*34* 明日はかくも、いとおしき

「如何ですか? ほののお料理は」

「……美味、とは、このことを言うのだろうな」


 感嘆の息を交えながら、布団の脇で控える盆へ、椀と蓮華を戻す。

 頬笑ましげな弟に見守られながらの食事は、これほどまでに落ち着かない代物だったのか。

 数千年もの間、めまぐるしく変わりゆく人の世を目にしてきた身で、いまさらながらに思い知る。


「心地よい神気じゃ……」


 老いと、飢え。

 不老長生を司る神として、死に直結するそれらが、生まれながらに欠如していた。


 味覚はある。だが常に満腹状態であるがゆえに、身体が味見以上のものを欲さないのだ。

 べにが口にしたのは、神気。穂花が手ずから腕をふるった粥を摂食したことにより取り込まれた、天孫の恩恵である。


 瓊瓊ニニギノミコトとは、稲穂が豊かに実ることに由来する。その御名に違わず、穂花によって宿された神気は疲弊した体内を瞬く間に癒しゆく。


 生命を司るという点ではサクヤも同様であるが、天津神と国津神では、質がまるで異なると言ってもいい。


「我ら国津神がどう足掻こうと、天津神様方を超えることはできぬ。生まれが違うのだから。だが……穂花は、そんなわたしたちにも、分け隔てなく接してくださる」


 言葉を止め、ふと辺りを見回す。

 夜明けと共に目を覚まし、穂花が眠る直前まで甲斐甲斐しく世話を焼く紅にとって、自室とは、睡眠を取る以外の必要性を感じない場所だ。


 けれど穂花は、たとえ眠らずとも死なぬ神に、六畳もの空間、肌触りのいい布団を与えてくれた。対等の目線で見つめられることは、やはり気恥ずかしくも嬉しい。


「あの御方にとって、神だの、人だの、妖だのといった肩書きは、些末なことなのですね。和をいとしむ和魂にぎみたまに、私も幾度救われたことか。ですから此度は、穂花の安心のため、回復に努められませね」

