*3* 憧憬と嫉妬
付喪神とは特定の神を指すものではない。永い年月を経て、道具に魂が宿った類いの総称。とりわけ彼の神は、狐の面に憑いた付喪神だという。
出会いを彩る椿を思い描くままに、
ありし日に立てた誓いを寸分
愛犬を亡くし、母を亡くし、とうとう独りになってしまったいまも尚――
「ほんっと、警備会社も恐れおののくほどの24時間体制だわ……頭痛が痛い」
ゆったりと
「学を生業とせんお方が、よもや母国語を誤られるとは」
「この場合は物理的・精神的と二重の意味で甚だしい頭痛の程度を表す意図的な
「承知しておる。そう照れなさるな、かわいいお人め」
紅の脳内は、負帰還回路で構成されているらしい。どれほど穂花が物申そうと、負かける負で正に変換されるばかりか、増幅された妄想をさも現実のように出力されてしまう。
背後で奏でられた猫なで声は、紅が最上級に機嫌の良い証拠。破顔しているだろうことが、返り見ずともわかる。
首に回された腕の鬱陶しい圧迫感も
「……穂花」
天啓にも似た声音が鼓膜を震わせたのは、たまらずアスファルトめがけて盛大な嘆息を漏らしたそのときである。
「浮かない顔だな。具合が悪いのか?」
刹那、暴落していた穂花の気分は桁違いに浮上。声の主を探し当てることも、実に容易であった。
「おはようございます、先輩っ!」
「あぁ、おはよう」
桜が立ち並ぶ十字路の右手側から、見知った青年が穂花へ歩み寄る。
すっとした輪郭。春風になびく男子にしては少し長い髪は飴色。彫りの深い切れ長の
「思ったより、元気だったな」
「あ、私がバカみたいな言い方やめてくださいよー」
「なら、やんちゃとでも言っておくか。敬語なんて軽口叩くくらいには」
「怒ってます?」
「……怒ってない。けど、ちょっと気持ち悪い」
「ごめんね、まちくん」
「……何度も言わせるなよな」
淡々と抑揚がなくとも、長年の付き合いがあれば、おのずと機微にふれることができる。
怒ることは滅多になく、その心根は慈愛に満ちあふれたかのごとく優しい。ゆえに凛然と端正な顔に
近寄りがたいようで、その実は心配性な世話焼き。穂花が慕うひとつ
「そろそろ、高校にも慣れたか?」
桜の舞う舗道を、連れ立って歩き出す。
まだひとけの少ない通学路は静かで、鶯もまどろんでいるらしい。
「結構クラスメイトとも打ち解けてきたよ。友だちだってできたし」
「……男か?」
「女の子だよ! 私がいつまでもやんちゃだと思ったら、大間違いなんだから!」
幾度となく交わしてきた会話だ。「性別間違えたんじゃないのか」と真知も呆れてしまうほど、同性に縁がなかった穂花である。てっきり今回も、やんちゃをたしなめられたものだと思っていた。
「そうか……ならいい」
思っていたのだが……違ったらしい。
心底
穂花に遊び相手がいないことを懸念する一方で、いざ友人ができたとなると複雑な顔色を見せる。十年来の付き合いがある穂花も、幼馴染の心情が上手くつかめなくなってしまった。
「えと、制服どう? 似合ってるでしょ?」
戸惑いの末に、脈絡もない話題を口走る。
紺のジャケットにグレーチェックのリボンタイとスカートのブレザー姿でこうして登校するのは、なにも今日が初めてではない。今更であることはわかりきっていた。
頭ひとつ分高い場所で、居心地の悪そうな穂花を脳天から爪先まで見下ろした真知は、真顔でこうのたまう。
「馬子にも衣装」
「ひどいっ! 少しくらい褒めてくれても……」
「冗談だ。似合ってる。かわいい」
……不意にほころぶ頬笑みは凶器だ。
歯の浮く台詞をさらりと口にしてしまう真知は、どこぞの神のように下心はない。俗に言う天然というやつだ。これはこれで恐ろしい。
「そういう顔、俺以外に見せんなよ」
なにを言われたのか、すぐには理解できなかった。数拍遅れて、甘やかな
居たたまれず俯いた頭上で、ふっ……と笑みがこぼれる。
「ほんと、おまえってさ――」
ぎゅ、とまぶたを固く閉じる。
息も足も止めた穂花を、静寂が包み込む。
続く言葉、ふれる指先はなかった。
恐る恐るまぶたを持ち上げると、左手を伸ばしたまま、人形のように硬直した真知の姿がある。
「――ふれるな。わたしのものだ」
地底を這うような低音が、右の
……失念していた。どうしようもなく奔放で、優しくて、嫉妬深い神の存在を。
それまで浮遊していた紅は、細首に巻きつけた両腕はそのままに、穂花へ寄りかかるように降り立つ。
真知よりは小柄ながら、同年代の男子とそう変わらぬ体重をかけられることとなり、穂花は顔をしかめた。
「紅……苦しい。離して?」
「
まるで愚図る子供だ。こうなったが最後、機嫌を取るまでなにを言っても聞かない。
途方に暮れた穂花は、ぐりぐりとうなじに擦りつけられる翠の頭を撫でることにした。身動きが取れないため、手首を返して。
「……さいくん……」
やがて聞こえた声音は、蕩けた水飴。
壊れ物を扱うように抱き直され、柔い左頬をすり寄せられる。狐の面が当たらないよう、器用に。
しゃらり、しゃらりと転がる面紐の鈴が、紅の心情を表しているようだ。平素から感じてはいたが、とんだ手練れである。
機嫌は直ったみたい――そう悟った穂花は、おもむろに口を開く。
「まちくんどうしたの、ボーッとして!」
「っ……穂、花?」
反射的に左手を引っ込める真知。いつも起伏に乏しい表情には、いま、わずかながら困惑が滲んでいる。さながら、直前までのことを思い出せないとでも言うふうに。
「寝不足かな。私と登校するからって、無理して早起きしなくていいからね?」
真知のことだから、こうして毎朝顔を合わせるのも、妹分の世話を焼いていた小中学校の延長にすぎないと、穂花は解釈していた。それ以上のことはない。
「……俺が好きでしていることだ。おまえが気にすることじゃない」
だのに、幼馴染は時折期待させるようなことを言う。こんなときは決まって、無性に泣きたくなる。
「行こう、穂花」
あと少しでふれるはずだった左手は、離れた場所で拳をつくる。一足先に踏み出した真知の広い背は、なにを語ろうとしているのだろう。
読心術の心得があるはずもない穂花は、平静を装い、短い返事をすることしかできない。
「紅」
「ご用命か。なんなりと」
「まちくんのこと、呪ったらダメだからね」
ひそめた声で、依然としてまとわりつく神に釘を刺す。すぐさま可笑しげな笑いがこぼれた。
「一介の付喪神に、そのようなことができるはずもなかろう。金縛りが関の山じゃ」
「その金縛り技術を大事にしまってくれていても構わないのよ?」
「なにを恐るることがありまする。視えぬ者を祟るなど、低俗な真似は致しませぬぞ?」
そう……真知は弱者だ。紅や穂花のように神力や霊力を持たない、ただの善良な人間。
もしも紅を瞳に映すことのできる人間が自分以外にもいたのなら、なにかが変わっていたのだろうか……なんて、どうしようもない思考は置いて行こう。
なにも心配は要らない。紅が人間を害することなど、ないのだから。
「……この
――人間を害することは、ないのだから。
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