*33* 嵐の前に

 針の落ちる音すら捉えられるだろう静けさの中、膝を崩し、まぶたを伏せて、どれだけ経ったか。


 さらり、さらり。


 椿油の香りと、つげ櫛の感触。馴染み深いそれらに混じって、髪を梳く新鮮な仕草や、仄かな桜の香りはある。


「……ほの?」


 控えめな喚び声に、浮上する意識。


 頭を持ち上げるのと時を同じくして、俯いていた少女の琥珀と真正面でかち合う。目許を猫のごとく右手で擦れば、彼女も左手で同様にした。そのうちに、穂花は漸く、おぼろな思考が覚醒するのを感じる。


「ん……ぼーっとしちゃってた」


 髪を梳かれるのは好きだ。心地がよくて、おしゃべりの口数も段々に減ってしまう。


 しかしながら、こうもまどろむのは珍しい。うららかな春の昼下がりに、此花の木のもとでうたた寝でもしていたかのよう。

 実際は、にじむ紫陽花の色彩を窓枠にはめ込んだ以外、なんの変哲もない自室なのだが。


「またお休みになられますか? それでしたら、少しでも朝餉を摂られたほうがよろしいかと……」

「大丈夫大丈夫! 具合が悪いとかじゃなくて! 身体があったまってから、ちょーっと眠くなっちゃってねー」


 要らぬ心配をさせないために、左右に両手を振りながら鏡台越しに笑いかけてみせた。

 すると一瞬、つげ櫛の歯がつかえる。


「お疲れなのでしょう。いけませんね……貴女様がお相手ですと、我慢というものがきかなくなります」


 自嘲気味なつぶやきを経て、つげ櫛が滑る。それは枝毛ひとつない射干玉の艶髪を、そっと通り抜けた。


「さく……」


 思わず身をひねったなら、桜の香りに包み込まれる。

 穂花が無意識のうちに下腹部を庇った手へ、サクヤはその真名と同色の袖を重ね、儚げにかぶりを振った。

 ほっとしたようで、落胆したようでもある心境でない交ぜの中、穂花の両頬には、えくぼが刻まれる。

 

「ね、さく」

「……はい」

「気持ち、よかったよ。……そのっ、お風呂のお湯加減とかちょうどよくって、だから、ねっ!」


 みなまで言わずとも、真意を汲み取ってくれたのか。


「ありがとう……穂花」


 人も神も、紡ぐ言の葉や見せる表情が、心そのものとは言い切れない。

 けれど、ほう、とサクヤのこぼした嘆息が、安堵によるものであるなら、いまはそれで。


 射し込むまばゆさに視界を奪われたからこそ願った、久方ぶりに瑠璃色の澄み渡る、朝のひとときだった。




  *  *  *




「まことに申し訳ございません! このべに、一生の不覚にございます……っ!」

「えっ、そんなに?」

「それ以上はなりませぬぞ! さぁ穂花、お手を、お手をお離しくだされっ!」

「ちょ、引っ張ったら危ないって! 火っ! 火使ってるからっ!」


 身支度を済ませて小一時間、そろそろ朝食の支度も終えるというときだった。慌ただしく紅が台所へ駆け込んできたのは。

 一時停止した紅の耳に、振り返り様のおはようは届いていなかったらしい。


 たしかに、台所は紅の独擅場ではあるものの、それを差し引いても、穂花のエプロン姿を目の当たりにした少年の神の顔面蒼白ぶりは、この世の終わりと言っても過言ではなかった。


 案の定、飛びつくように腰へ回された両腕による渾身の力で、引き剥がしにかかられる。

 鍋をかき回していたおたまを取り落とさないよう、とっさに踏ん張って耐え忍んだ自分を誰か褒めてほしい。

 なんなら、恋人のエプロン姿の阻止に、燃えるんじゃなくて萌えてよ、と思ったりしなくもなかった穂花であった。


 ここで、騒然とする台所に駆け込まんとする影が、もうふたつほど。


「兄上! どうかお話を……!」

「ええい口出しは無用ぞ! 穂花のお世話をするのはわたし! お仕えすべき御方のお手を煩わせるなど、恥さらしも……!」

「おきちゃダメだって、ぬしさま~!」

「離さんかあおぉおおお!!」


 弟の制止を食らいつかんばかりの形相で跳ねのけた紅であるが、使い魔の怪力には及ばなかったらしい。


「穂花っ、わたしが、朝餉はわたしがご用意いたしますからっ!」


 羽交い締めにされた体勢もそのままに引きずられる紅は、しかし穂花へ手を伸ばすことを諦めない。


「昨日は帰りが遅かったでしょ? 仕方ないよ」

「だからと言って、穂花を蔑ろにしてよしという馬鹿げた話がありましょうか!」

「だったら余計に休んでほしいな~。紅の寝坊とか、この十数年いっしょに住んでて初めて見たよ?」

「うっ……!」

「それくらい疲れてるってことなんだから、早く元気になって、また美味しいご飯作って?」

「…………穂花」

「たまには私が甘やかしたいんです。ほーら、ほのちゃん特製お粥を振る舞ってあげるから、部屋に戻って。眠れないんなら、落ち着くまで添い寝もしてあげようかー?」


 日頃の感謝に報いたいのは事実。だからこその大盤振る舞いだ。

 そんな穂花の言葉を聞けば聞くほど、紅から表情が剥がれ落ちてゆく。最終的に真顔になった彼の神がおもむろに挙手をしてのたもうには、こうだ。


「添い寝とは……共寝に同じと解釈いたしますが、よろしいか」

「蒼、連行して」

「はぁい」

「穂花っ!?」

「紅が悪いんだからね!? 朝っぱらからそういうの、よくないと思います!」

「そんな殺生なぁっ!! これ蒼、引っ張るでない!」

「ぬしさまは、おねむだよぉ~」

「蒼ぉおおお!!」

「うんしょ、うんしょ」


 どうやら紅を甘やかすと、調子に乗るようだ。大真面目にセクハラ発言をかます程度には元気を取り戻したと理解したならば、やることはひとつ。

 ここは蒼に任せるが吉。さわるな危険。早々に踏んだ穂花は、心を鬼にして紅を見送るのだった。


 かくして、先ほどまでが嘘のような静けさに包まれた台所にて、サクヤとふたりきりと相成る。


「兄上をお止めできず、申し訳ございません……」

「いいっていいって! そんなに気にしないで!」


 今日は日曜日であるからして、 律儀にいつもの起床時間を守る必要も、弁当をこしらえる必要もないのだ。

 だから、たまにはゆっくりしてほしいという意味合いで見送ったのだけれど、はてさて、肝心の紅に伝わっているのか、いないのか。


「朝っぱらからなに漫才やってんだ? おまえら」


 深々と腰を折るサクヤを励ますかたわらに届いた声音は、たしかに先程まで、ここにはなかったもの。

 はたと見やった台所の入り口に、肩を竦める青年の姿がある。


「まちくん! 来てたんだね。おかえりなさい!」


 溌剌としたはにかみを受け、呆れの色を浮かべていた鼈甲の瞳が、とたんに帯びた熱で蕩けた。


「あぁ、いま帰ったぜ。ただいま、穂花」


 つられてはにかんだ真知まちは、そらお返しだとばかりに、くしゃりと射干玉の髪を撫で回すのだった。

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