*10* 此花咲くや
くすぐられるような感触に、夢路の奥底から浮上する。
常夜灯に映し出される木目。見慣れた天井。薄明るい自分の部屋。
ぼんやりと夢見心地に浸っていた
「わっ……
血のような長い舌でちろちろと左の頬をくすぐる犯人は、天色の鱗を持ち、常磐色の瞳で穂花を見つめる、ちいさな蛇だった。
といっても角が生えていたりと、蛇らしからぬ姿をしている為、あくまで似たようなもの、という認識ではあるが。
「蒼ったら、くすぐったいよ!」
たまらず飛び起きれば、蒼は跳ね退けた羽毛布団の端を這い上がり、穂花の左の手の甲に身体を寄せてこてん、と頭を前に垂れる。ごめんなさいとでも言っているかのよう。
これでは憎むに憎めない。思わず笑ってしまって、名前を喚びながら、蒼を手のひらに乗せた。
まったく、このちいさな蛇は、以前飼っていた柴犬のクロよりも利口だから困る。
犬が甘えるように、またちろちろと手のひらを舐めてくるものだから、両手で持ち直し、むにゅ、と身体を軽く摘まんでみた。
あう、と聞こえてきそうなまん丸の瞳で身体を反らされては、愛らしい以外になんと言うのか。
ひと口に鱗と言っても、蒼のそれは存外やわらかい。ふにふにとした感触が楽しくて、いつまででもさわっていたくなる。
これほど可愛らしい蒼が、大蛇の姿をし、猛毒を吐いて人を死に至らしめる妖、螭(みずち)などという紅の話は、未だにまったく信じていない。
「お目覚めですか」
熱中していたがゆえに、不意の問いかけで、思考が一時停止してしまう。
自宅、それも自室に、自分以外の誰がいると予想できよう。注意を凝らして初めて気づいた。
「お加減は如何ですか?」
布団の傍にそっと控えていたのは、見知らぬ人物。いや、人というよりは――神。
それがわかったのは、どことなく紅と似た空気を身に纏っている為だ。
「とっても元気、ですけど……?」
「それはようございました」
ふわり、とほころぶ頬笑みは、桜を思わせる花の芳香を伴った。
艶のある紫紺の絹髪。柔和な菫色の瞳。桜色を基調にした衣に身を包んだ姿は、昔話に登場するようなお姫様みたい――と穂花は息を飲む。
言葉を忘れ魅入っていると、はたと気づいたように彼女は眉尻を下げる。
「ご挨拶もまだの身で、とんだ失敬を。無断で御前に侍りましたご無礼をお赦しくださいませ、穂花様」
完璧な角度で三つ指をついてお辞儀をされては、単なる一般庶民でしかない穂花はすっかり面食らってしまった。
「あっ、これはご丁寧に……えっと、ひょっとして神様……ですか?」
なにも知らない人間からすれば、世にも奇妙な問いだ。もし違ってたらどうしよう、と遅れて追いかけてきた焦りは、見事杞憂に終わる。
「えぇ、お察しの通り。私は山の神オオヤマツミの子、コノハナサクヤヒメと申します。お気軽にサクヤ、とお喚びくださいまし」
実際のところオオヤマツミとやらがどれほど偉い神なのか知る由もないが、きっとそれなりの位なのだろう。
コノハナサクヤヒメ――もといサクヤの洗練された言動から推察することは、実に容易だ。
「サクヤさんは、うちになにかご用事ですか?
