*24* 大馬鹿者のしあわせ
「赤ちゃんが、出来たの」
誰との、とは、言わずともわかるだろう。
心優しい神は決して怒らず、気丈に祝福してくれるのかもしれない。
「赤子……ですって……?」
しかしながら、サクヤの反応は予想に反していた。
見るからに頬は強ばり、声音も震えている。
「
「どこって……ここに、たしかに」
「――ッ!!」
……なにがどうしてそうなったのか。
己が言葉のどこに着火点があったのか、穂花には理解出来ない。
「失礼致しますっ!」
え、とこぼしたときにはすでに、信じられないほどの力で身体を反転させられていた。
なにが起こった? 意味がわからない。
シュル……と寝間着の帯をほどかれる音で、我に返る。
「ちょ、さく! どうしちゃったの!?」
「大人しくなされませ」
「ひゃっ……ダメだってば……っ!」
はっきり言おう。サクヤらしくない。
振り返ることすら許されない状況が、余計に恐怖を募らせる。
見る間に寝間着を脱がされ、上半身があらわになる。
羞恥で熱いはずの身体ながら、丸めた背筋は凍ったようだった。
けれども、それ以上にふれるものはない。
痛いほどの視線を、背中に感じるだけだ。
「……僭越ながら、この場を持ちましてわたくしコノハナサクヤヒメは、オモイカネノカミ様を、軽蔑申し上げます」
「…………え」
鼓膜にふれた声音は、いつもの音色だ。
いや、いつもの響きの中に、怒気がにじんでいる。
困惑のうちに、剥き出しの肩をふわりと包むものがある。脱がされたはずの寝間着だ。
「こちらを向いて頂けますか、穂花」
手際よく寝間着をととのえながら、サクヤが名を喚んだ。
恐る恐る向き直った穂花の前には、ゆらめく菫の双眸が在った。
「手荒な真似をしてごめんなさい。つい頭に血が上ってしまい……」
桜の袖で頬を撫でながら詫びる姿は、見慣れたサクヤのものにちがいない。
にわかには信じがたいが、
「なんで、こんなことを……?」
「……良いですか穂花、私は生命を司る神です。ですから、これから私が申し上げますことを、しかとお聞き届けください」
胸がざわめく。
なんだろう……わからないけれど、なんだか、聞きたくない。
「こちらにおわす生命は、ただひとつのみです」
「…………」
「オモイカネ様が虚言を仰られるなど、私も信じられません。ですが」
「……さく、やめよ?」
「紛れもない事実です。あの花が示していたことは」
「もういいから……っ!」
「穂花! 逃げないで。私の眼を見て」
逸らそうとした顔は、存外強い力に行く手を阻まれてしまった。
両頬を桜の袖に捉えられて、視界がにじむ。
厭だ、聞きたくない、厭だ――
「御身に新たな生命は見受けられません。御子様など、はじめからいらっしゃらないのです。わかりますね――穂花?」
――嗚呼、聞きたくなかった。
* * *
コツ、コツ、コツ――……
無機質な大理石が、淡々と打ち鳴らされる。
颯爽と回廊を進む真知。翻る若草色の裾からは、重厚な鞘がかいま見える。
穂花と別れ、再び帯刀をした真知は、己が邸の門をくぐらぬうちに、ぴたりと革靴の底を大理石に留め置いた。
「これはオモイカネ殿。お出かけでございますか。供もおつけにならないとは、感心致しかねますな」
たしなめているわりには、おかしげに震える音色だ。
さながら、滑稽で仕方がないとでも言うように。
「その供を悉く黄泉送りにしてくれたのは、どこの神だろうな」
「おや酷い。まるでわたしが狂乱者のようじゃ」
わざとらしいと嘆息をまじえながら、鼈甲の瞳が3歩先の床を一瞥する。
大理石に散らばるは、ちりちりと燻る炭。
硝煙にも似た燃焼のにおいが、鼻腔まで焦げ付かせるかのようだ。
風の通らない屋内。かろうじて人型を保つ消し炭の残骸が散在する中で、美しい少年の姿をした神は頬笑んでいた。
「邪魔でしたので、掃除をさせて頂いただけ……土人形ごときに、情けなど必要ありますまい?」
草笛を響かせ、
振り向いたかんばせは花のような笑みでありながら、紅玉と菫の瞳からは、底知れぬ輝きが放たれている。
「……いちいち術かけんのも楽じゃねぇんだぞ」
これ見よがしに肩を竦めてみせた真知は、足許で燻る炭くずを踏みつけ、大理石に擦りつける。
面の原型すら留めていないのだ。どうしたって使い物にはならないだろう。
――この邸で下男、下女として身を置いていたモノはみな、真知が作り出した、物言わぬ土人形だ。
そこらの神と遜色のない働きをするが、ひとたび面を外せば、術がとけてしまう。
今回ばかりは紅の餌食になったらしく、術をとくというよりは、問答無用で文字通り土へ還らされたようだが。
「悪いが、おまえの相手をしてるヒマはないんだ。茶なら自分で淹れてくれ。淹れられるもんならな」
念の為、争うつもりはない意を表する。
しかしながら、その言動は紅から笑みを奪う。
「……穂花は」
「俺の部屋だ。どうせすぐにおまえの弟が見つけるだろ。……あとは好きにしろ」
「オモイカネ殿」
草笛の音色には、名を喚ばれただけだ。
だが、すれちがい様の真知を引っつかみ、決して離さない威圧感が、そこには宿っていた。
