*30* 滲む水無月

 近頃、そこそこに驚いた話をしよう。


 水無月とは、読んで字の如く水の無い月ではなかったらしい。まぁ現在の暦においても梅雨に当てはまるため、水ないことないよね? と素朴な疑問をこぼしたのが、事の始まりだ。


 或る神は説いた。水無月ないし神無月とは、本来〝水の月〟や、〝神の月〟という意味でございます、と。

 てっきり打ち消しだと思い込んでいた〝無〟の役割が、〝の〟の意味を表す連体助詞だったと……あぁ、頭痛が痛い。漢文はそういったトラップがありがちだ。次の定期考査は大丈夫だろうか。


 やはり、授業を長らく休むのは危険である。たとえ知恵の神の加護があろうとも。神社で学業成就のお守りを買う以前に、ご利益のほうから嬉々としてやってくるとしても。


「嗚呼、なんと殊勝な御方か……修羅の道を御自らお進みなさらずとも、よろしかろうに……」

「いーえ、どこかのべにさんがなんと言おうが今日こそは学校行きますので、わっかりやすい泣き真似やめなさい、そこ」


 さめざめと口許を覆う少年の神は、紺青の袖より覗かせた三日月形の唇で、草笛の音色を震わせる。

 

「すっかりお元気になられて、安心致しましたぞ。看病も悪くはありませんでしたが、やはりいつものほのが、紅は一番でございますれば」


 そうと語った面持ちに、揶揄からかいの色はなかった。

 平素は重力の洗練をものともせず、ふわりと宙を漂っている桜霞の領巾で紺青の上衣にたすき掛けをした紅は、数回廻した急須を傾ける。


 お気に入りの白磁の湯飲みから、香ばしい香りが広がった。慣れた手つきで差し出されたそれを両手で包み込めば、手のひらのぬくもりにほう……とため息が漏れる。

 食後の一服まで、紅の給仕には非の打ちどころがない。長年連れ添った妻かと錯覚さえするほどだ。


「そりゃあねぇ、元気なのに家に引きこもってるほうが、気が滅入っちゃうよ。毎日じめじめしてるし、世の中も仄暗いし!」


 穂花が言を荒らげる理由は、肌にべったりと張りつくような湿気にまみれた日々だ。ここに、朝はなんとなく垂れ流しているニュースの、あまり喜ばしくない案件も加算されよう。

 小学校で飼っていたウサギが何者かによって等――みなまで言わないが。朝っぱらからやめてほしい。


 一変して、可愛らしい女性アナウンサーは溌剌とサッカー日本代表の一大ニュースを報じる。

 下手な大根役者ならば楽々打ち負かせるであろう声音の変貌ぶり。拡大紙面を挟んだ隣の男性アナウンサーやコメンテーターたちの関心も、そちらに集中した。

 まるで、先刻までのことがなかったかのようなスタジオの雰囲気に、世間の闇を垣間見た気分だ。


「そうですな。人の世に暗雲が立ち込めているのは、なにも昨日今日始まったことではございませぬ」

「何気にディスるのやめて?」

「はは、物は考えようです。雲が晴れないのならば、いっそ蛙の気持ちにでもなられては如何か?」


 なんと脈絡のないことを言うのだろうか。

 眉間にしわを寄せて見やった穂花に、紅は頬笑み、上へ向けた手のひらでそっと庭を指した。


「あっめ、あっめ、ぴっちゃ、ぴっちゃ、ぱっしゃ、ぱしゃ~♪」


 するとどうだろう。いつもはもう少し寝ているはずの妖が、傘も差さずに庭へと下りて行くところではないか。


 天色の髪や薄紫の着物が濡れることも厭わず、むしろ裸足で水溜まりへ踏み入り、鼻歌混じりに飛沫を跳ねさせている。幼子のようにはしゃぐ様たるや、まさに水を得た魚の如し。



