*16* 蒼と白の行方
初めて耳にしたのは、鶯の歌声。清々しい春告鳥のさえずりにどこか違和感を憶えてしまった理由は、まだ夢見心地な
ひとしきり倦怠感に浸ったのち、つと意識が清明となる。
外気とは遮断されているが、抱き合う身体が一糸纏わぬ姿となれば、羽毛布団も意味を成さぬというもの。
遅ればせながら沸き上がる羞恥に声をあげそうになり、とっさに飲み込むことが出来た。
長いまつげを伏せ、安らかな寝息を立てられては、せっかくの夢路を邪魔することが憚られた為にほかならない。
「……紅の寝顔、初めて見るかも」
規則正しい時分に、紅が必ず起こしに来てくれる。
1日の始まりに耳にするものが、草笛の音色でない。ゆえに、先ほどの違和感が在ったのだろう。
そ……と頬へふれる。泣きはらした所為か、目許が赤い。
胸に溜め込んでいた苦しみを、想いを、残すことなく吐露したのだ。肉体的にも精神的にも疲労は相当なものだったはずだ。
わだかまりが少しでもほどけたのなら良いけれど。そんなねがいを込めて、翠の絹髪へ指を通す。
「……甘やかしてくださるなんて、珍しい」
「あ、起こしちゃった? ごめんね」
「かまいませぬ」
ふるふると、かぶりを振る紅。
「お早う……穂花」
穂花の頬へすり寄る動作は緩慢で、紅玉と菫のまなざしも、とろんと鈍いまま。
首筋へ直にふれる翠の絹髪がくすぐったく、思わず身をよじれば、くすり、と笑い声の後に再び抱き寄せられる。そればかりか、額、まぶた、頬、唇をついばまれてしまう。
「……蕾がほころんでおりますね。鮮やかな
「んっ……!」
さらには、歓喜に震える唇を胸許の花弁へ添えられ――
「……申し訳ございませぬ」
何故だか、詫びを入れられた。
なんに対する謝罪なのかわからず、返答に戸惑ってしまう。
「穂花、お身体に特別辛いところはありませんか」
特別、とわざわざ付け足している点が恨めしい。言わんとするその意味を汲み取れぬほど、穂花はもう子供ではなかった。
「えっと……その、程よい気だるさかな、と……?」
選びに選んだ言葉が疑問の意を含んでしまったのは、反省点だ。せめて断言すべきだった。
「そう……か」
穂花の返答を受け、色違いの双眸を伏せる紅。なにやら思案しているようだが、笑みの消えたかんばせに、一抹の不安が芽生える。
「紅……?」
「いえ。かつてあの子との初夜に、貴女様が一夜孕みをなされたものですから」
「いちや、ばらみ……」
「サクヤと夫婦の契りを交わされたその夜に、御子を授かられたということです」
「はいっ!?」
この現代社会において、妊娠を検査するにしても早くて1ヶ月や2ヶ月、とにかくある程度の時間が必要だ。それをたったの一晩で、だと。
「か、神様だから、普通の人とは違ったとか……?」
「仰る通り。殊に貴女様は、アマテラス様の血を引かれた貴きお方。その御身に秘めたる神力は、我ら国津神なぞには量り知れませぬ」
どうやら自分が立たされているのは、予想以上にとんでもない場所らしい。真知いわく語彙が残念な穂花は、これを〝神様だからなんでもアリ説〟と命名することにした。
知らず知らず二の腕をさする穂花へ、しかし紅は追い討ちをかける。
「授かりやすいお身体であることを失念しておりまして、昨晩は無理を強いてしまいました。もしご懐妊であれば、それはそれでわたしとしてはよろしいのですけれども、穂花の純潔を奪った以上、どちらにしろ責任をと……」
「あ――っ! 言わなくていいから! 言うと恥ずかしくなるやつだからそれ!!」
「ふふ……うぶな方」
いまさらながら羞恥に身体が燃え上がる。布団、いや紅のもとより逃げ出そうとするも、身を反転させた時点で腰を絡め取られてしまう。
背を向けているから、茹で上がった穂花の表情は見えないはずだけれど、ぴたりと密着した素肌の熱さが、なにもかもを物語っているだろう。
「いつまででもこうしていたいけれど……お風邪を引いてしまいますね。
殊更柔らな草笛の音色と、射干玉の髪をそっとかき分けられたうなじに、あたたかい感触。
口付けられたのだと我に返り、返り見るころには、上体を起こした華奢な裸体を紺青の衣が覆ってゆくところであった。
「湯浴みが終わりましたら、朝餉にしましょうか。折角の休日ですし、わたしもご一緒させてくださいまし」
「あっ、と、もちろん!」
なにか手伝いをと思い立つものの、この身なりを朝陽にさらす羞恥のほうが勝ってしまった。
てきぱきと予定を告げる姿はいつもの紅で、羽毛布団を巻き付けながら慌てて返す。ここまで仕組まれたことだとすれば、やはりあなどれない神だ。
真偽の程は定かではないが、満足げにうなずいた紅は、思い出したように続ける。
「そうじゃ。穂花は赤と青と白――どの花がお好きか?」
なんとも既視感に満ちあふれた問いである。
わかってる癖に、と小憎たらしく思いつつも、律儀に返してやることにする。
「赤だけど、どうして?」
「……いえ」
いぶかしげな問い返しに、色違いの双眸が、ふわり。
「なに……お疲れの身体を少しでも癒やせればと、たまには湯船に花びらを浮かべようと思い至った次第でありますよ」
「紅ってさ、わりとロマンチストだね?」
「貴女様の御心をつかむ為に、何千年と学んで参りましたゆえ」
「論破された……!」
「おや、湯浴みの手伝いをご所望か?」
「結構です!」
「ふふ、ではすぐに支度して参ります。ごゆるりとなされませ」
「行ってらっしゃいませ!」
紅のたわむれに翻弄される穂花。これが普通。いつもの平和な朝だ。
紅へ言い放つなり布団を頭から被ってみせたものの、その影でホッと頬がほころぶのを抑えきれない。
「赤がお好き、か。……では、青と白の花の行方は、どうなってしまうのでしょうな」
そんな穂花であるから、にわかにひそめられた草笛の、物悲しげな響きを捉えることは、出来なかった。
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