*19* 桜に赦しを

 生まれてはじめて目にする真剣であった。

 鋭い切っ先を向けられたべには、微動だにしない。達観した紅玉で、揺らぐことなく鼈甲の瞳を見つめ返している。

 その隣で膝をそろえているあおがきょとんと小首を傾げた拍子に、天色の長髪がさらりと肩を滑り落ちる。


「思ったより、くるの早かった……力ぶそく? でも、あおうっかりだから、ほんき出すとこわしちゃうし……」

「〝また〟死なない程度に手加減するか。俺も舐められたものだな」

「……ぬしさまから、はなれて?」

「おまえらがこれ以上俺を怒らせなければな。気をつけろよ? 俺の本業はデスクワークなんでね。こういう不馴れなもん持つと……うっかり、ぶった斬りそうになる……」

「……ぬしさまケガさせたら、あおがだまってないよ」


 ――そこだけ別世界であった。比喩でなんでもなく。

 あの蒼が、底冷えしてしまうような低音を出すだなんて。どうして想像できよう。

 常磐色の瞳孔は開ききり、風もないのに天色の髪が宙に揺らめく。

 それをねめつける真知まちの鼈甲は、手にした刀身のごとく、力を入れずともふれるだけで肌を裂いてしまいそうな鋭さをぎらつかせていた。


「控えよ、蒼」


 沈黙を薙ぎ払うは、凛然たる草笛の音色。

 紅の言いつけはふたつ返事で守っていた蒼ながら、このときばかりはむっと唇を尖らせる。


「いいの? ぬしさまも言ってたじゃない。ほんとは、いなくなってほしいって。でもウケイがあるから、しかたないけど、ころしちゃダメだって。だからあおも、きをつけてとおせんぼしたんだよ」

「〝気をつけて〟……? よく言うぜ。殺す気満々だったくせに」

「ふふっ……あおがふーってしてたら、ひとたまりもなかったね?」

「毒吐かなかっただけありがたく思えよってか。……このクソ蛇が」

「そっちもあおに斬りつけてきたんだから、おあいこだよぉ」


 誰にも邪魔されず過ごした紅との一夜。

 蒼の頬に刻まれた傷痕。

 呆然と事の顛末を見つめる最中に、蒼が言っていた〝おつかい〟のなんたるかを悟る。


〝蒼は螭と言いまして、猛毒を吐き、人を死に至らしめる妖です〟

〝おぞましい大蛇の姿の所為で住みかを追われたところを、わたしが拾ったのですよ〟


 ……そんなことがあるものかと笑い飛ばした話を、まさかこのような形で、真実だと思い知ることになろうとは。


「おまえが邪魔した所為で、ほのは……退け。そこの禍津神を黄泉に送ってやる」

「ぬしさまは、ねーさまとしあわせになるの……ジャマしないで!」


 止めなければ。焦燥に駆られても、一向に音にはできない。静かに燃え上がる殺気の炎に、酸素を奪われて――


「いい加減になされませ! 天孫の御前ですよ!?」


 身を焦がす静けさに、清廉なる一喝が響き渡る。

 開いたままの襖から、庭の陽光とともに、ひらりと桜の花びらが舞い込んだ。


「お眼汚しの愚行を働かれるおつもりですか? 心優しい穂花がそれをお望みだと? オモイカネ様……?」

「……サクヤ」

「蒼、おまえもです。兄上は〝控えよ〟と仰られたはず。主の命に背くのですか?」

「……むぅ」

「一時の感情に流されたいさかいなど、ただの自己満足でしょう? そのような私怨は、捨てておしまいなさい!」


 春の陽気を思わせる穏やかな声音は張り上げられ。

 いつもなら頬笑みのたたえられた菫も、三角に吊り上げられ。

 その怒る様たるや、まさに桜の花嵐。滅多に言を荒げぬゆえに、彼の神を知るこの場の誰もが息を呑む。


「……穂花の涙には、換えられん」


 それは結果として、真知に剣をおさめさせたほど。


「さく……」


 一連の口論の中、ようやく言葉を発することが叶った。

 泣きそうな穂花へと菫のまなざしをやり、ふと、サクヤは表情を和らげる。


「私たちは誓約という、れっきとした勝負を行っています。脇目を振らず、そのことを思い出して頂きたかっただけなのですが……怖がらせてしまいましたね、申し訳ありません。泣かないで……穂花」


