*15* こころとからだ

 ――まるで、鈴にでもなったかのよう。

 肢体の柔らな線をくすぐるささいな刺激にも反応してしまう己の、なんと浅ましいこと。

 鼻にかかった甲高い声が自分のものだなんて、到底信じられない。


「かわいいひと……」


 女を、いやほのを知り尽くした指先であった。

 生娘であったはずの身体もまた、艶かしい草笛の音色を受けて熱を持つ。


「やだ……やだ」

「ふふ……〝もっと〟……ですね?」

「あッ……だめ、べにぃっ!!」


 やめてくれという本気の訴えに、彼の神は聞く耳を持たなかった。

 ひときわ強い刺激で、津波のような熱が押し寄せる。

 悲鳴じみた嬌声に、べには秀麗なかんばせを歪めて耐え忍ぶ。苦悶ののちに胸を支配するのは、充足感や征服感といった、打ち震えるほどの快楽だ。


「嗚呼……漸く、わたしを喚んでくださいました。貴女様より頂いた名……わたしの宝物……もっと、わたしをお求めになれば良い……」

「んっ……」


 翠の絹髪が鎖骨をかすめる。

 寄せられた唇が、吸い付くように、甘噛むように、薄紅の花弁で胸許の蕾を無数に彩る。

 咲かせようとしているのか、散らそうとしているのか、もうわからない。


「べに、もうやめて……私、べにを嫌いになりたくない……」


 やっとの思いで紡いだ懇願に、胸許への愛撫がやむ。

 苦しいほどに密着していた裸体がわずかながら離されたことに淡い期待を抱いたのも、つかの間であった。


「……なればいつ、愛して頂ける? わたしはいつまで待てばよろしいのか」


 甘やかな睦言は一変。無機質で鋭利な返答が突きつけられる。


「親愛など要りませぬ。寵愛、ただそれのみがわたしは欲しい!」

「ぁあっ……!」


 壊れ物を扱うような慈しみにあふれていた手が、細い手首をぎりぎりと締めつける。

 痛いと叫びたい弱音を噛み殺すほどに、生理的な涙が大粒の琥珀からこぼれる。

 褥を濡らす朝露は、紅へ朱の唇を噛みしめさせた。


「……また、泣かれるのですね。わたしのなにがいけないのですか? わたしは貴女様を傷つけたりしない……傷つけたくないのに……」


 にじむ世界に降る雨。

 ここで初めて、草笛の語尾が曖昧に消え入った。


「わたしは、貴女様が愛おしいだけなのです……涙よりも笑顔が見たい……今宵だって、本当はもっと優しく……抱きた、かった……」


 あぜんとして仰いだ先……穂花の涙をぬぐいながら、紅も涙を流していた。


「優しくしたい、のに……あの子を、サクヤを憎んでしまう……こころとからだが、ばらばらになって……言うことを聞かないのです……わたしは、永い時を生きすぎた……死のうにも、天命がそれをお赦しくださらない……もう、疲れた……」


 たどたどしく言葉にするさまは、まるで子供のよう。

 こんな紅は目にしたことがない。おそらく、輪廻を遡ったとしても。


「わたしは……嫉妬に狂って、あと何度サクヤを殺さねばなりませんか。あと何度、貴女様のお命が尽きるさまを目の当たりにしなければなりませんか。……あと何千年、生きなければなりませんか……」


 一心に紅玉が救いを求める相手は、彼の天孫、ニニギノミコト。


「教えてください……ねぇ……ほのか、さま」


 ――ちがう。穂花じぶんだ。


「紅……」


 うなだれた表情は影となって、うかがい難い。

 だからこそ、腕を伸ばさずにはいられなかった。


「……紅」


 再び名を喚ぶ。ゆらりと見合わせられるかんばせ。そこにはめ込まれた紅玉、菫のどちらにも、雫はにじんでいた。


「お母さんがいなくなったとき、私、すごく哀しかった……紅にしがみついて、一晩中泣きはらしたよね……紅は、そんな思いを何度も何度もしたのね。しがみつく相手もいないまま……」


 頬を包み込んだ手を、まぶたを閉じた紅は、そっと包み返す。


「……見苦しいでしょう? 憐れにお思いなら、温情をくださいませぬか。ひとかけらほどでもいい……貴女様を想うひとときだけ、わたしはわたしでいられる……」

「それが……紅の本音?」

「……なにを、仰りたい?」

「お面を外しても、あなたの心は見せてくれないの?」


 しばしの時を経て、咀嚼したのだろう。

 どこか寂しげに、紅は頬笑んでみせる。


「……遥か昔に、お見せしましたとも。それから貴女様のご様子がおかしくなられた。わたしに取り合ってくださらなくなった。だのに、どうしてお見せできましょう……わたしは、貴女様に嫌われるのが、なによりこわい……」


