*7* 夕桜の邂逅
己は罪を犯したのか――否。
彼は不義を働いたのか――否。
誰にも落ち度はないはず。
それなのに何故、視線を逸らし、背を見せてしまったのだろう。
(
伸ばされた腕、悲痛な表情が、茜に焼きついて頭を離れない。
まるで咎人になったよう。我が身が可愛いばかりに、なりふり構わず他者の情を踏みにじる。
体よく逃げおおせたところで、罪悪感に呼吸を奪われるだけだというのに。
滲み、焦点の合わなくなった視界では、逃げ道を映すことすら叶わなくなる。
がむしゃらに四肢を突き動かした穂花は、肉体的にも精神的にも、限界を迎えようとしていた。
「鬼ごっこか」
不意の草笛は、
「わたしもご一緒させてくださいまし」
細まる紅玉は、黄昏時の陽だまり。
さやさやとそよぐ木の葉の影より、そ……と手のひらが差し伸べられる。
「おいでませ」
張り詰めた風船は、とうとう破裂する。
「……べにぃっ……!」
深く考えることもなく、夕照へ身を投げ打った。
重力に忠実な身体を、優しく、それでいて力強く抱きとめられる。細腕のぬくもりが、安堵の嗚咽をもたらした。
「っ……ふ、ぅうっ……!」
「嗚呼、そんなに泣かれては、瞳が溶けてしまう……わたしのかわいいひとを苛めるのは、とても悪い鬼のようですな」
――ちがう、ちがうの。そうじゃないの。
「ご安心なされませ。お傍には、この紅がおります」
蜂蜜漬けにするかのごとく、際限なく甘やかす。
豹変した真知をよそに、紅は平生と変わらぬ様子であった。なにを問うわけでもなく、穂花の背をあやすのみ。
ぬくもりにひとたび身を預けるだけで、ささくれ立った心の凪ぐのがわかる。
抱きしめられ、この上なく安堵している自分がたしかにいる。どうしてないがしろにできようか。
「紅を……悪く言われたの」
憤りというよりは、衝撃。そして落胆。
心を赦しきっていた真知本人の人格を厭うことだけは、ついぞできはしなかった。
「細君は、わたしのことで傷ついておられると」
「そう……なるのかな。哀しかったから」
「して、誰に?」
「――ッ!」
……失言だった。
失念していた。彼の神が常人の眼に映らぬことを。
それでも真知が、だなんて、口が裂けても言えない。
じっと見据える紅蓮の瞳に、冷汗がにじむ。
「まぁ……良い」
「紅、あのね、」
「良いのです」
語尾は意図せずくぐもる。
言葉の終わりを待たず、紺青の衣に顔をうずめさせられた為。
「嗚呼……嗚呼。細君が、わたしの為に……ありがたき幸せ」
草笛の声色は涙ぐんでいる。歓喜に打ち震えているのだ。
「それでよろしい。どうかわたしをお離しになるな。貴女様が望むすべてを、わたしが差し上げましょう。友愛も、親愛も……情愛も。ですから――わたし以外の何者も、欲されるな」
言の葉が宿す意味を、すぐに汲み取れなかった。ゆるりと視線を上げ、恍惚とした紅玉に理解が通る。
「友だちも、家族も……恋人も?」
まさか、そんなことはないだろう。
幾ら紅といえど、そんな過保護は。
「えぇ、えぇ」
ささやかな期待は、花の頬笑みに散らされた。
刹那、脳内が空っぽになる。吹けば飛ぶだろう身体は、
「そんな……できないよ。せっかくできた友だちを、裏切るなんて」
「友だち? あれが?」
あれ。
にこやかに紡がれた言葉には、鋭利な刃が添えられていた。隠そうともせず。
「なんとゆゆしき事……」
眉間を華奢な指先で押さえる紅。
するりと腕をほどき、嘆息混じりに膝を折る。
そうして拾い上げてみせたのは、先ほどまで穂花が手にしていたはずの竹箒だ。
「その友だちがいまどこにいるのか、なにをしているのか、ご存知ない細君ではなかろう」
勿論だとも。知っている。
急用ができた、本当に申し訳ないがと掃除を頼まれたのだ。
彼女が慌ただしく教室を出た足で、ほかのクラスメイトと共に街へ繰り出したことも。
昨日はショッピング、一昨日はカラオケだったか。
ようやくひと仕事を終えて帰路についた宵時、楽しげな笑い声と出くわして人混みへ逃げ込んだ穂花を、彼女らだけが知らない。
これが果たして友人関係と喚べるのか。その答えは、穂花が一番知りたかった。
「笑ってないと……独りになっちゃう、でしょ?」
声が揺らぐ。視界が震える。
「明るく笑って、歩み寄るの。そうでもしないと……聞こえるのよ……」
――葦原って、変わってるよな。
――独り言ばっか言ってるし。
――電波じゃん?