 もしかして、慰められているのだろうか。

 ちがう。怖いのではない。そうではないのだ。


「さくがお説教するなんて、びっくりしちゃった。止めてくれてありがとね……さく」


 まなじりの雫を拭ってくれる桜色の袖が、はたと動きを止める。

 穂花の涙を目の当たりにして泣きそうになっていた花のかんばせが、ふわりとほころぶ。

 この胸に滲む安堵が伝わった為だとしたら、嬉しい。


「心配致しました、穂花……兄上。此度の誓約……おふた方にもしものことがあったらと思うと、私は気が気でなく……」

「……そういうおまえは、大事ないのか」


 返したのは紅だ。声には抑揚がなく、表情も硬い。

 その理由にいち早く思い当たった穂花は、不謹慎だと知りつつも、頬笑みを抑えられない。

 紅、そして穂花。ふたりを交互に見やったサクヤは、数拍を経て、笑みの花を満開に咲き誇らせる。


「ご心配には及びません。サクヤはこの通り、元気いっぱいです!」

「つくづく、おまえは子供よの。こんな兄に懐く……物好きじゃ」

「当たり前のことではありませんか。家族なのですから」

「嗚呼、厭だ厭だ」


 あからさまに声を張り上げた紅を不思議に思えば、ぐいと腕を引かれる。

 あ、と音をもらしたころには、うなじにぐりぐりと頭を擦りつけられる感触。


「おまえの無垢さが、わたしにはまぶしい……」


 つまり紅はこう言っている。

 散々な仕打ちを繰り返してきた手前、合わせる顔がないのだと。

 葛藤する様は、仲直りをしたいという心境の表れでもある。


「抱きつく相手がちがいませんか、紅さん?」


 それとなく後ろへ語りかける。

 首へ回された腕をやんわりとほどこうとすれば、過剰なほど肩を跳ねさせた紅は束縛を強めんとする。


「なにをなさる。わたしは離れませぬぞ」

「仲直り! したいんでしょ!」

「厭じゃ! 絶対に離れませぬ! わたしは穂花といっしょにおりまする!」

「ワガママもいい加減にしなさ――い!」

「厭じゃ~っ!」

「お、おふたりとも、どうか仲良く……」

「さくっ、パスッ!」

「えっ?」


 平和をこよなく愛する穂花であるが、今回ばかりは心を鬼にする。

 そうして力ずくで引き剥がした紅の背を、思いきり突き飛ばせば……その先にいたサクヤが、反射的に受け止めた。

 これにはサクヤも、おろおろと視線を泳がせるばかり。


「え、あの……」

「……」

「あに、うえ……」

「…………」


 よろめいたところを受け止めた為、サクヤの肩に紅が寄りかかったのみの状態。

 紅の背に腕は回されているが、その逆はない。


「……なにが悲しくて、抱きつかねばならんのだ」

「あ……出すぎた真似を。申し訳、ありません。すぐに――」

「何故おまえは拒まぬ! 何故わたしを兄と喚ぶ!? 何故……何故……嫉妬に狂うわたしばかりが、惨めじゃ……」


 はらり……ひらり。

 紅玉からこぼれ落ちた桜の花びらが静寂を舞い、やはり、霧散する。


「貴方様は……私に赦してほしいのですか?」

「……そうだ、と言うなればなんとする。わかっておるわ、己が業深きことは……」

「申し訳ありません、それは致しかねます。だって私は、貴方様を咎めたことなど、ただの一度もありませんもの」

「――!」

「責めてもいないのに、どうして赦すことができましょう。ですから、そのような小難しいことにお心を割かずともよいのです……」


 身体つきは兄よりも華奢。そんなサクヤが、紅を桜の袖いっぱいに包み込む。


「愛しています」

「っ……」

「私の兄は、貴方様ただおひとりです……紅兄上?」

「……サク、ヤ……っ!」


 ひとたび名を喚び、桜の衣に顔を埋める。

 紅からそれ以上の言葉はなかった。

 嗚咽に阻まれているのだから、当然のことだが。


「まるで、牙の抜けた獅子だな。……馬鹿らしい」


 毒気を抜かれたように嘆息をもらし、ふいと顔を背ける真知。

 彼もようやく、いたずらに争うことの〝馬鹿らしさ〟に気づいたらしい。


「よかったね、紅。……しがみつける相手がいて」


 サクヤの背に回された、紺青の袖。

 そっとささやき、穂花はそのまぶしい光景を細く切りとった。

 ――小袖の五月雨は、桜に包まれて。

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