*22* 遥かなる懐古【R15】

 にわかに巻き起こった深愛の嵐は、またたく間に乙女を呑み込んだ。

 いけない、駄目だと抵抗していたなけなしの理性も、いまとなっては意味を成さない。

 もう、まぐわってしまったのだから。


「……気持ちいいか?」


 わずかに離れた鼈甲の瞳が、熱を浮かべたまま問う。こくりと首を前に倒し、肯定を知らせた。

 散らされた花びらは元には戻らない。ひとたび諦めてしまえば、与えられる快楽に身体は満たされてゆく。


「……俺につかまれ。ゆっくりする。辛くなったら言え」


 一度交わった為か、受け入れられているという安堵の為か……

 制止の間もなく華奢な身体を暴いた真知まちの表情は、実に凪いでいる。

 彼は恐ろしくなるほどに、優しかった。

 ゆるゆると繰り返される律動に合わせ、寝台がきしりと鳴く。そしてほのもまた。


「あっ……ん……や、ぁ!」


 熱は溜まっていく一方であるのに、一向に発散させてはくれない。

 意地悪ではない。穂花の身体を大切に扱うからこそ。そうとわかってはいても、辛くて仕方がない。


「まちく……おねが、はやく……んっ」


 ろくに思考も回らない中、早く楽にしてくれとねだる。刹那、真知の整った造形がぐ、と歪む。


「ばか……あんまかわいいこと言ってると……っ!」


 自分の一言が、語尾ごと真知の理性を焼き切ったことを、いまの穂花に理解できるはずもない。

 辛うじてわかるのは、荒い呼吸の中、自分の名を喚び続ける声。


「穂花……ほのか、ほのか……っ!」

「まち、く……んんっ!」


 熱に濡れた視線を交わし、どちらともなく唇を重ねる。

 主導権を握ることが男の矜持だと、サクヤは話していた。では、閨において女の矜持とはなんなのだろう。

 少なくとも、抱かれながらちがう男性へ想いを馳せることだとは、到底思えなかった。

 そんな雑念を悟られぬように、自ら唇を開き、熱い舌を迎え入れる。

 昨晩までは、たしかに生娘であった。甘えたような吐息を漏らしながら舌を絡ませるいまは、自分の使い方を良く心得た、浅ましい女だ。

 この姿は、真知の望むように映っているだろう。しかし本心では、哀しさと申し訳なさで感情がない混ぜだ。愛しいのかは、よくわからない。

 幾ら愛していると囁かれても、同じ言霊を返す準備がととのっていない。

 にも関わらず、肉体の快楽だけは享受するのだ。これが浅ましくなければ、なんとする。

 嗚呼……厭だ。たとえ天孫ゆえと全てを赦されるとしても、自分で自分が赦せない。


「ほのか……力を、抜け……っ」


 切なげに訴える額には玉の汗。真知も限界にちがいなかった。

 意図して出来るならば、喜んでそうしよう。自分は器用ではないから、子供がするようにいやいやと首を振り、わけもわからないままにしがみつくのみ。


「っ……おまえな……かわいすぎだろ……止まらなくなる……っ」

「あ……ッ!」


 明らかに動きが変わった。

 それまでの慈愛で満たすようなものとはちがう。ただ、相手と高みを求める為だけのもの。


「ほのか……おまえは、俺のもの、だろ……?」

「んっ……わたし、は」

「約束したじゃないか……俺たちは、ずっと一緒だって……!」


 引き締まった裸体に掻き抱かれ、揺さぶられる。絶えず嬌声をあげさせられて、呼吸もままならない。

 真知も、荒い呼吸を整えようとはしない。熱に浮かされたように、切実に吐露し続ける。


「おまえの為なら、肩書きなんか捨ててやる……馬鹿にでも阿呆にでもなってやる……俺はっ……おまえ以外なにも要らないッ!」

「……あぁッ!」


 ――やがて、交わりは最奥まで。

 明滅する視界。

 それは、電撃に麻痺したようでも、津波に溺れたようでもある。

 気づけば、筋肉質な背に爪を立てていた。自分の悲鳴に混じって、熱い呻き声が耳朶にふれ――


「……お、れが……まもる」


 たったひと言。そのうわ言が、戦慄を走らせる。