――あははっ、ウケる!
否……なにをせずとも、聞こえていたか。
「細君、
「――っ!」
冷めた紅玉で竹箒を見下ろしながら、紅は説き伏せた。
あぁ……知っていた。本当はわかっていた。
だのにこうして突きつけられた現実は、ものの見事に呼吸を奪う。
「だって私っ……さびしいの、いやだよ……どうすればいいの……っ!?」
もう、限界のようだ。
真知の前では張ることができていた虚勢が、崩れてしまう。
紅に殻を暴かれて、臆病な自分を引きずり出されてしまう。
自分は弱い。いつも独り。金切り声で喚き散らし、前に歩み出すこともできない。
ひた隠していた劣等感の塊が白日のもとにさらされるなど……なんて恐ろしい。
「なにを躊躇われる。そんな者、悉く切り捨ててしまわれよ」
それができたら苦心はないのに。
切り捨てる。すなわち、あとに残るのは孤独のみ。
それでも尚この付喪神は、そうせよと言い張るのか。
「独りではない。わたしがおります。あんなもの、ご覧になるな」
衣擦れの音を伴い、闇が
紺青の袖が、両のまぶたを覆った為に。
「でも……わた、し」
「貴女様が他者と相容れぬのは当然の理。生まれが違うのです。止ん事なき御方……」
耳許で奏でられる、甘い甘い、
「さぁ、しばしお休みになられませ。すべてを忘れて……」
「べ、には……」
「おりますとも。今宵、夢の通い路にお迎えに上がりましょう……」
子守唄の響きに、さらさらと髪を梳かれ、いつしかまどろみの世界へと
ほどなくして、かくり、と崩れ落ちる穂花。しかと抱き留めた紅は、袖を遠ざけ、紅玉を細めてみせる。
「……良い子じゃ。かわいいひと」
ひとたび呟き、無防備な寝顔に朱の唇を寄せる。下ろされた睫毛に絡む朝露を舐め取れば、甘い痺れがじんと腹に広がった。
快感。ふれているだけで、得も言われぬ高揚に満たされる。
「嗚呼……
動かぬ唇を、劣情の舌が舐め上げる。なぶるように、幾度も幾度も。
「早う、唇を重ねて――身体を重ねて。わたしに、寵をくださいませね」
蕩ける囁きを鼓膜に吹き入れ、美しい神は最後に極上の頬笑みを浮かべた。茜の逆光が、妖しい激情を隠す。
「――
風もなく、木陰が揺らぐ。
夕照の虚空より出でたそれは、大蛇に似た姿をしていた。
晴天のごとき
「我が細君を、お連れ致せ」
静かなる命令に、背後の影がとぐろを巻く。
脇の桜をも凌駕する幹は、その巨体に見合わぬしなやかさで少女を譲り受け、蒼き身体に巻き込んでゆく。
やがて茜へ溶け消えた気配に、紅は笑みを消す。
「貴女様の代わりに、わたしが掃除を致しましょう」
紡がれた言の葉に、もはや温度は存在しない。
散った桜を踏みにじるようにきびすを返した先で、ひとつ風が吹く。
刹那の折りに視界をくらませた夕焼けの向こうより見出だすは――飴色。
「……よう」
たった一言。以降は口を真一文字に引き結ぶ青年……真知を前に、狐の面から覗く唇がほころぶ。可笑げな、嗤い。
天道を歩く夕風に、面紐の鈴がしゃらり、しゃらり。
これぞ、因縁の邂逅。
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