*17* 面の秘密 

 用意されていたのは、目眩がするほど美しい紅蓮の花びらが浮かべられた、椿風呂。

 平生から庭の生け垣を丹念に手入れしている紅であるから、彼としても自慢の花湯船に違いない。

 椿風呂を堪能した後は、肌襦袢はだじゅばんに袖を通すなり、紅につかまる。

 自室へ直行してされることとなれば、やはり紅の手によって、念入りに髪をとかされる以外になかった。


「穂花の黒髪は、この世で最も美しいですな」

「おかげさまでね」


 こうした髪の手入れは紅の日課らしい。愛用のつげ櫛には椿油が染み込ませてある為、椿風呂上がりの今日に至っては、このまま椿になってしまうのでは、と思ったほどだ。


「ねぇ、紅。さっきからものすごく気になってること訊いてもいい?」

「如何なされたか」


 髪を梳く仕草は実に上機嫌で、まるで感触を楽しんでいるかのようだ。

 好きにさせたまま、鏡越しに問いかける。


「お面、またつけてるんだね?」


 秀麗なかんばせの右半分を覆い隠す狐の面。昨晩、紅自身が取り払ったはずのそれは、定位置におさまっている。


「これは、まじないです」

「おまじない?」

「わたしも……かつてはサクヤと同じ、菫の双眸をしておりまして」

「じゃあ、赤い瞳は生まれつきじゃないの?」

「然り」


 紅が語るには、こうだ。

 自分は生まれつき嫉妬深い性分であるらしく、それを戒める為、父のオオヤマツミが術をかけた。

 ――そねみやねたみは見苦しい。

 この先もし嫉み妬むことがあれば、嫉妬の烈火がその身に刻まれるだろう、と。


「……サクヤは幼少より華がありましてな。我が故郷、高千穂の国津神たちも、口を開けばサクヤ、サクヤ。それが妬ましく、桜のように散ってしまえばいいのにと、言霊にしてしまったことがございました。子供の癇癪に違いありません。そのとき、頬に芽生えた紅蓮の蔓が、見る間に根を張り巡らせ、左眼を嫉妬の炎色に染め上げてしまったのです」

「そんなことが、あったなんて……」


 なんと返せばよいのかわからず、閉口した背後で、自嘲気味な笑みがこぼれる。


「醜いでしょう? 内も外も……わたしは恥ずかしゅうて、顔のすべてを面で覆っておりました。それだのに貴女様ときたら、わたしの素顔を見たいのだと仰られて……挙げ句の果てには、この紅蓮を〝綺麗だ〟と――」


 耐え忍ぶような沈黙を経て、震える草笛が奏でられる。


「醜いわたしを……貴女様は見つめてくださったのです」


 いつしか、髪を梳かれる感触は遠のいていた。


「……貴女様は、誰にでも分け隔てなくお優しかった。それを愛ゆえと履き違えて……見返りを欲すが為に、厭がる貴女様を幾度も愛した。……傲慢でございますよね」

「愛は、あった。ただ少し、すれ違ってしまったんだわ」


 口を衝く言葉。次いで追いついた思考にも、確信が含まれていた。

 記憶はなけれども、本能がそう告げているのだ。


「本当に……穂花は、わたしの欲しいひと言をくれる」


 さらり、さらり。髪を梳かれる感触が再びおとなう。

 木ではなく、指先の繊細な仕草で。


「……わたしとて、嫉妬に狂い、弟を手にかけてしまった罪の意識にさいなまれなかったわけではありません。けれど天が、永久を司るわたしの死をお赦しくださらない。なればせめてもと、この狐の面を」

「それが、おまじない?」

「えぇ……わたしは、嫉妬を抑える術を知りません。抑えられぬなら、あの子と同じ菫を護ろうと……まだ、ただのわたしであったときのわたしを神力ごと封じ、紅蓮の蔓に捕らえられぬよう、眠らせておるのです。……いまとなっては、気休め程度にしか意味を成しませぬが」