〝おまえのことは、俺が守ってやるからな〟

〝だから、なにも心配しなくていい……〟

〝天孫じゃないおまえを愛してる――ニニギ〟


 ……そうだ。遥か昔、彼は約束してくれた。

 あのとき、ニニギじぶんはなんと返したのだっけ。

 ――〝ありがとう〟と、泣きながら頬笑んだのだっけ。


「……私もだいすきです、おじさま」


 ぽつりとこぼれた独り言に、耳許の呼吸が一瞬だけ止まる。


「……失礼な。俺はまだまだ若いって言ってるだろ」


 言葉とは裏腹に破顔した真知の鼈甲が、とびきり甘く蕩ける。


「せめてお兄さんと言え。ばーか」


 そうして落とされた口付けは、泣きたくなるくらいに、懐かしい味がした。




  *  *  *




 高天原へやってきて、何日経ったのだろう。

 陽が落ち、昇る様を何度か目にした気もするが、ここは天界。自分が暮らしていた地とは、時の流れがちがうかもしれない。

 ぼんやりと物思いにふけっていると、扉を叩く音に意識を引き戻される。


「起きてるか。入るぞ」


 うん、どうぞ、と返しながら、笑いがこぼれた。

 ここはもとより真知の部屋なのだから、わざわざ断りなど入れる必要はないのに。

 入室してまず、真知は腰に提げた剣を外す。

 彼いわく、帯刀はあくまで仕事装備の一部らしい。「自分は知恵の神だから性に合わん、邪魔だ」とぼやいているが。

 その邪魔極まりない仕事装備を投げ捨てた真知をよく見ると、なにやら盆を抱えているらしかった。


「茶ばっか飲んでても栄養にならないぞ。ほら、薬膳粥だ」

「え~、いいじゃない。美味しいんだし」

「つべこべ言わずに食べろ」


 ぴしゃりと叱りつけた真知は、これ見よがしに卓上へ盆を置き、向かいの椅子を引く。

 きちんと食べるかどうか見張るつもりでいるようだ。天下、いや天上の神様も案外ヒマなんだなぁと、今度は苦笑がこぼれた。

 れんげを手に取り、粥をひと口掬う。

 真知お手製のものであるから心配はしていなかったが、予想通り健康的な苦味を仄かに感じただけで、それは喉を滑り落ちていく。

 空腹だという自覚はなかったものの、温かく満たされる感覚を見ると、どうやら身体は拒んではいないようだ。


「まちくん、美味しい」

「……そりゃどうも。新しい茶を淹れてやるから待ってろ」


 口早に言いながら、真知は手際よく茶器の用意をととのえてゆく。照れ隠し、なのかもしれない。

 穂花は一度れんげを置くと頬杖をつき、その手許を眺める。

 ここへ来て好んで口にしていた茶は、せっちゃというらしい。

 湯飲みの中にころんとした蕾が在って、黄金色の茶を注ぐと同時に蓮に似た紅の花が開く。

 その様たるや、黄昏に輝く夕陽の如くなりというのが、名の由来なのだとか。味はジャスミンティーと似ている。

 上手く淹れるにはコツがあるらしい。が、教えてくれとせがんでも「大人しく世話を焼かれてろ」と真知は首を縦に振ってはくれない。

 その言葉通り、穂花の身の回りの世話のほとんどをひとりでこなしていた。彼が仕事に赴くしばらくの間は、部屋の窓から外の景色を眺めている。

 ずっと同じ場所にいて、息苦しくないとは言いきれない。けれども、未知の世界へ踏み出してゆく勇気と気力が、穂花にはなかった。


「穂花、おまえに会いたいと抜かしているヤツがいる」

「……え?」


 だからこそ、真知の発言をすぐには理解できなかった。


「誰かっていうとまぁアマテラスなんだが、会う必要はないぞ。馬鹿が感染る」

「あはは……一応私のご先祖さまなんだけど」

「あの馬鹿が言うには、愛しい孫とお話がしたいんだと。今度食事でもしながらと言ってるが、どうする」

「んー……せっかくだけど、また機会のあるときにってお伝えしてくれる? ……体調が思わしくないときに行っても、ご迷惑なだけだろうし」

「あぁ、それでいい。無理はするな。アマテラスにはそれとなく伝えておく。納得するだろ。馬鹿だから」

