*11* 愛しき口づけを

 つい数時間ほど前に初めて言葉を交わした若き養護教諭は、人ではなかった。

 そればかりか、ほかでもないほのに対して、伴侶である旨を告げたのだ。


「驚かれたことでしょう。一教師が生徒の自宅に無断で上がり込んだとあっては、不信を抱かれても致し方ありません。ですから神体しんたいでお目にかかった次第なのですが……まだ神力を上手く制御できず、申し訳ございません」


 さくが神、そして夫――もちろん身に憶えも証拠もない。

 なのに何故、こうして気丈に頬笑みかけられると、無性に胸がさわぐのだろう。


「サ……クヤ……」


 口を衝いたのは、目前に在る青年の名ではなかった。

 ほとんど無意識のまま、脳裏に刻まれた麗しき神を想い青年へ腕を伸ばすことを、止められない。


「サクヤ、サクヤ……開耶」



 ――此花コノハナサクヒメ――



 思い浮かんだままに言霊を飛ばす。

 菫の瞳が、にわかに見開かれた。


「私を……憶えておいでなのですか?」

「よくわからないけど……とても大切な存在ってことだけは、わかります……こうしてふれられているのが、厭じゃないもの……」


 自身を組み敷いた男に抵抗するどころか、笑顔の蕾をほころばせる穂花。

 慈愛に満ちた手つきで頬を撫ぜられては、朔馬の胸は、塞き止めていた慕情で見る間にあふれ返った。


「穂花……さま」


 朔馬は応えを得るより先に、音を絞り出した唇を寄せる。

 ひとたび逡巡し、こわごわと、桃色に色づいた穂花のそれを啄んだ。


「……っん……」


 穂花は拒むことをしなかった。朔馬が他者を手荒に扱う男ではないと、心の奥底で知っていたから。

 受け入れられているという事実もまた、安堵とともに朔馬へ更なる熱情を与えた。


「ご無礼を、お赦しください……っ!」


 それは余裕をかなぐり捨てた、切なる断り。

 咀嚼する暇などあろうはずもなく、穂花の呼吸は奪われる。


「んんっ……!」


 自由を奪われ、光を奪われ、言葉を奪われ。

 なす術もなく横たわった身体が、痛いほどの抱擁を感じる。

 まぶたの裏を、切実な面影に占領される。

 ふれあった唇から、気をやりそうな熱、甘い花の香りがしみ渡る。

 浅く深く。時に角度を変えて降り注ぐ口付けの雨に、どれほど打たれたことだろう。

 性急ではあるけれども、決して乱暴ではない求めを、おのずと受け入れるようになっていた。

 色欲ではなく、純真たる愛を捧ぐ神を愛しいと、そう想う。

 いとしくて……とても、かなしい。


「……申し訳、ありません」


 ようやく離した唇で、朔馬は謝罪を口にする。


「ごめんなさい……ごめんなさい」


 朔馬は詫びている? なにを?