「……〝まちくんの花はなんだった?〟と、訊かれた。俺は答えることが出来なかった。……〝そういうこと〟だ」
遅かれ早かれ知られることだ。ならば直々に話して聞かせようではないか。
「どんなに優しく抱いても、かろうじて白い蕾であることがわかるだけ。……花は、咲かなかった。なら、俺が辿るべき道はひとつだろ」
「……貴方様のことですから、穂花にはお伝えしておられないのでしょう。蕾の行方も――貴方様がタカミムスビ様の矢返しに遭われるということが、どのような意味を持つのかも」
「余計な真似はするなよ。あいつは知らなくていいことだ。親父の手を煩わせるつもりもない」
「有終の美でも飾るおつもりか。――嗤わせるな」
ついに、着火してしまったらしい。
これからどう釈明しようが、点いてしまった導火線はどうにもならない。
「穂花だけを愛しておられるのでしょう。幾度となく伝えられたはずじゃ。その舌の根も乾かぬうちに、黄泉の女王相手に不貞を働かれるか」
「……酷い言い様だな」
「同じことじゃ。残された穂花はどうなるのです? 夫婦にはなれずとも、血を分けたご家族を失うことになるあの方のお気持ちは? 貴方様が――実の父君の矢によってお隠れになったと知られたときの、哀しみは?」
「……知るかよ。そんなもん」
嘘だ。知っている。
どうなるのか、容易に想像はつく。
だからこそ、思考することが億劫であるのだ。
それでも尚思考せよと申すのか、この神は。
「俺はワカヒコに……かつての旧友に会いに行くだけだ」
「体のいい戯れ言じゃ」
「五月蝿いな! そうでも考えないとやってられねぇんだよッ!!」
嗚呼、なんて滑稽だろう。
こんなに声を荒らげて、クールじゃない。
自分は知恵の神。
どんなときも冷静でいなければならないのに。
「穂花は優しいから、俺を不憫に思ってくれているだけだ……俺ばっかり好きで、どうしようもなくて……抱けば抱くほど、あいつの心だけは手に入れられないことを痛感した……俺は死ぬことよりも、穂花に拒絶されてしまったことが、こわい…………俺には、穂花しかいないのに……っ」
繋がりを保つ為に、子供が出来たなどと嘘をついた。
矜持などかなぐり捨てて、悪知恵ばかり働かせた。それで穂花が手に入るのならば、と。
藁にもすがる思いだったのだ。
だが、所詮は咲くことの赦されない運命。
こうして子供のように愚図ることしか出来ない自分は、あとは幻滅されるのみだろう。
……そんな悪夢が現実となる前に、散らせてほしい。
「馬鹿馬鹿しい。貴方様は筋金入りの、大馬鹿者ですな」
「おまえな……最期だからって、好き勝手言いやがって」
「えぇ、この際ですから申し上げます。穂花を舐めるな、この大馬鹿者!!」
天も国も関係ない。神であることさえも。
この場で対峙するのは、真知、紅という、男と男だ。
「たしかに蕾は咲かなかったことでしょう。ですが、穂花が一度でも貴方様に〝嫌い〟などと仰いましたか? 〝帰らせてくれ〟と泣き寝入りをしましたか?」
真知は答えない。答えられなかった。
それが意味することを考えるのに、必死で。
穂花が自分を憐れんでのことでなければ、一体……?
「貴方様といることを選んだ。受け入れた。戸惑いながらも、穂花は育てようとしていたのではありませんか。蕾を」
「――っ!」
「穂花が咲かせようとしていた花を、貴方様は御自ら散らそうとなさっているのですぞ。これを大馬鹿者と言わずなんと言うのです!」
剣を突き立てられたわけでもない。
それなのに、貫かれたように胸が痛い。呼吸が出来ない。
「……わたしにも、わたしの所為でこのような事態を招いてしまった後悔がございます。穂花は、誰ひとりとして欠けることを望んでおられない……もう穂花の涙は見たくないのです。わたしもゆきます。共に抗ってみませんか、天に」
永久を司るイワナガヒメと言えど、その生涯は、別天津神、タカミムスビの子である自分には遠く及ばない。
言うなれば、年下もいいところの子供に説教をされているようなものだ。
嗚呼、可笑しい……
「穂花にふれたいよ……離れたくない」
震える声音は、何千年と生きてきてはじめて耳にする、自分のものだった。
「死ぬのは厭だ、穂花と会えなくなる……死にたく、ない……!」
堰を切った言葉は、留まることを知らない。
矜持など、もうどうでもよくなった。
視界がにじんでなにも見えないから、紅が見ていようがいまいが、知ったことか。
「おまえと、生きてたいよ……ほのかぁ……っ!」
言うだけなら。口にするだけならタダだ。
思考のすべてを投げ捨てた真知は、失念していた。
言霊というものの存在を。
「――死なせないよっ!」
まなじりから雫がこぼれ落ち鮮明となった視界に、なびく射干玉の髪。
誰よりも愛しい少女が自ら腕の中に飛び込んでくる光景は、夢にちがいない。
嘘つきで大馬鹿者の自分に、こんなしあわせが訪れるはずがないのだから。
「死なせないから、絶対……!」
……それなのに、酷く胸が苦しくて、痛かった。
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