 面自体に大切な思い容れはないが、己にとってなくてはならぬものだと、紅は静かに紡ぐ。

 どの記憶を遡っても、穂花の脳裏には、面をつけた紅の姿しか映らない。

 それほど、心の奥底では、サクヤのことを大切に想っていたのだ。


「紅の気持ち、さくもちゃんとわかってると思うよ」

「……でしょうな。あの子はなにをされても、争いや憎むことを厭う、純粋無垢な性分ですから」

「仲直りしてね?」

「……尽力、致します」

「あはは! 紅って、意外なとこで不器用だよねー、よしよし」

「……子供扱いする穂花はきらいじゃ」


 唇を尖らせながらぎゅう、と首に抱きついてくる天の邪鬼な神が、可愛らしく見えて仕方がない。

 ほだされてるなぁ、と苦笑を漏らしつつ腕を回し、背中に拍子を刻む。

 しゃらりと鈴の音を伴って見合せられたかんばせは、花の笑みをほころばせていた。


「そうだ紅、もうひとつ訊きたいことがあるんだ」

「なんでしょうか」

「さっきお風呂入ってたときに、気づいたんだけど……」

「――穂花」


 たったのひと言ふた言で、紅は穂花の言わんとすることを汲み取ったらしい。

 みなまで言うなと、ぴんと張り詰めた音色で名を喚ばれる。


「……そのお話は、食事の折りに致しましょう。すぐに膳をととのえて参りますゆえ」

「うん……?」


 一旦話を終わらせる意味を、穂花は理解出来ない。

 ただ、紅がどこか物悲しげな表情を浮かべていると気づくのに、精一杯であった。




  *  *  *




「こんなときだし、ただ事じゃないのは、私もわかってるけど……」


 報告が出来れば良かった。〝それ〟がなにか、紅だってわからなくともおかしくはないのだから。

 だが先ほどの様子から察するに、彼はおそらく知っている。〝それ〟がなんであるのか。

 ――紅が退室した後、早々にレースワンピースへ着替え終えた。

 静まり返った自室で、畳の上に膝を崩し、純白の裾をたくし上げる。


「……青い、花」


 右脚の甲に、見憶えのない刻印がひとつ在る。

 その蕾は頑なに閉ざされ、ほころぶ気配はない。


「〝花を、咲かせた者の勝ち〟……」


 半月の闇夜に交わされた誓約を、気づけば繰り返していた。

 確証はなかったが、先ほどの紅の様子から確信した。自分の考えはおそらく間違ってはいないと。

 となれば、この青い蕾が持つ意味は――……


「なやみごと?」


 ……不意の問いかけであった。

 男声か、はたまた女声か?