 はらり、はらりと、両の頬を伝う雫。

 菫よりこぼれ落ちたひと雫は桜の花びらとなり、形を留めることができずに、夜闇へ霧散した。

 コノハナチルヒメという、彼のもうひとつの名を思い出す。


「……嫌わないよ」

「……嘘じゃ」

「本当よ」

「嘘です。今宵の交わりさえ、あれほど厭がられていたのに……」

「もう……厭じゃない。それが答えじゃ、だめ?」


 にわかに、色を違えた双眸が見開かれた。

 呼吸の仕方を忘れたように、凝視されている。


「私いまね、紅にすごく申し訳なく思ってる……理由は思い当たらないのに、胸が張り裂けそうなの……ニニギも、同じなんじゃないかしら」

「わたしを、お厭いではなかった……?」

「うん。むしろ好きだった。まだ、あなたの愛情には不釣り合いかもしないけど……応えたいと思うのは、自分勝手かな」


 言い終わらぬうちに、息苦しさが襲う。

 翠の絹髪が視界の大半を占めているところを見ると、どうやら紅にきつく抱き込まれているらしかった。


「ごめん、なさい……あまりに急で、どうお返しすればよいのやら……」


 間違いない。紅は戸惑っていた。


「穂花様……わたしを噛んでくださいませんか? この身のどこでも構いませぬ。出来れば、貴女様へしたよりも強く」

「えっと……なにを言っているのかな、紅さん?」

「お慕いし過ぎた末に、わたしは妄想を具現化する術を心得たようで……」


 否、錯乱している、といったほうが正しいか。


「妄想でたまるもんですか!」


 これにはたまりかね、強張る両頬をむにゅ! と思い切りつねってやる穂花であった。


「さて、どうかしら」

「……いひゃいれす……」

「そういうことです」

「……ふぇっ!」


 漸く理解したのだろう。ぎゅう、と抱きつかれる。


「すきです……だいすきです……ほのかさま……!」


 そこに、いつもの余裕など影もない。

 それでも、幼い子供のようにしゃくり上げる紅を、格好悪いなどとは責められなかった。


「色んなこと、独りで背負わせてごめんね……紅の気持ちを、もう無駄にはしないわ。だからいまは……泣いていいのよ」

「……っ!」


 制御出来ない憎しみ。

 実の弟を手にかける罪悪感。

 愛しいひとを看取る哀しみ。

 ただ独り、生き永らえる孤独。

 何千年もの間に繰り返された悲劇は、無数の傷を紅へ刻んだことだろう。

 完璧に癒やせるほど有能ではないから、せめて紅が安心出来るような居場所になりたい。穂花は心からそうねがう。

 どちらともなく胸をふれ合わせ、相手の鼓動が素肌を叩く感触に感じ入る。言葉はなくとも、そこにはたしかな愛が在った。


「……わたしの本音を、いま一度お伝えしましょう」


 おもむろに離される身体。その熱を名残惜しく追って、桜色に色づいたかんばせ、潤んだ瞳を仰ぐ。


「……永久など、嫌いです。独りはもう沢山じゃ。わたしは愛しいひとと生きて、共に果てたい……」


 永久を司る神の言葉。ともすれば、己の存在意義さえ否定するものだろう。

 生あることが幸福とは、限らないのだ。


「わたしはもう、ニニギ様の影を追うことは致しませぬ。わたしを愛してくださる方が、穂花様であるから……ほかならぬ貴女様を愛しても、よろしいだろうか……?」

「ふふ……穂花でいいってば。まちくんとさくもそう喚んでるし」

「……わたしといるときに、ほかの男の話はなさらないで頂きたい」


 拗ねたように尖った唇を、ふに、と押しつけられる。

 失言を咎めているつもりなら、なんといじらしいことだろう。


「けれど……ありがとう。心が驚くほどに凪いでいる。貴女様のおかげです……穂花」

「うん……」


 ひとたび見つめ合うと、視線を逸らせなくなる。

 熱に潤んだ色違いの双眸が、夢見心地な己を映していた。


「……ひとつ、我儘を言ってもよろしいか」

「うん……?」

「もう一度、貴女様を抱きたい。今度こそ優しく……こころもからだも、本当の意味で、穂花の夫となりたいのです」


 真摯なまなざしに、曇りなど微塵もありはしなかった。


「大丈夫、もう厭じゃないから……紅の好きなようにして?」

「あまり、煽られるな……乱暴こそしないが、手加減致しかねる」

「あっ……ん」


 する……と内腿を撫で上げられては、甘い吐息を抑えきれない。

 紅を知る身体は、ふれられた場所から熱が跳躍伝導し、思考をとろけさせる。


「べに……キスして?」

「っ……貴女様が、お望みならっ……!」


 口付けは、熱情の抱擁を伴って。

 情愛の五月雨は、静かに、あたたかく降り注ぐ。


「ずっと、お傍にいさせてください……心から愛しています……穂花」


 甘い痺れに支配される意識の中、穂花は返事の代わりにまぶたを下ろし、頬笑む。

 頬笑み返す紅の頬を伝った雫は、紅蓮の蕾へとこぼれ落ち、ふわりと、花開かせた。

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