で叱りつけているわけもない。オモイカネは筆を寝かせた硯やら書簡やらを卓上の隅に追いやると、かたわらの幼子をひょいと抱き上げ、膝に乗せる。
「どうしたニニギ。もう昼寝はおしまいか?」
平生ならば奥の部屋で眠りこけているはずの姪が、何故今日に限って起き出してきたのか。表面には出さないが、オモイカネは気もそぞろであった。
「おにいさま、ねよ?」
「またおねむか。まぁ、寝る子は育つって言うしな」
悪いが、もう少し待っていてくれと、普段の余裕でいなすつもりだった。
「……おにいさま」
「今度はなん、」
「ていっ!」
「ってぇ!」
見誤った。直前まで大人しく腕におさまっていた幼子に、よもや強襲を見舞われるとは。
ジンと滲む痛みにそろそろとまぶたを持ち上げれば、眉間をはたいた手もそのままに、ニニギは瞳を潤ませていた。
「わたし、あそびつかれちゃった。でも、ねたらげんきになったよ。だから、おにいさまもねるの!」
「おまえ……」
口をひん曲げて駄々をこねるニニギが、なにを言いたいのか。理解したオモイカネは、たまらずちいさな身体を掻き抱いた。
「……敵わないな」
「おにいさま、おしごとしすぎちゃうから、わたしがみててあげるの!」
「あぁ……ニニギ、ありがとな」
この子はまだ生まれたばかりであるが、ほかのどの神よりも、自分を見ていてくれる。
「今日の仕事は終わりだ。いっしょに寝るか」
「えへへ~」
ふにゃあとはにかむ笑顔が、たまらなく愛おしい。体内に増大したわだかまりが、みるみるうちにほどかれゆく。
「……俺は、おまえがいなきゃ駄目だな」
はじめは、使命感から引き受けた親代わりだった。
だけれども、たとえ妹や義弟が遊びをやめて帰って来たとしても、この腕の中にあるぬくもりを返すつもりには到底なれない。
それほどまでに、実の姪を愛してしまっていたのだ。
* * *
それから、穏やかな月日が流れた。
最愛の姪と過ごす優しい日常は、慌ただしい足音によって断ち切られる。
「どうかお助けください、オモイカネ様……!」
いつだったか、不作の相談に邸を訪れていた天津神であった。
彼の神が話すには、こうだ。
オモイカネの助言もそのままに神託を授けたところ、はじめの数十年こそ豊作に恵まれていた。
しかしながら、近年どうも五行の流れがおかしいのだという。
夏は干ばつに見舞われ、当然のごとく秋は不作。追い討ちをかけるように冬は謎の疫病が流行り、あれほど栄えていた村が壊滅寸前なのだ、と。
オモイカネは持ち得る限りの知恵を総動員した。
やがて、思い当たった節に落胆する。
勿論、高天原の頭脳たる自分が情けない様を見せるわけにはいかない。
飲み水は一度火にかけて飲むこと。残り少ない食糧をなんとか工面して隣村に分け与えることを、天津神に伝えた。
「オモイカネ様……! 村に雨が降りました。謎の疫病もおさまりつつあります。ありがとうございます、ありがとうございます……!」
額を大理石の床に擦り付けんばかりの報告を聞くのは、そう遅くなかった。
そうか、良かったなと、オモイカネは多くを語ることなく、天津神を帰した。
嵐が去り、部屋が静寂に包み込まれると、大きな嘆息を漏らしながら椅子の背にもたれ込む。
「お茶を淹れましょうか」
「……ニニギ」
見計らったかのような声かけだった。ならば、一連の顛末は知れていることだろう。
「いや、いい。……こっちに来てくれ」
茶を淹れる為にニニギがこの場を離れたら。今度こそ気がどうにかなってしまいそうだった。
それほどまでに追い詰められ、一刻も早く慰めを欲していたのだ。自分は。
席を立ったオモイカネの後を追い、ニニギは長椅子に腰掛ける。
数十年の時を経て、澄んだ琥珀には知的な輝きが宿り、じっと育ての親を映し込んでいた。
「此度の災厄は、神によるものですね」
そのひと言で、観念しなければならない旨を理解する。
「あぁ……隣村で崇められている、ヒデリカミによるものだ。元々、あの天津神が崇められている村に反感があったようだが……」
「お兄様が助言なさった村――とても賑わっていたようですね。毎年の収穫の季節は特に」
「そうだな……よそを省みらずに騒ぎ明かした結果が、これだ」
「謎の疫病も?」
