*31* 水垂れ咲く

 あと少し。もう少し。

 たっぷり十を数えて、白く煙る湯気の中へおたまを投入。

 小皿に取った出汁をひと思いに煽れば、熱いくらいのそれが、するりと喉を滑り落ちる。

 後を追うように、らいという味蕾を刺激した旨味が広がり、じんわりと芯から温まる感覚に、ほのは唸りにも似た感嘆を漏らす。


「うん、完璧。煮込んだだけですけど」


 さすが我が葦原あしはら家にて、永久食事当番に名乗りを上げているべにお手製料理である。


 帰宅した穂花を出迎えたのは、異様な静寂だった。そういえば、今日の帰りは遅くなるやもしれないと、紅が話していたことを思い出す。

 制服から部屋着に着替え、ひとまず向かった居間の食卓には、案の定書き置きがあった。


 一体いつの時代のものかと問いたくなるミミズのような墨文字が、さらさらと並んでいる。

 読めるわけがない。ただ、達筆であることは雰囲気でわかる。

 現代女子高生へ足を突っ込んだばかりの穂花に解読できるはずがないのだが、不思議なことに、その文面へ指先をふれさせると、視界から得た文字が脳内で変換されるのだ。


〝夕餉の下拵えは済ませてありますので、よく温めてお召し上がりくださいませ。食後の甘味もご用意してございます〟


 そうして、神様はなんでもありだなぁと苦笑しながら、台所へと赴いた次第だ。

 苦などあろうはずもなく、おしまいにコンロの火を消した静けさに、ふと強くなった雨風の音が耳に届く。

 外とを隔てている玄関の引き戸が、開けられたらしかった。


 紅が帰ってきたのだろうか。

 手早く洗った手指の水分をハンドタオルで拭き取り、台所を後にする。


「穂花!」


 だけれど、暖簾を潜るやいなや穂花を絡め取ったのは、華奢ながらも、彼の神よりも上背のある影であった。


「わっ……どうしたの、さく!」

「それは私の台詞ですよ。放課後はいつも保健室に寄ってくださるのに、今日は〝先に帰る〟との連絡だけ……なにかあったのかと、心配したんですよ」


 苦しいほどに自分を掻き抱くのは、麗しき美青年だ。勤務が終わったその足で、真っ先に駆けつけたと見える。


 さくとして人間社会を生きるサクヤは、仕事をする上でも必要不可欠な文明の利器を使いこなしている。

 真知まち同様に連絡先を交換したのは、当然の流れでもあった。


 あんなことがあった直後だ、何食わぬ顔で保健室を訪問するのも気が引けて、当たり障りのない一言をトーク画面に送信したのだが、やはり役者不足は否定できなかったらしい。


「ご気分が優れないのですか? 私に遠慮など不要なのですから、なんでもお申しつけ頂ければ……」

「だ、大丈夫大丈夫! 私は元気いっぱい! ほらっ、こんな天気だしね、あんまり遅くなると駄目だって、紅さんからも言われてますからねっ!」


 それらしい理由を並べ立て、表情筋を総動員して浮かべた笑みでサクヤの胸を押し返す。

 嘘は言っていない。訊かれないために多くを語らないだけで。


「……兄上はまだお戻りではないのですか? あおは?」


 穂花の言葉を咀嚼し、平静を取り戻したか。一通り辺りを見回したサクヤが、潜めた声音で問うてくる。

 神体のときと変わらぬ菫の双眸に、ともすればすべてを見透かされてしまいそうで。


「やっぱり遅くなるみたい。天気も崩れてきたし、心配だからちょっと様子見てくるって、蒼が」

「穂花をひとり残して?」

「なにかあったらすぐ呼んでねって言ってたし、そもそも家にいる限り安全じゃないかな。まちくんが結界張ってくれてるし!」


 なんでも、むやみやたら神気を垂れ流せば、疲弊するだけでなく、甘い蜜に誘われた魑魅魍魎が押し寄せてきたりと、至極面倒くさいらしい。

 説教のような口調で、声音は優しく、懇切丁寧に教えてもらった。

 かくして術の扱いに長けた真知が、神気の扱いに慣れない穂花のため、この家全体を覆う結界を張ったのは、記憶に新しい。


「家にひとりなのは、怖くないけど、寂しいからさ、まぁその……さくが来てくれたのは嬉しかったかな。せっかくだから、いっしょにご飯食べようよ。ちょうど準備できたところなの! 今夜は紅特製水炊きだよ、あったまるよ~!」