「も~、まちくんったら」


 一夜を共にしてからというもの、真知はより一層過保護になった気がする。

 身の回りの世話然り、ひと言ひと言が、深い愛に満ちあふれている。

 穂花の身体を気遣い、あれ以来肌を重ねることもしない。当然と言えばそれまでだが。


「穂花」

「なぁに?」

「抱き締めても、いいか」


 夕輝茶をひと口含んだところで、そう提案された。


「いまさらだねぇ。変なの」

「じゃ、遠慮なく」


 すぐに、ふわりと真知が香る。

 椅子に座る穂花を包むのは、強すぎず弱すぎない、絶妙な腕だ。

 右手で飴色の髪を梳きながら、左手で筋張った背をなでる。


「お仕事で疲れたの?」

「これから疲れる予定だな。……しばらく空ける。俺がいないからって、寂しくて泣くなよ」


 もしや真知は、不在の折りにまた自分が離れていくのではと、危惧しているのだろうか。

 一度、湯飲みの中に咲く紅の花を見やる。

 そしてすぐに、真知へと顔を寄せた。


「大丈夫……私はどこにも行かないよ」


 額と額をふれあわせ、努めて穏やかになだめる。

 そう……どこにも行きはしない。

 もう、行けないのだ。




  *  *  *




 静寂の部屋に、扉を叩く控えめな音が響く。

 真知ではないはずだ。散々抱き締めて、いましがた漸く出かけて行った彼であるから。


「どうぞ」


 椅子に腰かけたまま、返事のみをする。

 この部屋に鍵は存在しない。真知が認めた者のみしか出入りは赦されないよう、術をかけられているのだ。

 失礼致します、との断りがあって、静かに扉が開く。入室してきたのは、この邸で働く女官のようであった。湯浴みの際に何度か世話になっている。

 ここの使用人、いや使用神たちはみな、なんらかの方法で顔を隠している。真知の意向らしいが、理由はわからない。

 目前の女官も例に漏れず面で素顔を隠していたのだが、ふと違和感を憶える。思わず椅子から腰を浮かせ、確信した。

 元々数少ない女官の中に、自分より背の高い、女性にしては長身の神が、果たしていただろうか。それにあの狐の面――

 息を呑んで目を凝らした、そのときだ。


「ご無事だったのですね!」


 狐の面を早々に取り払い、彼の神は素顔をさらす。

 穂花は瞠目した。桜も恥じらうそのかんばせは、まぎれもなく。


「――さく!?」

「はい、サクヤにございます。お迎えが遅くなってしまい、申し訳ございません」

「どうやってここに……べには? あおは?」

「蒼は妖でありますゆえ、高天原に足を踏み入れることは赦されません。ですが兄上は、こちらに。いまは訳あって、行動を別にさせて頂いているのです」


 ――紅が、ここに来ている。

 胸がざわついた。歓喜とも言うか。だがそれもつかの間。


「貴女様がご無事で、本当に良かった……再会の喜びに浸りたいところですが、どうぞこちらへ。まずは邸を出なければ」


 手を取るなり、穂花を連れ出そうとするサクヤであるが、事はそう上手くは行かない。


「待って、私は行けないわ!」


 ほかでもない穂花自身が、抜け出すことを拒んだ為。


「それは……何故です?」

「まちくんの傍を、離れられないの」

「離れられない? なにか術でも施されたのですか? ですが、オモイカネ様がそのように強引な真似をなさるとは……」

「ちがう、そうじゃないのよ」

「どういうことですか、穂花……?」


 問われている。答えなければならない。

 答えられるのだろうか? 嗚呼それでも……

 サクヤだからこそ、伝えなければならない。


「さく、私――赤ちゃんが、出来たの」


 菫の双眸が極限まで見開かれる。

 心根の優しい彼は、咎めないだろう。

 だからきっと、哀しませてしまう。

 ……それが哀しくて、息苦しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る