*14* 永久の束縛
――初めに映すは、望月。
はたと視線を下げ、深淵の闇夜に眼を凝らす。
琥珀色の月明かりに照らされた、朱塗りの欄干。夜風が吹き抜ける
「ここは、どこ……?」
脳の片隅につかえる〝なにか〟はたしかに存在しているのに、思い出せない。
奥へ奥へと続く広い廊下。深く考えるまでもなく、歩み出していた。
一歩、また一歩。時折、鶯張りの床が気まぐれにきしりと鳴く。
ふと、煙のようなものが鼻腔をくすぐる。
線香……とは違う。ともすれば痺れそうなほどに甘い芳香。
蜜に誘われた蝶のごとく、静寂に
やがて、穂花は歩を止めた。目前には目もあやな紋様の襖が在る。
「甘い香り……」
ひときわ強い芳香は、この先より薫っている。
そっと手を伸ばす……が、指先が襖を捉えることはなかった。
穂花の身体は、吸い寄せられるようにそこを透過した。
なにが起こったのか少しも理解しないうちに、むせ返るほどの香りに包まれる。
――夕暮れと見まごうた。
橙の
「――泣いておられるのですか?」
肩が跳ねる。聞き慣れた声音だけれども、聞き憶えのない、妖艶な草笛の響きに。
広い部屋の向こうにて、ゆらりと起き上がる影を認める。
「……泣かないで」
翠の絹髪、紅玉をはめ込んだ横顔。
切なげにまつげを伏せた面影は、どくりと胸を騒がせる。
「わたしの愛が足りぬのでしょうか。なれば幾らでも……尽くしましょう」
じわりと汗ばみ、桜に色づいた華奢な裸体が、再び
その先に在るは、組み敷かれた女の、乱れた射干玉の髪と、淡雪の素肌。
「嗚呼……やはり貴女様はお美しい。愛しています、愛しています……」
うっとりと繰り返される睦言は、直接ふれているわけではない穂花の鼓膜までも、麻痺させてしまう。
「愛しています……わたしに、寵を……どうか、愛してください……」
茜色の灯る部屋にて、絡み合う男女。
美しい少年の姿をした神によって、いままさに乱されていたのは――
* * *
「ニニギ様……」
草笛が、意識を引き戻す。
しばらくぼうっと呆け、見慣れた天井の木目から、意識を手繰り寄せる。
横たわった世界。月明かりの自室はなんの変哲もない。
幼子を寝かしつけるかのごとく寝そべった神の、紺青の袖に包まれているということ以外は。
「漸く……お目覚めになられましたな」
「……私、どうして」
「誓約です。天の
誓約、天の雷。
反復するまでもなく、未だ体内にこもる熱の存在に気づく。
……思考が、鈍い。鉛の四肢に、自分の身体ではないような錯覚に陥る。
否、錯覚でもないやもしれない。問答無用で蕾を植え付けられたこの身は。
疼く胸許を押さえた指先が、違和感をとらえる。
そこに在ると高をくくっていたブラウスの感触ではない。するすると、恐ろしいほどに手触りのいいそれは、純白の絹で繕われた寝間着。
「ふふ……花嫁衣装のようでしょう? 既に我が細君である貴女様には不要とは存じますが……今宵の為、特別にあつらえたのですよ」
鼓膜へ吹き込まれる、愉悦の草笛。
射干玉の長髪をさらりと布団へ流した手が、純白の
華奢な指先に鎖骨をなぞられた瞬間、体温が急降下する。
「待って! 私はあなたの妻じゃないわ!」
とっさに手首をつかみ、押しとどめた。
刹那、ぴり、と痛いくらいの視線が頬をかすめる。
なにを言っているのだと、紅玉から言外に
「みんな、私を神だと言うけど……いまの私は人間の両親から産まれた、葦原 穂花でしかない。あなたが愛したニニギじゃないの……」
なにも思い出せない癖に、我が物顔でひたむきな愛情を貪り食う。そんな自分だけは赦せなかった。
「ごめんなさい……気持ちは受け取れない。あなたに限ったことじゃないの。だから、まちくんや、さくのこと、悪く思わないでほしい……」
彼のことだから。目前の彼がよく知った本当は心根の優しい神であるなら、自分が床にふせっている間、ふたりを悪いようにはしていないはずだ。
……そう信じたいだけかもしれないと、余裕のなさが頭をもたげていたが。
「私に、あなたたちはもったいないわ。……どうせすぐにいなくなるんだもの」
告げた声音は、予想以上に硬かった。
震え声を拾われる前に、袖の中から逃げ出す。
起き上がり、背を向けては、どんなまなざしが注がれているのかうかがうことはできない。
「あなたも知ってるでしょ? 葦原の女性で、20歳を越えて生きている人はいないの」
穂花の家系では、女は16になると早々に嫁入りし、子をなす。そしてその子が物心もつかないうちに、果てる。先祖代々短命なのだ。
母がまさにそうだ。20歳を目前にして、逝ってしまった。
「私も、呪われてる。……私なんか愛したって、哀しくなるだけよ」
