*6* 茜の蜜語

べにがいないなんて、明日は雨?」


 口を衝いた言葉に、3拍置いて勢いよくかぶりを振る。

 茜に濡れる校舎裏にて、ほのは独り。昼休みに別れて以来、紅と顔を合わせていないのだ。どんなときも傍を離れず、常人の眼に映らぬのを良いことに教室にさえ居座る付喪神が。


「別に、寂しいわけじゃないし……っ」


 鬱陶しいほど傍にいるものだから、いないと調子が狂うだけだ。他意はない。

 雑念をも一掃するように、足許の落ち葉を竹箒で掃く。

 一瞬後には謎の疲労感に襲われて、盛大な嘆息をもらしたが。


「掃除したり落ち込んだり、忙しいなおまえ」

「ふぇっ!?」


 完全なる不意討ちに、文字通り飛び上がってしまう。

 淡々とした口調は相も変わらずで、好んで穂花に話しかけてくる人物といえば、ひとりしかいなかった。


「ま、まちくんじゃない……!」

「幽霊でも見るような眼はやめろ」

「ビックリしたんだもん……いま帰りなんだ」


 野暮な話だとは内省した。学校指定の通学鞄を提げているのだから。

 その辺の不良もどきならばひと睨みで退散させる風格を持つ真知まちであるが、動ではなく静のひとだ、と穂花は思う。

 こう見えて頭脳明晰、定期テストでは不動の学年首位らしい。本人が言わずとも狭い鉄筋コンクリートの中、どこからともなく風の噂は吹き抜ける。

 友人や教師から生徒会役員に打診されたこともあると聞くが、先頭を切ってなにかをおし進める性分ではないからと、辞退したとのこと。


「今日は早いんだね。図書室に寄らなかったの?」


 これも意外や意外。穂花と話すとき以外は読書と言っても過言ではないほど、本の虫である真知だ。放課後は専ら図書室に入り浸っている。

 おまえまで付き合うことはない、というか早く帰れ、とこのときばかりは口うるさくなるので、帰りを別にしたことは記憶に新しい。

 そんな中、あの真知が下校時刻でもないのに帰路に着くだなんて。紅といい揃いも揃ってどうしたのだ。明日はあられか。

「ん」とも「あぁ」とも聞こえる生返事をしながら、鼈甲の瞳が、大粒の琥珀をまん丸に見張る穂花を見つめ返した。


「今日は用事があるからな」

「へぇ! なんの用事?」

「気になるなら、いっしょに帰るか」


 予想だにしていなかった提案である。

 真知といるのは楽しい。けれども現実は首を縦に振らせてはくれない。


「残念でした。私、超多忙なの。今日なんかお掃除の助っ人任されちゃって!」


 溌剌はつらつと笑い飛ばしてみせる。表情筋を最大限に駆使して。

「ふぅん」とうなずいた真知は、次いで竹箒を掲げる穂花を喚ぶ。


「ドヤ顔のところあいにくだけど、葉っぱついてるぞ」

「えっ、どこどこ!?」


 慌てて髪を探るが、真知はふるふると首を横に振るばかり。どうやら見当違いな場所をさわっているらしい。


「ほら、こっちこい」

「へっ、まちくんっ!?」


 通学鞄を地面に置くやいなや、穂花の腕を引く真知。

 後ろを向かされては、端正な顔に見つめられるはずもないというのに、何故か身体が火照る。

 見てはいないが、見られている為か。ともすれば穴が空いてしまいそうだ。

 奥歯を噛み締め、竹箒を握り締め、羞恥に耐える。髪にふれる手は休まない。

 もう少し、いま少し……と我慢を重ね、数十秒が経ったであろう頃。頭を撫ぜる手は、やはり休まない。

 まだ木の葉が取れないのだろうか? いや、自分がよく知る真知は不器用ではない。


「……なにしてるの?」


 いよいよ異変を感じ、こわごわと問う。


「おまえは、なにをしてると思う」


 質問返しなんてずるい。馬鹿正直に反論したところで、真知を論破できるはずもない。

 とはいえ働かす知恵もなく、ありのままのことを口にする。


「髪を、梳かれてる気がします……」


 すると、ぽんぽん。頭を撫でられた。よくできましたと、幼い子にするように。


「ん……正解」


 待って、後ろにいるのは紅じゃなくて真知くんよね? あっけに取られながらも自問する。

 耳許をくすぐる囁きが真知のものだと、すぐには理解できなくて。