極めて珍しいが、本当のことだ。なにかにつけくっついてくるあの変態付喪神の影がまったくないのだから。
「えぇ、存じております。私がお伺いしましたのは、穂花様――貴女様とお会いする為にございます」
「私……?」
同じ神仲間であろう紅でなく、人、しかも面識のない自分に用事とはなんだ。まったく見当もつかない。
首をひねる穂花の前で、つと花の頬笑みがひそめられる。
真摯な菫の瞳……ドクン、と胸が鳴動する。射抜かれたかのごとく硬直した視界の端で、ちらりと影がよぎった。
――蒼だ。サクヤに向かい、口を大きく広げ、血色の舌、鋭い牙をあらわにしている。
これは威嚇だ。子供のころ、野犬に噛まれそうになったときに、こうして蒼が護ってくれた。
むやみやたらと他者に危害を加えぬ蒼の敵意は、サクヤに対する疑念を花開かせるには充分なもの。
にわかに訪れる緊張。沈黙を破ったのは、花の芳香を纏う神であった。
「そう……うつけ者は私。おまえは兄上の言いつけを違えず、悪者から身を挺して主を護ろうとした。だから……なにひとつ恥じることはない」
うわ言のように呟いたサクヤが手をかざした、ほんの一瞬だった。
たしかにそこにいたはずの蒼が、忽然と姿を消す。後にはひらりと、桜の花びらが舞い落ちるのみ。
「あ、蒼……っ!」
「ご安心ください、少し席を外してもらっただけです。蒼には悪いですが、今宵はどうしても、ふたりきりで貴女様とお話ししたかったもので」
声色は相も変わらずやわらかなまま。その心情は、深い霧がかかったように推し量ることができない。
「……私が恐ろしいですか」
ぎくり、とした。額に、こめかみに吹き出す冷汗。
硬直した穂花の耳に嘆息が届く。物悲しげにまつげを伏せたサクヤのものにほかならなかった。
「私が貴女様を害することは、天に誓ってありません。どうか、わかって……細君」
「……さい、くん」
すぐに理解できず、おうむ返しのように繰り返す。
続く言葉は、穂花をより一層混乱の淵へと追いやった。
「はい。遥か太古の昔に、私は貴女様と夫婦の契りを交わさせて頂きました。……きっとお忘れでしょうが)
「夫婦って……私、あなたのこと知らないし、それにあなたは――」
穂花の言葉は最後まで続かない。華奢な細腕からは想像もつかないほど、力強く抱き寄せられた為。
着物越しに頬へふれた胸は――予想に反して、かたい。
「私は……貴女様の夫です」
そして鼓膜を震わせる声音は、女人には出せぬ音域。
「おとこ……の、ひと?」
呆然と見上げる穂花の頬を、するりと撫でる手がある。
「……えぇ。このまま貴女様を掻き抱いて、口付けでも交わせたなら、恐悦至極なのですけれど……」
言葉じりを濁したサクヤの麗しい顏(かんばせ)が、ぐっと距離を詰める。
反射的に身を強ばらせ、硬くまぶたを閉ざした。
しかしながら、覚悟した感触は訪れず、代わりに右の肩へ重みがかかる。
「え、あの……大丈夫ですか!?」
気づけば声を上げていた。もたれかかられた肩口で、不規則な呼吸と苦しげなうめき声を耳にしては、致し方なかろう。
「少し、慣れぬことをしたものですから……ご心配には、及びません……」
身体が熱い。衣越しでもわかる高熱だ。
直前まで変わった様子はなかったのに、どうして。
「とりあえず、休みましょう! 横になれますか?」
細かいことは後回しだ。身体を反転させ、先ほどまで自分が休んでいた布団を譲ろうと肩に手をかけたときだ。
「貴女様という御方は……本当に、お優しい」
泣きそうに笑うサクヤの声音が聞こえた刹那、身体にかかる重力が格段に増す。
「ひゃっ!」
あまりに突然で、布団に倒れ込むことは免れない。
自分はまともに病人も寝かしつけられないのか。情けなさに穴があったら入りたくなる。
起き上がろうにも、四肢はうんともすんとも言わない。ひとえに〝なにか〟にのしかかられている為。
「至らぬ私を、咎めるどころか気にかけてくださる……何百年、何千年の時が経とうと、本当にお変わりない……」
ここで漸く気づく。自分の上に在るのは、落とせば割れてしまいそうな美しい少女……いや、少年ではないのだと。
そして、華奢ながらも筋ばった身体つきをした青年の、菫の髪、菫の瞳、柔らな声音を、自分は知っていると。
「そんな貴女様だから……どこまでも、愛おしくなる」
熱っぽく、切なげに訴えかける見目麗しき青年を、見まごうはずもない。
「――
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