  *  *  * 



 さぁさぁ、と。


 葉桜を散らした霧雨が、まだ目覚めきれない街を鈍色に滲ませる。

 桃色に、水色に。淡く色づく紫陽花の通学路にて透明な傘を花開かせた穂花のかたわらに、影がひとつ、ふたつ。


「寒くない? もっとこっち来ていいよ、さく」

「穂花はお優しいですね。では……お言葉に甘えまして」


 花のかんばせをほころばせて、可憐な神がぴたりと肩を寄せてきた。

 普段控えめなサクヤであるだけに、素直に甘えられる今朝は、なんだかこそばゆかった。照れ隠しに、一歩先ではしゃぐ蒼へと視線をやる。


 登校する穂花に付き添うのは、サクヤと蒼。朝食時に姿の見えなかったサクヤは、本日の勤務の支度をしていたらしい。

 いまこうして神体でいるのは、さくと登校するとあらぬ誤解を招きかねないという、配慮のためだ。


「不思議だね。まちくんは学校に馴染んでるけど、さくたちは普通の人には見えないなんて」

「神体を宿す朔馬のような魂依代があれば、神も常人の目にふれることができます。ただ、オモイカネ様は優れた神気をお持ちでいらっしゃいますので、器がなくとも人の姿を模すことが可能なのです」

「へぇ、まちくんってやっぱすごいんだぁ……」

「えぇ。天津神様の中でも、特に高位の方々しか成し得ぬ業です」


 その真知は、なにやら用事ができたとかで、昨日から高天原へ戻っている。「あの馬鹿が……」と渋い顔で漏らしていたから、おそらくアマテラス関連のことだろう。


 人の目にふれないのをよいことに、いつもならそばを離れない紅も、今朝に限っては穂花の供を弟と使い魔に譲った。

 真知同様に用事ができたと。なんでも、昔お世話になった方に会いに行くのだとか。


「いやぁ、紅もまちくんも、人付き合い? 神付き合い? があっていいよね。私も友達作らなきゃ……切実に……」

「あおがいるよっ! ねーさまっ!」


 心優しい神や妖が元気づけてくれるけれど、人間社会という枠組みの中では、圧倒的弱者に分類される自分だ。己のためにも、心を鬼にして臨むべし。


「私は貴女様の伴侶でございますので、友にはなれませんが……」

「そ、そうだね」

「及ばずながら応援していますよ、穂花」

「もう、その気持ちだけで充分! ありがとう、さく!」


 曇天の下で、いじらしい桜の蕾は花開く。


 どこか寂しげな声音は、しとしとと降り続く雨音がくぐもらせていった。



  *  *  *



 友達がほしい。ぼっちダメ、ゼッタイ。


 望んで集団の輪を外れたわけではない穂花なだけに、渇望したその機会がよもや唐突に訪れるなど、予想できるはずもなく。


「ねーえ、葦原あしはらさーん」


 授業終了と共に昼休みの開始を、チャイムが告げる。

 梅雨という時期に見合い、ガラス一枚を隔てた向こう側は、正しく雨。

 いつものように屋上へ向かえるはずもなく、紅手製の重箱を抱え、自身の席でさてどうしたのもかと頭をも抱えていたとき、鼻にかかったような声に名前を呼ばれた。


 胸を躍らせたのも束の間、即座に現実へと引き戻される。正面に立ってにこにこと浮かべられる笑みに、見覚えがありすぎて。


「あのね、今日の放課後なんだけどぉ」


 ランチのお誘いであるわけがなかった。


 提出物の集配? 係の雑用?