 かける言葉を見出だせない間も、悲痛な独白は続く。


「私ごときが愛したばかりに……貴女様は、兄上は……」


 ひた謝るまなじりに溜まった朝露は、淡雪の頬を滑り落ち、桜の花びらとなって散った。


「……僕の所為なんです。どうか、兄上を嫌わないで。おねがいします……ニニギ様……っ!」


 ――ドクン。


 幼い少年のような訴えが、時を止め、呼吸を奪った。


「に……にぎ……?」


 口が酷く重たい。自分のものではないようだ。さながら、ぱくぱくと空気を求める魚のよう。

 不気味なほど落ち着き払っていた自分は崩れ落ち、いまとなっては、なんの変哲もない少女が困惑に眼を泳がせるばかり。


たか先生、私は……」

「身勝手であることは重々承知しております。ですが……!」

「その辺にしておけ」


 凛然たる声音が朔馬の言葉を断ち斬る。

 弾かれたように見やった先、部屋の入り口にもたれ掛かる飴色の髪の青年を、穂花が見まごうはずもない。


「まちくんっ! どうしてうちにいるの!?」

「喚ばれたから来た」

「喚ばれた……?」

「言っとくが、一応声はかけた。返事がないから上がらせてもらったぞ」


 ブレザー姿のところを見ると、帰路についたその足でここへやって来たというのだろうか。

 淡々といきさつを述べた真知まちは、朔馬を一瞥。学校指定の鞄を投げ捨てるなり、大股で歩み寄り、朔馬の腕から穂花を引き離した。

 突然のことで、穂花は足をもつれさせながらも、抱き寄せられるまま真知の胸に飛び込むしかない。


「らしくないな。コノハナサクヤヒメ」

「……お見苦しいところを」


 生徒が教師を叱りつける。なんと異様な光景だろう。しかも朔馬はただの教師ではないのだ。

 神に説教を垂れることができる存在を……同じ神以外、穂花は知らない。


「まちくんも、なの……?」


 恐る恐る首を反らす。鼈甲の瞳は、即座に穂花を映し出した。


「俺以外にそんな顔見せんなって、言ったよな?」


 否定は、ついぞされなかった。


「キスまでされやがって……無防備すぎるんだよ、ばか」


 小言を並べ立てている声音にしては、やわらかすぎる。

 甘ささえ孕んだ響きは、忘れかけていた熱を電流に変え、背筋に走らせる。


「まちくん、離して……?」

「聞けないな。離したら逃げるだろ」

「やっ、ダメ……!」

「穂花が怖がることはしない。それは本当だ」


 だからどうか拒まないでくれと、言外の訴え。思慮深い真知が、相手の言葉を遮ってまで主張したいこと……

 穂花を繋ぎとめるために、真知も苦闘していた。


「……まちくんにも、わからないことってあるんだね」

「俺が……?」

「私が厭がる理由、わかってないでしょ? まちくんってば、全然私を見てくれないんだもの……」


 偉そうな口を聞いたかもしれない。

 それでも、束縛の腕をゆるめ、顔を見上げさせてもらえる程度には、効果があったのだと自負してみたい。


「さっきは逃げようとしてごめんね。私、ちゃんと向き合う。まちくんも私を見てくれる?」


 いまだかつてないほど、鼈甲が見開かれる。

 驚愕の色の中に、自分がいた。

 ふ……と自嘲気味な笑みがこぼれるまでに、時間は費やさない。


「俺の負けだ」


 それはさながら、雨の後に虹が架かったような、清々しい敗北宣言だった。

 愛おしげなまなざしをひとしばらく注いだのち、真知は名残惜しげながら、両腕を完全にほどいてみせる。

 次いで、依然として頭を垂れた朔馬を見やる。


「コノハナサクヤヒメ」

「……はい」

「前言撤回。おまえ、よくあの程度で済んだな」


 真知の言の葉は沈黙を喚び入れた。

 朔馬が反応を示さないのだから、穂花の理解が追いつかないのも、尚のことであろう。


「調子狂わせる天才だから、穂花は」


 心を見透かされていた。憎たらしげな小突きは冗談めいていて、数拍ののちに理解。とたん異議申し立ての衝動に駆られる。


「私の所為なの!?」

「自覚がないのって罪だよな」

「普通に話してるだけだもん! ってまちくん、聞いてるのー!?」

「はいはい、聞いてます」

「嘘をつきなさい!」


 適当にあしらう真知を、じとりとにらみつける穂花。ふたりをよそに、くすりと、木の葉が囁いた。


「懐かしい……」


 朔馬だった。いつしか上げた柔和な顔立ちをほころばせ、穂花と真知を見つめていたのだ。

 花の頬笑みに、穂花は顔を赤らめ、真知は居心地が悪そうに首を撫でた。


「おまえって……ほんと、平和主義だよな」

「そう……でしょうか?」

「……無自覚がここにも」


 明言こそしていないものの、穂花には、真知の嘆息が朔馬に対する敗北宣言のように聞こえた。彼の名誉の為に、胸に留めておくが。

 なんにせよ、息苦しさ最上級の物々しい空気が払拭され、穂花としては内心万々歳であった。

 そうして、憶えずほころんだ笑みを見逃しはしなかった神らもまた微笑したことを、少女のみが知り得ない。


「世間話はこれくらいにして。本題に移るぞ」


 真知のひと言で、和んだ空気はいま一度の引き締まりを見せる。

 本題。朔馬が、そして真知が揃ってここを訪れたことの、そもそもの発端となるもの。


「といってもいきなりだとアレだから、まずは確認から。穂花、おまえはどこまで思い出せた?」


 問いに対して、特に違和感は憶えなかった。

〝どこまで思い出せたか〟――すなわち〝忘れている事実がある〟ことを、いつの間にか理解していた為。


「ごめん、そんなには……サクヤのこと、それと〝ニニギ〟って名前に、聞き憶えがあるってことだけしか」

「なるほど。まぁ道理かもしれないな」


 顎に手を当て、しばし思案した真知は、おもむろに口を開く。


「薄々気づいてるだろうが、ニニギはおまえだ。おまえの、神としての真名まなだ」

「私が、神……」


 なんと現実味のない話だろう。

 他人事のように感じるくらいには、葦原 穂花として生きてきた16年は、短くなかった。


「ニニギ――ニニギノミコト。教えてやる。おまえが、どれだけとうとい神であるかを」

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