母の死を受け、子供ながらに悟った。だからこそ遠い昔に、つたないながらも茜の山道で詫びたのだ。
「……人は何故、儚いのでしょうな」
衣擦れの音を伴って、背中に影がかかる。
どうやら、彼の神も身を起こしたらしかった。
「それこそ、偉い神様が決めたのよ」
確証などない。大切なことは偉い者が決めるだろうという、幼稚な発想だ。
「人が産まれることはイザナギ様、死ぬことはイザナミ様がお定めになりました」
ほら。世界を創造した男神と女神が決めたのだ。自分の考えは間違っていなかった。
「ただそれのみでは、何故人が短命であるかという答えにはなりませぬ」
淀みない回答を述べていた草笛が、つと調子を弱める。
「……天孫には御子がおりましてな。その御子の御高孫に当たる方が〝
「え、神武天皇って……つまり」
「そう、
「……あ……」
……何故だろうか。どくり、ふらりと動悸がする、目眩が酷い。
「我が弟は生命と繁栄を司る神……それゆえ、こんにちのように人々は繁栄しておりますでしょう? 貴女様はわたしとの御子をお産みになられませんでしたので、酷く短命となってしまいましたが」
「っ……あぁ……っ!」
そうだ……そうなのだ。
彼の神が言わんとすることに、思い当たってしまった。
たまらず振り返った先で、温度のない紅蓮の瞳にとらえられてしまう。
「のうニニギ様……何故サクヤの子のみを産まれたのです? 何故わたしを袖になされた……?」
――ニニギは、イワナガヒメを父オオヤマツミのもとへと送り帰した。
彼の神が司る不老長生を、永久を、どぶへ捨てたのだ。
それこそ、人がわずか100年足らずしか生をまっとうできぬ所以……いや、呪いだ。
どうして忘れていたのだろう。ニニギが人の祖であるなら、その呪いを直に受け……とりわけ短命であって然りだというのに。
これを俗に、自業自得というのだろう。
「わ、からない……どうしてあなただけ
「でしょうな。どの貴女様も、決まってそう仰る」
事もなげに言ってのけた声音からは、苛立ちさえ感じられる。
「貴女様のお命が尽きる度に、わたしはその魂を相応しい器へとお連れ申し上げておりました。貴女様の生まれ変わりに、何度想いを告げたことか……」
「そうして私を……無理やり、抱いたの」
先ほど見た夢……あられもなく乱されていた女は、己だった。いつの時代かは、もはやわからない。
「
最後のひと言は、殊更ゆっくりと強調された。
そこに含まれる意図とはなんなのか。ゆるりと上げられた口角を前にして、悟る。
「憶えておいででしょうか。貴女様が16歳となられた折りに、差し上げるものがございますと」
遠い昔に、そんな話をしただろうか。成長し、終焉の足音が近づくほどに、誕生日すら喜べなくなっていったけれど。
底知れぬ頬笑みをたたえた神は、おもむろに腕を持ち上げる。そうしてふれるは、己の顔を隠す面の紐。
まさか――と息を呑んだ、そのまさかであった。
緩慢な動作にて紐のほどかれた拍子に、しゃらりと鈴が転がる。
「貴女様に、わたしの真名を。このイワナガヒメを得た貴女様は、永久のお命となる――」
唄うような草笛に魅入られ、いつしか呼吸を忘れてしまう……
狐の面に隠されていたかんばせが、あらわとなる。
見憶えのある色を宿した菫の眼。それへ絡みつくかのごとく、
「ニニギ様……」
名を喚ばれ、我に返った時既に遅し。
肩を押され、背が反るのを止められない。
布団に散らばる射干玉の艶髪。
呆然と固まる身体を組み敷いた神は、恍惚に歪む唇を躊躇いなく寄せる。
「――んぅっ!?」
噛みつかれた、という表現はあまりに温い。
下唇に歯を立て、驚愕に開かれたわずかな隙間より、口内へ容赦なく侵入してくるもの……ぬるりとした舌が、穂花のそれを絡め取る。
同時に痛いほど抱き込まれ、胸を押し返そうとした手が宙を掻く。
「……っはぁ……んっ……んんっ……」
甘ったるい吐息が口内でくぐもり、鼓膜を犯す。
蹂躙するような口付けは、執拗に繰り返された。
嚥下の暇さえ与えられず、誰のものかわからない唾液があふれ、顎をつたう。
まさに溺れるような口付けであった。
「ふふ……そう……わたしに身を委ねてくださいまし」
酸欠によって朦朧とする意識に囁かれるは、歓喜の言葉か。
「貴女様は厭だ厭だと仰りつつも、とても可愛らしく啼かれるので……今宵も愉しみじゃ……」
うっとりとした睦言のかたわらに、寝間着の帯がほどかれる。
くつろげられた純白の袷。あらわになる胸許。
「――お声、我慢なさらないでくださいね?」
最後に告げた唇が、胸許の蕾へふれる。
その熱たるや、烈火のごとき。
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