「……そうですね。ごいっしょさせて頂きましょう」


 紅の手料理だからか。それとも、穂花をひとり残して帰ることが躊躇われたか。


 きっとどちらもだろう。


 姿は違えど桜の神。ふわりとほころんだ笑顔の蕾は、乙女の視線を奪うものとして、充分すぎた。




  *  *  *




「んん~! 米団子もっちもち! お豆腐ほろほろ~!」

「肌寒い日に、お鍋は嬉しいですね」

「ねー! 鶏のお出汁がしっかりしてるから、なにもつけなくてもいけちゃうし」

「穂花、こちらのぽん酢に柚子胡椒を合わせて頂いても、美味しいですよ。刻み生姜もいっしょにお召し上がりになると、身体も温まります」

「あれ、さくさんは天才かな……」


 そんなの絶対美味しいに決まっている。


 確信を持って、柚子胡椒入りぽん酢へひたひたに纏わせた白菜を口に運ぶ。

 じゅわりと広がる鶏出汁の旨味。ピリッと効いた柚子胡椒に、鼻腔へ広がる生姜の香り。


 もちろん、撃沈した。相も変わらず、紅の手料理は穂花の胃袋を掴んで離さない。

 筍も、エリンギも、鶏肉も、出汁がしっかり沁みていて、頬が落ちるかと思った。

 デザートに用意されたきなこの黒蜜がけ葛きりに至るまで、文句のつけどころがなかった。


「ご馳走さまでした。後片付けのほうは、私がしますね」

「あっ、気を遣わなくていいよいいよー!」

「穂花には支度をして頂きましたから。私が、したいんです」

「じゃあ……洗うのだけお願いしようかな。私が拭いて片付けるから」


 それでしたら、とサクヤも承知したようだ。柔和な笑みでひょいと土鍋を取り上げた細腕にぎょっとしたのち、穂花も重ねた食器たちを抱えて、青年の背中を追う。


 ワイシャツの袖を捲り、蛇口をひねった手は、まだあどけなさが残る少年のものとは違い、しなやかながらも筋張っていて。

 手際よく食器が洗われてゆく様を、呆けたように眺めることしかできない。


「さくってさ……今日は、朔馬先生なんだね?」

「えぇ。だいぶ神気も馴染みましたので神体でもよろしいのですが、こちらのほうがなにかと作業がしやすいですから」

「そりゃそうだ」


 サクヤの、コノハナサクヤヒメの姿を思い出し、すぐさま納得する。たしかに、あのお姫様然とした着物姿での家事はやりづらそうだ。


「この姿が、どうかなされましたか?」

「いや……なんか、男のひとなんだなぁって、思って」

「穂花……朔馬でなくとも、私は男ですよ」


 虚を、衝かれた。

 失言だったかもしれない。どんなにサクヤが可憐な少女に似た見目をしていても、己は男であると、夫であると、再三告げていただろうに。


「あのっ、変な意味じゃないんだよ!? なんか周りに綺麗なひとが多いから、女として立つ瀬がなくなってきたというか……紅とか、さくとか、蒼とか……」


 雨宮あめみやくん、とか。

 苦し紛れの言い訳の最中、何故だか今日初対面であったはずの少年が脳裏をよぎる。

 たしかに、繊細な顔つきをしていたが、こんなときにいくらなんでも。


「……雨宮、とは、どなたでしょう」


 なんと。まさかとは思うがそのまさか。飲み込んだはずの名前を、結局は口に出してしまっていたようだ。

 いつの間にか手を止めたサクヤが、疑問の色を含んだ菫の瞳を向ける。


「えっとね、雨宮くんは、私のクラスメイトでね!」


 今日、突然に穂花の前へ現れた彼は、流れ雲のように掴みどころのない少年であった。

 下の名前は綺羅きら。身体が弱く、入学当初から休みがちであったらしい。休みがち、というのは、まったく登校していなかったわけではない事実を、暗に示している。


 そもそも、自分の隣席が不自然に空いていれば疑問に思いそうなものを。友のいない高校生活というものに、それほどいっぱいいっぱいだったのか。

 自分だけ取り残されたような昼休みの喧騒で、しかしひとつだけわかったことがある。


 おずおずと質問を投げかけた穂花に身の上話を述べたのは、ほかでもない綺羅自身であった。

 淡々と素っ気ない調子だけれど、穂花の言葉を遮ることはしない。必ず返答をする。


 先の女子生徒との間に割り入ってくれたこともある、もしかすれば、そんなに怖い人ではないのかもしれない。それが、第一印象に次ぐ綺羅の印象であった。

 頬杖をついて曇りガラスに視線を置いたまま、ついぞ、顔を合わせてくれることはなかったけれど。


「その雨宮という彼が、穂花の御心を砕いたのでしょうか」

「へっ? いやっ、ほんと変な意味じゃなくてね!? あんまり話したことないし、単純に綺麗な子だなって思っただけだから!」


 両手を振り、躍起になって否定している時点で、サクヤに核心をつかれているわけなのだが……穂花自身、どうして綺羅のことが思い浮かんだのか、見当もつかない。


「……これは、私の独り言なのですが」

「うん……?」

「いま穂花と話しているのは私なのですから、あまり妬かせないでください……」


 伏せられた横顔は、さらりと滑った菫色の絹髪に隠されて、窺うことはできない。

 自分はどうやら、また間違えたらしい。

 サクヤは優しいからと、甘えすぎた。


 しばしの沈黙が下り、その合間に食器の洗浄が済む。

 しかし穂花が口を挟む間もなく水分を拭き取られ、サクヤによって棚へしまわれてゆく。


「穂花」


 名を呼ばれても、申し訳なさから顔を上げられそうにない。

 俯く左の頬に、それでも添えられるぬくもりがある。


「穂花、私は怒ってはいませんよ。少し、寂しいだけなんです」

「え……」


 思いのほか優しい声音に、引き寄せられる。菫の瞳が、自分だけを映している。


「今宵は兄上も蒼も戻らないかもしれませんから、僭越ながら、ご厄介になりますね」


 それは、つまり。

 ほかに誰もいないこの家で、サクヤとふたりきりということで。


「穂花。いっしょに、湯浴みをしましょうか」


 つまり、是非はすべて、己の一言に委ねられていることにほかならない。

 嫌だ、恥ずかしいと、即座に返さなかったときすでに、勝敗は決まっていたのだろう。


 ――吹きすさぶ雨夜。

 荒れ狂う風の声が、どこか遠くに在る。

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