 委員会の仕事で、図書委員オススメの一冊の紹介文を代筆したこともある。

 ちなみに穂花は美化委員だ。新しく花瓶に生けたい花だとか、掃除用具の不備に関する相談なら、喜んで承りたい。


「ごめんなさい……放課後は、用事があって」


 友達はほしい。ほしいけれど……〝こういうもの〟は、友達とは呼ばない。

 声は少し震えてしまったけれど、いつの日か紅に気づかされた真実に、勇気を持って向き合ってみた。


「あーね……」


 たった一言。その調子は、段違いに低音を紡いだ。

 役立たずめと、女子生徒の表情は物語っている。


 困ったときは任せて! とたしかに見栄を張ったけれど、あなたの大事な用事っていうのは、〝友達〟とのカラオケじゃない、ショッピングじゃない。


 いっそ叫んでしまいたかったが、軋む胸を押さえ、乾いた笑みを張りつける癖から簡単に抜け出せそうにない。


「葦原さんってさ、たか先生と仲いいよね」


 そんな中、突拍子もなく振られた話題に、反応が遅れてしまう。


「……そう、かな」


 サクヤとは夫婦だが、教師と生徒という立場上、十二分に身を弁えているつもりだ。それは、サクヤも同じはず。


「だって葦原さん、入学してから一度も欠席したことなかったのに、最近保健室に行ったり、休みがちだよね?」


 そりゃ、色々色々あったんですって。


 ちょっと大人の階段を上らされたり、神様の世界に拉致られましたなんて事実を打ち明けたところで、電波だのなんだの言われている自分の頭上にアンテナが増えるだけである。


 サクヤが赴任してきた時期と同じくして、穂花が保健室に入り浸るようになった。彼女にとって重要なのは、その一点のみだ。


 利用できないと知れたら、あっという間に手のひらを返す。人間、とりわけ女という生き物ほど恐ろしいものを、穂花は知らなかった。


「――ねーさまイジメたら、あおがゆるさない」


 ゆらりと、影がかかる。

 背後から首に両腕を回し、穂花を抱きしめるように目前の女子生徒を睨みつけているであろう蒼の声音は、温度が違った。


 見えるわけがない。聞こえるわけがない。しかしながら、侮蔑を浮かべていた表情が、一瞬にして凍りつく。


「……あ、ぅ……」


 いけない、これは。


 蒼から滲み出る怒気、膨れ上がる妖気に、少なからずあてられてしまったのだろう。

 人の目に見えぬとて、まったく力のない妖ではない。むしろ、紅の神気を糧に、妖の中でも力を持つ蒼だ。人間に干渉できたとして、不思議ではない。


「……蒼、私は大丈夫だから、駄目だよ」

「…………」

「蒼……!」


 なにも知らないクラスメイトたちの談笑を脅かさない最小にして最大の声音で、蒼を呼ぶ。

 だが、返事はない。瞳孔の開ききった常磐色で、女子生徒を容赦なく貫くのみ。


 紅の言いつけもあり、滅多なことでは他者を傷つけない蒼が、こんなにも激昂するなんて……


 その事実に戸惑い、止めなければと思考すれども、ぎゅうと締めつけられる苦しさに、なにより己の無力さに、視界がぼやけてしまう。


「あの、退いてくれるかな」


 切迫した状況下で、ふいの一言が穂花の意識を引き戻す。

 聞き覚えのない、声。

 ようやく焦点の合ったその先に、少年が、ひとり。


「っえ……」

「そっち、僕の席だから」


 呆然と立ち尽くす女子生徒を押しやるようにして、少年は狭い教室の通路を突き進む。


 見るも鮮やかな、緋色の猫っ毛。学校指定のグレーチェックのネクタイを締めてはいるが、ジャケットではなく、深藍のパーカーに身を包み、肩に引っかけているのはスクールバッグ。

 いままさに登校してきましたと言わんばかりの少年がたどり着いたのは、くしくも、穂花の左隣、教室最奥にある、窓際の席だった。


「あ……雨宮あめみやくん」


 ほぼうわ言のようにこぼされた女子生徒の言葉を、心の中で輪唱する。しかし、胸に広がった違和感は拭いきれない。


「楽しいおしゃべりもいいけど、あっちのオトモダチが寂しがってるよ。早く行ってあげたら?」


 スクールバッグを机に下ろし、気だるげな声色はそのままに、女子生徒を見やった瞳。


 目を、奪われた。同年代の男子と比べてもあどけない顔つきにそぐわぬ大粒の双眸は、夜の色をしていて……その中に、なにもかもを見透かしたような、月色の虹彩が煌めいていて。


「リカー! なにしてんの、昼休み終わっちゃうよー!」

「……あっ、うん、いま行くっ!」


 教室の入り口で呼びかける女子生徒は、他クラスの友人だろうか。

 弾かれたように我に返った彼女は、穂花たちには目もくれず、そそくさと駆け寄って行ってしまった。


 嘆息が聞こえ、椅子の引かれる音。

 思わず視線を向けたときすでに、雨宮と呼ばれた少年は、つまらなさそうに頬杖をついていた。


「きみさ」

「……え、あ、はい……?」

「嫌なら嫌って、はっきり言いなよ」


 それができたら苦労はないんだけど……


 釈然としない気持ちもありはしたが、もしかして、彼は見かねて自分を助けてくれたのでは……? そう考えると、あれほど張り詰めた胸の緊張が、一気にほぐれるようだった。


「えっと……ありがとう、雨宮、くん?」


 そっとお礼を口に出せば、ふいと顔を背けられてしまう。少年が相対するガラスはあいにく曇っていて、その表情を映し出してはくれない。


 だけれども、何故か……何故なのかはわからないが、拒絶ではなく、受け入れられているような感覚が、胸を占めていた。


 人知れず頬笑んだ穂花は知らない。いつしか黙りこくった蒼が、驚愕の面持ちで少年を見つめていたこと。少年との出会いが、大きな転機となることを。

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