*4* 菫の進言

 日本晴れをいただく屋上。南中した太陽とは対照的に、ほのの機嫌は最底辺を蛇行していた。


「私、どんどん自分がダメになってく気がするわ……」

「それは重畳ちょうじょう。今後とも全身全霊を以てお仕え申し上げるぞ」

「あのねぇ、べには私を甘やかしすぎだと思うの!」

わぎの為ではない。吾妹をどろどろに甘やかし、厭がる姿に快感を覚えたいが為。その証拠に、やめろと言われてすぐにわたしがやめたことはなかろう?」

「たしかに! 最低!!」


 ああ言えばこう言う。はじめから開き直っているこの変態付喪神は、さすが一筋縄ではいきそうもない。

 手持ちの重箱――ひとり用の小ぶりのもの――をちゃぶ台よろしくひっくり返しそうになるが、困るのは自分。ぐっと堪えるほかなかった。

 口ではなんと言おうが、穂花が食してくれることを知っていた紅であるから、給仕の意味合いも兼ねて傍近くで誇らしげに見つめていた。

 だし巻き玉子をえんし、脇に控える付喪神をそっと見やる。

 紅は家事から穂花の身の回りの世話に至るまで、なんでもそつなくこなしてみせる。口を挟む間もないほどに。これほど神らしくな……家庭的な神もいないだろう。

 否、神ゆえになんでもこなすことができるのか。成程、これぞ全知全能。


「吾妹、如何されたか? 急に黙り込みなさって」

「……」

「吾妹」

「…………」

「……構ってくれ、細君さいくん


 ……まずい、と箸の手が止まる。

 吾妹と喚ばれているうちはまだいい。しかし細君はどうだろうか。どちらも愛する女性の呼称であるが、前者は軽いたわむれ、後者は魅惑的な睦言というように紅が使い分けていることを、長年の経験から導き出していた。

 いつもいつも出し抜かれているのが面白くなくて、なんとなく無視をした結果がこれとは。

 沈黙をいぶかしんだか。紅は主の背へ近づくと、たまの長髪をそっと掻き分け、のぞく白いうなじに朱の唇を寄せる。


「我が愛しの君……あまり袖にされては、わたしも耐えきれぬというもの」

「でしたら、日頃の行いを正されては如何かしら」

「わたしは身を焼くような情愛を捧げているというのに、この想いは儚くも水泡に帰すのであるな。あな切なきや、切なきや……」

「ハイそこ泣き真似しない!」


 振り返りざまの容赦ない一喝に、紅は紺青の袖で覆った口許をあらわにする。形のいいそれは、悲相とは縁遠い弧を描いていた。

 穂花はこれ以上のやり取りは埒が明かないと判断。手早く重箱を風呂敷に包む。


「あまり食が進んでいないではないか。どちらへ」

「お花摘みに。ご馳走さまでしたッ!」


 すかさず続こうとする紅へ予防線を張り、駄目押しに風呂敷を押しつける。

 その心情はさながら、過保護な父や兄に対する反抗と似ていた。



  *  *  *



 穂花とて、紅へ不満ばかり抱いているわけではない。むしろ幼いころは良い遊び相手であり、家族であった。

 しかし時の流れとは無情なもので、十数年経った自分は高校生に、紅はなんら変わらぬ姿かたち、美しい少年のまま。

 いまでこそ同じ年頃であるけれど、過ごす時を同じくしても、人と神に流れる時間はまったく違うのだ。

 春を思うようになり、穂花は常々疑問に感じていた。神から見てぜいじゃくな人間に、身寄りのない孤独な小娘に、どうして見返りもなく尽くしてくれるのだろうか。

 紅はなにを以て、物心もつかぬ自分を主に選んだのか――と。


「……どうせ、すぐ消えちゃうのに」


 抑揚を失くした声音が自分のそれであることを、数拍遅れて理解した。

 そのときではないのに、性急な――

 あくまで未来の話をかぶりで振り払おうとしたときである。立ち眩みに見舞われたのは。

 妙に緩やかに床が迫る。あ、と意味を持たない音が漏れた後は、そういえば紅を置いてきたから、これはどうしようもないなぁと他人事のように思った。が、突如として浮遊感にさらわれる。