 硝子を鳴らしたような澄んだ声音は、聞き慣れない。


「あっ、びっくりさせた? ごめんね」


 控えめな謝罪が聞こえるほう、部屋の入り口へと視線を向けた穂花は、そこで佇む人影に、目を丸くする。


「えっと……おへや、入ってもいいかなぁ?」


 見たところ、年はそう変わらないように思える。が、いかんせん言葉がたどたどしい。ひと言ひと言を紡ぐのが、一苦労であるように。

 若草色を貴重とした菊と唐草模様の織布で束ねられた髪は、晴れた空の色。柔らなまなざしは、木漏れ陽を映し込んだかのように深みのある緑。

 中性的な顔立ちゆえ、性別は定かではない目前の存在が、人ならざるモノであることはわかった。三角に尖った耳と、額に生えた二本角が、すべてを物語っている。

 座敷わらしだとか、ちょっとした妖とならば、子供のころに遊んだことがある。

 鬼の子だろうか? 曖昧な推測を巡らせながら、穂花はおずおずとうなずいてみせた。


「どうぞ……?」

「ありがと!」


 行儀よくお辞儀を返されたところまでは、良かった。


「しつれいしま………わぁ!」


 ――絶句した。

 薄紫の裾をはためかせて3歩も進まないうちに、なにもない場所でつまずかれたのだから。

 ぺしゃ、と顔面から畳と挨拶を交わした鬼(仮)へ、慌てて声をかける。


「だだっ、大丈夫!?」

「あたた……んー、だいじょぶ。よいしょ」


 むくりと起き上がってみせた鬼(仮)は、畳に正座をすると赤い鼻頭を擦り、ふにゃあ、と頬をゆるませた。


「こけちゃった。うっかりうっかり~」


 うっかりにも程がある。しかし本人が気にしてもいないようである為、あえてふれないでおくことにした。

 それにしてもなんだろうか、このゆるい空気は。


「えーっと、私に用事でもあるのかな?」

「うん、にーさまにごようじ!」

「にーさま……?」

「ににぎさまだから、にーさま!」


 どうやら、穂花のことは既に知っているらしい。そう理解したところで、気になることが。


「んー、たしかに正解だけど、にーさまって言うとね、なんとなく性別変わっちゃうからね?」

「じゃあ、ねーさま!」

「あはは……それでいいよ」


 まるで幼い子供との会話だ。どの方向に転ぶかまったく予想がつかない。

 当たり障りのない喚び方に行き着いた時点で、ひとつ問うてみる。


「きみはもしかして、鬼の子かな。男の子? 女の子?」

「おとこのこ。でもね、鬼じゃなくて、あおはみずち」

「男の子なんだ! ……って、ん?」


 たったいまサラリと、どこかで聞いたような単語が発されなかっただろうか。


「あお……みずち?」

「うんうん」

「螭の……蒼?」

「そうそう! 角がはえたへびの、あお!」


 ――絶句再び。

 頭を鈍器で殴られたようで、目眩すらする。


「嘘……だって蒼は、手乗りサイズの超絶癒やし系で……全然手乗りサイズじゃないわ!」

「ねーさま、ねーさま」


 錯乱の末、語彙の乏しい熱弁を奮う穂花へ、妖の少年が手招きをする。


「さわって、ほっぺ」

「ほっぺ……?」


 間近に見ると、両頬がわずかに変色しているのがわかる。淡い空色の光沢を放つそれへ、言われるがまま恐る恐るふれる。

 そして――全身に稲妻が走った。


「硬そうに見えて、ふにふにと意外にやわらかいこの感触……」


 幾度となくふれてきた自分が間違えるだろうか。いや、間違えるわけがない。


「蒼だー!」

「うん、あおだよぉ~」


 そう、蒼の鱗だ。目前にいるのは、蒼に違いないのだ。


「信じられない……まさか、蒼と話せる日が来るなんて!」

「あおもね、お話ししたかったの。それでね、ねーさまのこと、ぎゅーってしたいの」

「いやむしろ私がしたいです!」

「ほんと? じゃあして! あおもする!」

「きゃー! 蒼ったらかわい~!」


 母性本能をくすぐりにくすぐられ、破顔した穂花は、両腕を目一杯伸ばす。

 ぱぁ、と緑の瞳を輝かせた蒼がいざ飛び込まんというところで、襖が開き――


「失礼致します。食事の支度がととのいまし……穂花!? なりませぬ! そやつに不用意にふれては……!」

「へ?」


 室内の光景を目の当たりにするなり、血相を変えた紅が声を張り上げるが、手遅れであった。


「ぎゅう」

「むぐっ……!」


 華奢な腕がもたらすは、唐突な息苦しさ。例えるならそう、蛇に首を締め上げられているかのような。

 そういえば、蒼は蛇に良く似た妖だったっけ……とどこか遠くのように感じるうちに、酸素が底を尽く。

 やがて、糸の途切れたからくり人形のごとく、穂花の意識は暗転した。

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