「悪い、葉っぱってのは嘘。どうしてもさわりたくてな」

「っ……私の髪って、そんなにいいもの?」

「あぁ、手触りがいい。気持ちいい」


 ……絶句した。

 どこかの付喪神とは違い、年上として、甘やかすことはあれど甘えることはなかった真知であるのに。

 しかしながら、鼓膜ごと溶かす甘い響きが、たしかに真知のものであることも事実。


「穂花、16歳の誕生日おめでとう」

「あっ、そうだっけ!?」

「そうだ。俺は覚えてたぞ。……これで心置きなくふれられる」


 明らかに声色が変わった。ざわ、と胸がさわぐ。


「まちく……」

「穂花、ふれてもいいだろ。なぁ」


 肯定以外は聞き入れそうにない雰囲気だ。

 はっきり言って、真知らしくない。思慮深い彼が、興奮とも取れる衝動に流されるわけが。


「穂花、穂花……ほのか」


 熱っぽく喚ばれ、どうして平常を保てよう。

 背を駆け抜けた電流に身体が跳ねる。その拍子に振り返ってしまった。その先に、誰がいるのか考えもせず。


「真っ赤だ。穂花……かわいい」


 鼈甲の双眸は、完全に蕩けきっていた。

 手遅れとは、このことを言うのだ。

 未だかつて見たこともないほど破顔した青年の腕に抱き寄せられる。

 ただただ意味がわからない。混乱の極みだった。


「ま……ちく……なんで、いきなり」


 やっと絞り出した言葉は、黄昏の静けさにすら消え入りそうだ。


「いきなりじゃない。ずっと想ってた……気が遠くなるほど昔から」

「むか、し……?」

「あぁ。何度もおまえを失って、死に物狂いで探して……りんの果てに、漸く探し当てたんだ」


 真知はなにを言っているのか。まったく理解できない。


「好きだ……」


 ……どうして。


「愛してる……」


 何故なのだろう。

 居心地のよかった日々はどこに。

 熱っぽいまなざしを注がれるほど、凍えてしまうのは、どうして。

 発声法を忘れ去った穂花になにを思うたか。視線を伏せた青年は、強張る頬へふれてくる。


「愛してるんだ……俺の……ニ…………ト」


 聞き慣れない単語の全てを拾うことは叶わなかった。切実な言の葉は、もしや自分を喚んでいたのだろうか。

 けれど自分は葦原 穂花だ。それ以外の何者でもない。


「……たし、はやく、かえらなきゃ」


 ほぼ無意識のうちに身をよじっていた。

 一刻も早くここを去らなければ。動悸にも似た警鐘がやかましく鳴り響く。


「厭だ、帰るな。帰らせない。俺といろ」

「ダメ、紅が怒っちゃう……」


 口走り、我に返る。

 誰だ、それは。続くはずの言葉は、ない。


「……あの神か」


 半音下がった声音が、言外に知らしめる。

 紅の存在も、神であることも、既知だと。


「なんで…… 」

「知ってる。……おまえは知られたくないようだったから、視えないふりをしていたが……今朝のはさすがに腹が立ったな」


 反感をあらわにしながら、よりいっそう穂花を抱き込む真知。


「穂花、よく聞け。このままだとおまえは、あいつに殺されるぞ」

「なっ……」

「おまえの身体は、あいつの呪いに蝕まれてる。でも心配するな。俺が護ってやる。だから」

「紅は、そんなことしないっ!」


 ほぼ悲鳴の叫びであった。

 吹き下ろす静寂に、じわりと視界が滲む。

 反抗ばかりしていたけれど、紅のことは嫌いではなかった。いや、好きだった。

 家族を亡くした自分に誰よりも長く寄り添ってくれたのは、ほかでもない彼なのだ。


「おまえは、騙されてる」


 想い出は、即座に斬り捨てられる。あの頬笑みは偽りだと。

 信じた自分さえも、否定された瞬間。


「ちがう、紅は、やさしい……やだ……」

「穂花、待て」

「こんなの、まちくんじゃないよッ!!」

「穂花っ!」


 黒の艶髪を振り乱し、制止を振り切る。

 なにを信じればいいのか、もうわからない。

 無力な穂花にできることは、考えることを放棄し、がむしゃらに茜の校舎裏から逃げ出すことだけだった。

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