*9* 小袖の五月雨

「べに、おんぶ!」


 大粒の琥珀が、まだ茜の空をうんと見上げていたころ。数拍を経て、丸みを帯びた紅玉がふ……と和らぐ。


「……本日は〝だっこ〟ではないのですな?」

「おんぶがいいの!おんぶ!」

「御意のままに」


 何故という言外の問いに、ほのは我を突き通す。

 主は齢3歳を満たした程度だ。適当であるか、とべには結論づける。

 黄金色にほの光る草むらにて右の膝頭をつく。背を差し出せば、幾許いくばくもなく肉弾に見舞われる。

 逃げるはずもない相手めがけ、いとけない少女は思いきり踏み切ったらしい。

 お次は奇妙な息苦しさを覚える。両肩にかけて摩擦を伴うそれは、おそらく、常日頃から紺青の衣と合わせているさくらがすみ領巾ひれを引っ張られている為と思われる。


「お馬ごっこをご所望か、吾妹」

「ひらひら~」


 問いが聞こえているのかそうでないのか、穂花は此花色の服飾をくいくいと引っ張るばかり。

 紅の神気により、平生は重力の洗礼を受けることなくひらり、ふわり、と大気を漂う細長い布切れは、手綱と化したようだ。

 けれども紅は抗議も追及もしない。主の言の葉すべてが、己にとって是である為だ。

 そっと腰を上げれば、さやさやと葉桜がささめく。

 宵を運ぶ緋色の風は、首筋を撫で、身をぷるりと震わせる。


 ――寒いのは厭だ。


 背のぬくもりをすぐにでも胸へ抱き直したい衝動を堪え、影の敷かれた山道を踏み出す。

 さく、さく、と落ち葉を踏みしめる音。そよ風の散歩。枝葉の内緒話。

 下りを始めてからは、水を打ったような静けさに包まれる。手綱を引かれる圧迫感は、いつしかなくなっていた。


「吾妹」


 ひとたび喚びかける。返事はない。

 歩みのゆりかごに、夢路へ旅立ってしまわれたのだろうか。それでも構いはせぬと、草笛は奏でられる。


「吾妹、お出かけの折は、せめて蒼を供におつけくださいまし」

「……なんで?」


 返答あり。確証を得て、ひそめていた声を少しばかり張る。


「もし吾妹になにかあったら。そう思うと、紅は身が焼き切れそうになります。出来るなら、まばたきの間もお傍を離れたくないのです。しかしながら、私欲のために吾妹のお心へ土足で踏み入ることもはばかられる」


 返す言の葉がなければ、それは紅の独りごちと成り下がる。

 きっと、一生懸命にしゃくをしているのだろう。幼い主がどれほどを理解したか定かではない。

 たとえひとかけらさえ飲み込まれていなくとも、よかった。いまこのとき、ぬくもりがそこに在るならば。


「嗚呼……今宵は五月雨さみだれのようです。雨は厭じゃ。寒い。どうにかやませようにも、あの夕焼けは素知らぬふりで隠れようとする」


 遠く、遥か遠くを仰いだまなざしが、透き通った緋色を細く切りとる。

 薄紫の滲んだ天道は、恐ろしく美しかった。作り物のごとく。


「のう吾妹……雨をやませる手立てはないのでしょうか。この非力な付喪神はなにを致しましょう。なにをして差し上げられますか」


 呼吸がままならないのは、領巾を引っ張られている為ではない。


「…………ごめん、なさい」


 沈黙の後に、そうおっしゃるだろうと。蚊よりもか細い声で謝られるのだろうと、考え至ってしまったが為。


「……吾妹は独りではない。わたしがおります」

「ううん、ちがうの……っ!」


 努めて柔らに語りかけたけれども、履き違えた。穂花が飲み込もうとしていたのは、孤独ではなかった。


「クロも、おかあさんも、いなくなっちゃった。つぎは、ほのか、だから……」

「……吾妹」

「べに、ひとりぼっちにしちゃう……ごめんね、ごめんね……!」


 言葉はくぐもり、ほとんど聴きとれない。

 紺青の衣にすがりつき、泣きじゃくる穂花を背にして、頭を殴られたかのような目眩を催しそうになる。

 ――人は時を持つ。いずれ命の花は散りゆく。それが世の理。

 けれども……違う。違うのだ。彼女に科せられた運命さだめは。


「させませぬ」


 気づけば、水の膜を張る大粒の琥珀が目前に在った。

 いつもと異なったおねだりの意図を十二分に理解した上で、相まみえたのだ。

 黄金色の絨毯に下ろされた穂花は、やがて過剰なまでに肩を跳ねさせ、顔を背ける。

 脱兎のごとく逃げ出そうとしたちいさな身体を、紺青の袖にくるみ込む。


「させませぬぞ。……おひとりでは、ゆかせませぬ」

「でも、ほのか……っ!」

「つまらぬことは考えなくてよろしい!」


 その一喝で、ばたつきがパタリとやむ。

 完全に畏縮してしまった穂花を、ぎゅうと掻き抱いてみせたのは、詫びの気持ちからにほかならない。


「我が身はすでに貴女様のものです。なれども、ひとつだけ、差し上げられていないものがございます」

「べにが、くれてないもの……?」

「えぇ。それを、貴女様が16歳になられましたとき、差し上げましょう」


 穂花は依然として小首をかしげたまま。

 良いのだ。いまはまだ、その時ではないのだから。


「それまでは、どうかこのままで……お辛いときは、この袖の中においでくださいまし……」


 黄泉の女王にかどわかされぬよう、愛しき幼子を、この手で隠してしまおう。


「……ふぇ……っ!」


 ――いまだけは、いまだけは、何人たりとも、立ち入ってはならぬ。

 紺青の闇空に降りしきる五月雨をふいにするようなことが、あってはならぬ。

 たとえそれが、己であろうとも。


「……細君……」


 ただ寄り添うのみという息苦しさは、あと13年という、永久なのだろう。

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