「干ばつの余波によるものだ。不作の所為で、山奥に住むキツネが飲み食いに困って村へ下りてきた。そのキツネが病原体を持っていてな」
「なんとか蓄えていた井戸水に、病の種をまいたということですね」
干ばつを引き起こしたヒデリカミを罰することができるなら、どんなに良いことだろう。
それが素晴らしくお門違いであるから、こんなにも頭を悩ませているのだ。
「……俺があのとき、忠告をしていれば」
思い出されるのは、意気揚々と邸を去る背中をただ見送った、数十年前の愚かな自分だ。
「助言をしたって、新たに病にかかるのを予防するに留まるだけだ。治療法なんてない。死んでいった命は戻らない……これから死にゆく命も……」
病が予防され、病にかかった者がいなくなれば、結果として健康な村人が残る。ゆえに〝病がおさまりつつある〟のだ。
「俺は、知っていたのに……俺なら、食い止められたのに……俺の所為で、罪のない人々を黄泉に行かせてしまった……」
情けない言葉であることは百も承知だ。
その上で、うなだれたオモイカネのかんばせに、そっとふれる手がある。
「ごめんなさい」
「……なんでおまえが謝る」
「私は慰めるばかりで、それ以上のお力になってあげられませんでしたから……お兄様が悩まれているのを誰よりも近くで目にしていながら、なにもできなかった私にも、責任があります」
そんなことはない。自分が本音を吐露するのはニニギだけ。ニニギが傍にいてくれるだけで、どれほどささくれた心を洗われたことか。
ニニギがいれば充分だと続けようとした言葉は、突然の告白によって奪われる。
「もう、お兄様だけに辛い思いはさせません。――私は、中津国へ参ります」
「おまえっ……!」
「件の村も、元は国津神であるヒデリカミが治めていた領地ですよね? 天津神の非による災厄ならば、天孫である私も無関係ではありません」
「だから詫びに行くと? 駄目だ!」
「お兄様」
「おまえは世間知らずの箱入り娘なんだぞ。俺が大事に大事に育てた、俺の……たいせつな……」
「……お兄様」
「……おまえが、ワカヒコみたいなことになったら……俺はもう、生きていけない……っ」
高天原では死ねないから、自ら黄泉へ赴くことになるぞ。脅しまがいの懇願さえも、澄んだ琥珀には見透かされていた。
「アメノワカヒコ様の事件があって、お兄様が国津神相手に事を荒立てたくないお気持ちもわかります。ですが、このままいたずらに時を過ごしていても、天と国の溝は埋まりません。……誰かがゆかねばならないのです」
「ニニギッ!!」
落ち着きなど、とうの昔にかなぐり捨てていた。
長椅子に、射干玉の艶髪が散らばる。
強引に組み敷かれたニニギは、厭がるのではなく、ただただ寂しげな表情でオモイカネを見上げていた。
「私は、哀しそうなお兄様を見ると、哀しくなります……」
「……っ」
「私を、哀しませないで頂けますか?」
「……その言い方は、卑怯だろ」
自分は親代わりだと言い聞かせていた日々は、どこへ。
こんなにも聡明に、気高くなった少女を、どうして子供扱いできようか。
「……なら、俺も行く。俺たちはずっといっしょだから……なぁ、ニニギ……?」
「んっ……」
淡く桃色に色づいた唇を啄む。
幾度となく食みながら、襟元からまさぐるように着物を乱しゆく。
「おにいさま…………あっ、んっ……!」
細腕が首へ絡められたのを合図に、剥き出しの胸許へ噛みついた。
いつだったか。姪を異性としてでしか見ることができなくなったのは。
いつだったか。我慢ならず、なにも知らない彼女を抱いた夜は。
……もう何度目だろう。こうして肌を重ねるのは。
甘く抜ける嬌声を耳にする度、そうした思考も煩わしくなる。
そして理性などというものは、衣と共に早々に脱ぎ捨ててしまった。
「ニニギ……俺はずっと傍にいて、おまえだけを愛してる。俺が守る。約束だ」
ニニギがいない世界など、恐ろしくて考えられない。
――独りにしないでくれ。
――誰の元にも行かないでくれ。
飲み込んだ子供のような我儘は、聞こえるはずもない。
「……ありがとうございます、お兄様」
だからこそ、どこか哀しげに頬笑んだ琥珀にぎくりとしてしまったのも、気のせいだ。
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