「……よかった。間に合って」


 聞き覚えのない男声であった。それなのに不思議と耳に馴染む、柔らかい響きの。


「顔色が優れませんね。歩けますか? ……葦原あしはらさん?」


 アシハラ、あしはら、葦原。自分の名字だ。喚ばれてようやく我に返った穂花は、現状を把握して悲鳴を上げそうになる。

 穂花のほうから抱きついているようにも見えなくもない状況でもし悲鳴を上げていたなら、見渡しのよい廊下に響き渡り、何事かと駆けつけた生徒ないし教師によってあらぬ誤解を招かれていたことだろう。


「ごごごっ、ごめんなさい私っ!」

「いえ、大丈夫ですよ」


 飛びのいた拍子になにかが背にふれた。制服越しの感触から、手のひらだろうか。それは穂花の両足がしかと床を捉えたとき、そっと離れていった。

 転ばないよう支えてくれたのだと理解すると、燃え上がるような羞恥が襲う。


「すみません、そそっかしくて……」

「知らない男にいきなりさわられたら、そりゃあビックリしますよね。僕のほうこそ失礼しました」


 居たたまれなかったはずなのに、朗らかな声音に誘われて、そろそろと視線を上げる。

 目前に佇むのは、やはり見覚えのない白衣の青年であった。20代前半……にしてはあどけないのは、声音と同様に柔らかな輪郭線の影響だろうか。

 絹糸のごとくさらりとしたすみれ色の髪、長い睫毛、淡雪の肌。どこを取っても、女性のような造形だ。


「僕の顔になにかついていますか?」

「いえっ……あの、すごく言いにくいんですけど、えっと……」


 穂花の言わんとすることを汲み取ったのか。中性的な美青年は「あぁ」と言葉を継ぐ。


「初めまして。僕はたか さくといいます。養護教諭として赴任してきました」

「養護教諭……あっ、じゃあ三浦先生、やっと産休に入られたんですね」


 三浦というのは、穂花の入学当初保健室に勤務していた若い女性養護教諭のことだ。身重であったが、後任が見つからない、となかなか産休に入れず……しかし朔馬が赴任してきたとなれば、そういうことなのだろう。


「はい、ご名答です。よろしくお願いしますね、葦原さん」


 ……菫の花が、ほころんだかと思った。

 その美しさたるや紅と良い勝負だと思い至り、ハッとして、ずけずけ人の脳内に土足で踏み入る神を追いやる。


「……あれ? 高千穂先生は、なんで私のこと知って……?」

「生徒名簿にひと通り目を通していたんです。教頭先生が、写真つきのものを作ってくださって」


 ひと通りとは、もしかしなくても全校生徒を網羅したという意味だろうか。入学してひと月経たず、穂花ですらあやふやなクラスメイトがいるのに、だ。なんという記憶力。


「見たところ熱はなさそうですが、貧血かな。休みますか?」

「いえ! 寝込むほどじゃないので……最近食が細くなって、栄養がちょっと足りてないのかもしれません」

「環境が変わって、疲れが出ているんでしょうね。これから少しずつ高校生活に慣れていけば、だんだんよくなると思いますよ」

「……ありがとうございます」

「いえいえ。なにか心配事があれば、気軽に保健室に来てくださいね」


 なんて親切な好青年なんだろうか。どこかの変態付喪神とは大違いだ。花と見まごう頬笑みに、ありがたみを噛み締める。

 そんな中、「それでは」と結んだ朔馬が1歩を踏み出し、


「――無理は禁物ですよ。もっとご自身を大切になさってください。なにかあってからでは遅いのですから」


 ……と、声をひそめた。

 終始人の良さげだった好青年は、いまこのとき、得体の知れぬ光を宿した菫の瞳を穂花に、穂花だけに寄越した。

 ざわつく胸。眠っていたを揺すり起こされるような感覚。

 何事か問いかけようとした穂花の言葉を、生真面目な予鈴が打ち消した。

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