「おまえもつくづく心配性だことだ。案ずるでない」

「……兄上、昨日はお世話になった方へ会いに行かれたと、穂花からお聞きしました。その御方とは、もしや」

「あぁ、せんせいじゃ。お珍しく下界へいらしていると聞き及んでな、ご挨拶へ伺った。お変わりないようで、安心しての。つい昔話に花が咲いてしもうたわ」


 帰りが遅くなった理由を、紅はそのように話した。ならば余計な詮索は無用かと、静かに相槌を打つ。

 そんなサクヤへ、お返しとばかりの問いが見舞われる。


「わたしのことより、おまえじゃ。昨晩は穂花と懇ろに過ごしたのではないか?」

「あ、兄上……!」

「ふ……あのように神気を注いでおいて、よもや気取られぬとでも?」

「申し訳、ございません」

「何に対する謝罪だ? わたしの不在に穂花を籠絡ろうらくしたことか。無駄なことを。わたしは〝漸くか〟と思うたがな」

「兄上……」

「……さすがに此度は、一夜孕みとはいかなんだか」


 潜む草笛の音色に、伏せられた菫の双眸。それが、なによりの答えである。

 とたんに影を背負ったサクヤへ、布団を退けて向き直る。


「拒まれたのか」

「いいえ。穂花は、私のすべてを受け止めてくださいました」

「なれば、何故。おまえがその気になれば容易なことであろう。下手な気遣いは無用ぞ。わたしとて、いまさら弟に出し抜かれた程度で、文句をつけるつもりはない」


 そう、サクヤは生命を司る神。己が神気で満たし、〝孕め〟という言霊ひとつで、新たな命を母体へ宿すことができる。

 神といえど、閨ではただの男にすぎない。感情のままにあの柔肌を組み敷いておきながら、歯止めをかけた理性とはなんなのか、不思議でならなかった。


「そのことにつきまして、お話がございます」


 兄のまなざしを受け、サクヤも居ずまいを正す。しばしの沈黙を響かせた花のかんばせは、どことなく哀愁を帯びていた。


「兄上の仰る通り、昨晩は褥を共にさせて頂きました。しかしながら、かの青き花は、以前と変わらず……」

「……五分咲きのままだ、と?」

「えぇ。……薄々予感はしておりましたが、確信いたしました。穂花の右脚にございます私の刻印がこれ以上咲くことは、おそらくないでしょう」

「なんだと……!」


 唯一夫婦であったではないか。

 ニニギと人格は違えども、穂花は初めから心を赦しておられたではないか。

 だのに、サクヤが、誰よりも純真で一途なこの子が、認められないなんて。


 男女の情を交わして尚つぼむ花など、あってなるものか。よりにもよってその対象がサクヤであることに、紅は腹の底で燻る熱を抑えきれない。


「わたしは……またおまえを殺してしまうのか……!」


 蕾がほころばなかったとき。すなわち穂花の寵を得られなかった者の末路は、例外なく黄泉へと続く。

 そうと定めたのはほかでもない、去りし日の愚かな己だ。


「どうか、お気に病まれませんよう」

「おまえはいつもそうだな。誰も咎めない。頬笑みを崩さない」

「兄上――」

「そうして赦された気持ちになったわたしのようなうつけが安堵しているうちに、すべてが終わっている。否、此度も終わらせるつもりであるか――ほざけ」

「あに……痛っ……!」

「兄を馬鹿にするのも大概にせよ。思うところがあるならばはっきり申せ。この兄を納得させぬままの身勝手な行動は赦さぬ。勝手に逝くなど、赦さぬ……!」


 好き勝手に命を奪っておいて、今度は死ぬな、などと。子供の癇癪より幼稚だ。


 だけれど。それでも。漸く、漸く素直になれたのだ。嫉妬と憎悪の炎に巻かれた本当の自分を、見つけ出すことができたのだ。


「おまえを愛しているのが、穂花だけだと思うな……!」

「っ……!」


 兄で、いたいのだ。

 回りくどい言葉しか紡げなくとも。

 痛いと訴える弟を無視して、潰れてしまいそうな程両の腕に力を込める、酷い兄だとしても。

 ……これからも。


 ふいに、胸を押し返す感触が弱まる。かと思えば、首筋へ鼻先を埋めた視界の端を、淡い花弁が横切った。


「……たし……から」

「サクヤ……?」

「花が咲かないのは……私が、私、だから」


 はらはら、と。声音が震える度に、菫の双眸をこぼれ落ちた雫が朝陽にふれ、慎ましく散る。

 掻き抱く腕の力はいつしか緩み、頼りなく震える背中を、無言で撫でる。


「私では、駄目なんです。これ以上は、もう……さくで、ないと……」

「朔馬……?」

「私の、半身……浅はかな私の所為で、神々の審判に巻き込まれた、哀れな人の子……」

「……まさか」

「兄上っ……私は、最低なことをしました……あの子が、朔馬が生きるためには、穂花を愛さなければ、ならないんですっ……!」


 高千穂 朔馬。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの末裔に当たる青年。


 その生は非常に脆く、サクヤの魂依代となることで、若くして潰えるはずであった生命を辛うじてうつしに留めている。


 自分だけでは花を咲かせることができない。サクヤが言っていることは、つまり。


「我々三柱だけではない……朔馬も、誓約の対象であったということか……!」


 となれば、青き花を満開にほころばせるためには、朔馬が穂花を愛し、穂花に愛されるしか、道は残されていない、という結論に至る。


「私たちと違って朔馬は、ニニギ様との想い出も持たない、霊力が高いだけの、ただの人の子です……彼には意思がある。彼自身の幸福を選択する権利も……それを、生と引き換えに、私は奪ってしまった……」

「身体のほうは、大事ないのか」

「はい……朔馬は、〝まだ目覚めていません〟から……いえ、〝目覚めさせていない〟というのが正しいでしょうが」

「サクヤ……おまえ」

「申し訳ありません……! とうの昔に神気は定着し、いつ目覚めても問題ない状態にありました……私が、朔馬にそれをさせなかったのです……!」


 堰を切ってあふれ出す言葉に、やっと、サクヤが桜を散らせる理由を悟った。


「こわかったんです……私の所為で、愛しき人の子が、生を終えてしまうやもしれないと思うと……朔馬が穂花を愛す未来であったとしても、こわかった……生きるために、無理を強いたようで……っ」

「もうよい」


 嗚咽に震える語尾を遮った草笛の音色は、優しく。

 紅はいま一度、サクヤという存在をしかと抱きしめる。


 本当は、ずっと前から独りで苦しんでいたのだろう。背負った命の重みに。


「不確かな明日というものは、なんともこわいな、サクヤ。おそろしくて、わたしも足が竦んでしまいそうじゃ」


 サクヤの言う通り、神のみの戦いと早合点し誓約に身を投じたサクヤ自身の行為は、罪かもしれない。そうでないかもしれない。

 それを判断し、伝える権利を持つのは、紅ではなかった。


「……だがな、そうして桜を散らせるのは、おまえが生に執着しているからだ。それを嬉しく思うわたしもいることもまた、事実」

「……あに、うえ?」

「穂花と、朔馬と、離れたくないのだろう? 泡沫に消え入った幾千の記憶と同じ道を辿ることを、おまえ自身が厭うた。ほかでもない今生がいと惜しく、愛おしいと」


 気づいたときには、少し身を引いて、呆けたようなサクヤの濡れた頬を、紺青の袖で包み込んでいた。


「のう、サクヤ。おまえが愛しむこの現世に在る桜は、美しいな。街の寝静まる夜闇においても、儚く、それでいて凛然としていて」

「私……わたし、は……」

「よい。小難しいことは考えるな。わたしが見守っていよう。だから雨が止んだそのとき、おまえの前に現れた道を、真っ直ぐに進みなさい」


 恐れることはないのだ。

 泥濘に足を取られたなら、手を引いてあげるから。


「……ごめん、なさい」

「またおまえは。なにを謝ることがある? わたしたちは先見の神でもあるまいに。未来のことなど、そのときにならねばわからんだろう」


 おどけた笑みがこぼれる。場を和ませるため、だったのかもしれない。


 特になにも考えていなかった。小難しいことは。

 そう、自分に素直になればいい。

 そうすれば、不確かな明日に不安を覚えていても、〝これでよいのだ〟と思える行動が、おのずと見えてくる。


「サクヤ。おまえが朔馬を大切に想うのならば、わたしにとっても同様じゃ。弟のひとりやふたり、ろくに面倒も見られず、どうして兄などと名乗れよう。たまには兄を立てよ」

「わ……!」


 手加減も充分に、右手の人差し指で、白い額を弾いてみせる。

 反射的に押さえたサクヤは菫の双眸を真ん丸にして、そこに大粒の雫はもうなくて。


「兄上は、ずるいですっ……!」

「おっと」


 仕返しとばかりに、体当たりを見舞われた。体当たり、というには、可愛いやもしれないが。

 けれどまぁ、胸を貸すのも、たまには悪くない。


「……貴方様が兄上で、本当によかった」


 ……それは少し、くすぐったいような気がしないでもないけれど。


 照れくさい気持ちは、はらりと散った桜を袖に隠すことで、おあいことしよう。

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たまゆらの花篝り はーこ @haco0630

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